わたしはずっとあの背中を追い続けてきた。

中学一年の時、お兄ちゃんが出るって言う中高一貫の剣道大会でその背中と出会った。
真っ直ぐ伸びた筋に、しなやかな筋肉、防具を着けていてもその綺麗な曲線はわたしの視線を釘付けにして離してはくれなかった。
「凄いだろう、彼は都内一の腕前だ」そう言った道場の師範の声は、道場で竹刀を握って稽古を付けてくれている時と何だか似ていた。以前「世の中は広いぞ。見ている者を惹き込む打ち方がある」と言われた時は首を傾げてしまったわたしだったけれど、その彼を見た時「ああ、これが」と妙に納得してしまった。

あの日。ばしん、ばしんと大きな音が響く体育館で、わたしはただそんな彼の背中を見たまま佇む事しかできなかったんだ。
そして、目標を見つけた時…人は雷を受けたみたいに身体に電流が走るんだという事を知った。


「あれ?なまえちゃん、今日はテスト明けだから部活無いんじゃ」
「千鶴ちゃん。それがさぁ、大会近いからって顧問が張り切っちゃって。選出メンバーだけ今日は男子剣道部と合同でやるの!また明日ね!」
「うん!がんばってね!」

小さい頃から竹刀が大好きだった。
こう言うと、危ない女とか思われそうだから言っておくけど、わたしは5歳からずっと剣道を習っている。最初は年の離れた兄の影響だった。
実際に兄は強かったし、そんな兄を見て何度も道場に通っていたわたしもいつの間にかその魅力に惹かれ、今ではどっぷり剣道人生まっしぐら。同年の女の子達がお洒落や恋愛にハマッっている横で、わたしは只管部活に稽古に奔走して、両親からは「剣道馬鹿兄妹」なんてからかわれる始末。

「おはようございまーすっ!」

剣道部は朝でも昼でも放課後でも、道場に入る際はおはようございます。
まだ練習は始まっていないからわたしの声は剣道場に良く響く。この学園は兄が剣道が強いと言っていたから頑張って入った。同じ学校には行きたくなくて「あのみょうじの妹」だと言われるのが何だか照れ臭かったからかもしれない。お兄ちゃんはこの世界では結構有名人だったから、そんな兄が「ライバルがいる!」と言っていたこの薄桜学園にわたしは来たんだ。

そのライバルは、あの日。
中学生にして高校三年生だったお兄ちゃんを、三本勝負2−1で負かした相手だ。

「おはようなまえちゃん、合同練なんて久し振り」
「あ、沖田先輩おはようございますっ」
「ねぇ今日は僕と稽古しようよ、久し振りにこてんぱんにしたいや」
「怖い、やだ、絶対にやだ。お断りします」
「つれないなぁ。まあそう言うと思ったけど」

竹刀を定位置に立て掛けると着替えに向う最中、男子剣道部一の腕前でである沖田先輩に声を掛けられた。あ、彼は違うよ!確かに沖田先輩はすっっごく強くて負け無しなんだけど、何と言うか…その、色んな意味で強いの。色んな意味で。わたしが惹かれた「見ている人を惹き付ける」とかじゃなくて…うん。察して。言葉の端々から察してください。これを知った時も、まだまだ上がいるんだなぁなんて思ったりした。

そんなマイペースな先輩に掴まって、いつものやり取りをしていると…凛とした低い声が道場に響いた。


「なまえ。何を立ち話している、早く着替えて来い。総司あんたもだ」
「あれ?はじめ君。君もう来てたんだね」
「裏で素振りをしていた。あんたが来る十五分前には既に着替え終わっていたが」
「師匠!おはようございますっ!」

沖田先輩にいつの間にか抓まれ引っ張られていた頬をそのままに振り返ると、既に剣道着、袴に着替えた師匠こと…斎藤先輩が竹刀を片手にわたし達をじとりと見つめていて、慌てて頭を下げる。

「あはは、なまえちゃんまだはじめ君の事そう呼んでるの?」
「何度やめろと言っても聞かぬ故、諦めた…」
「だって、わたしの目標はずっと師匠ですから!!あ、着替えてきますっ!すみませんっ!あっ!あと今日も稽古付けてくださいね!師匠っ!」
「ああ、」
「へぇ、健気だね。可愛い。実際僕の方が強いのに」
「あんたは人に教える柄ではないだろう」

ばたばたと更衣室に走っていくわたしを見て、いつもみたいにニコニコしている沖田先輩と呆れ顔の師匠。そんな二人に見送られながらも更衣室に滑り込むと、大好きな防具の匂い(変な匂いじゃないよ!)がわたしの心を躍らせた。
きゅ、と袴の腰紐を結うと、だらけた日常から一転し一気に気持ちが引き締まるんだ。
前そんな事を沖田先輩に言ったら「だったら学校にもその格好で来たら?」なんて馬鹿にされてしまったけれど…。
襞の折り目が綺麗な事を確認すると、両頬をぱちんと叩いて「よしっ!」と気合を入れた。格好悪いところは見せられない。目標にしている人に見られている緊張感。それはわたしを一層強くさせる。

はず…。


「じゃあ、各自ペア組んで稽古始めな!道場入りきらねぇってんなら外使ってもいいぞ」

その後、いつもの部活風景が戻ってきて女子部員も男子部員も一気に集中する。大会も近い上、最近までテスト習慣だったからうっぷんが溜まっていた人も少なからず居るだろう。掛け声も竹刀がぶつかり合う音も、いつもよりずっと気合が入っている気がした。

「なまえ、俺達は外でもいいか」
「はい!わたし師匠とでしたら例えコンクリートの上でも泥濘の上でもどこでもいいですっ!」
「…あんたのその熱い忠誠心は何なのだ」
「え、好きな人には皆そんなもんじゃないんですか?」
「…っ、」

いつもは順に稽古をするのだけど、今日は特別に皆が同時に打ち合う試合形式。道場は決して狭くはないけれど、来ている部員全員が試合をする場合そのスペースは不十分なのだ。
いつもこうしてわたしを指名してくれる師匠(わたしが無理矢理頼み込んでいるとも言う)と、白熱している他の部員を見ながら外へと出て行く。
まだ桜舞い散る道場の裏手で二人練習を始め、春先だと言うのにわたしは汗だく、師匠に至っては面を付けているにも関わらず何故か汗の一滴すら拝めないまま時間は過ぎていく。

「その構えでは何れ居付く事になるぞ。相手に隙を与えてしまう」

ああ、やっぱりこの時間がわたしは一番好きだ。

「理業一致を忘れるな」

だって、真っ直ぐその背に手を伸ばせているんだから。


「はぁああ、疲れたっ!」
「少し休憩にしよう」

面を外しどさりと木の麓に倒れこんだわたしは、いつの間にかぜえぜえと全身で呼吸をしていた。
タオルで汗を拭っている(わたしには一滴も見えないけど)師匠は、空を見上げいつもより強い太陽光に目を細めながらも同じ様にわたしの隣りに腰を降ろす。わたしは目を閉じ、暫く緩やかな風を頬に受けながら呼吸が収まるのを待つ。師匠はとても物静かな人だからこの時ばかりは沈黙が流れる。でも一度もそれを気まずいと感じた事がない。

剣道の事になると、これでもかってくらい大きな声を出すこの人が好きだ。
こんな面倒くさい女を嫌な顔一つせず高みに導いてくれるこの人の剣が好きだ。
小さい頃から始めた剣道を、今この場所でまだまだ好きにならせてくれるこの人が、大好きだ。

「…なまえは、何故俺に習いたいと思ったのだ」
「え?」

いつもはこのまま沈黙の時間が流れて、また練習を再開するのに、今日は珍しく師匠から言葉が掛けられる。部活をしている間は私語はいらないって人だから思わず驚いて変な声が出てしまった。

「お兄ちゃんがライバルって言ってたから?」
「…それだけ、か」
「あー…いやぁ、そう言う訳でも無いんですけど…」

実は、わたしは言ってない。
中学の時に、師匠の試合を見て惹かれ、憧れ、背中を追っているのを。
ただわたしが勝手に押しかけて「貴方の剣道を教えてください」なんて言ったんだから。…まぁ勿論最初は相手にされなかったけど。悔しいことに兄の名前を使いやっと渋々ながら引き受けて貰ったってだけ。

「なんて言うか…師匠…斎藤先輩の剣ってわたしが目指してた理想って言うか、目標なんです」
「理想…」
「はい!通ってる道場の師範もわたしに取っては師ですけど、憧れとはまた違って…たまたま見かけた斎藤先輩の背中がいつまでも忘れられなくって、迷惑覚悟で追いかけて来ちゃいました」
「………俺は、」

テストが終り生徒も疎らな校内。静かな風の音に混じって、道場からは相変わらず竹刀がぶつかる音が響いている。そんな中、のんびりと座り話をしているわたし達は、同じ志を持つ者同士には違いない。だからこそ、ここまで居心地が良いんだろう。

「最初、からかっているのだと思った」
「そんな」
「ああ、だが。あんたの兄に頼み込まれた時にその真を知った」
「え!?ええええ!?お兄ちゃんそんな事してたんですかっ!?」
「あんたには黙っていてくれと念を押されたがな」
「うわあ、恥ずかしいっ!」
「中学の時、あんたの兄と試合をした時から俺も一層剣道に打ち込む様になった。感謝している」
「きっと喜びます。お兄ちゃん」
「…また手合わせ願いたい」
「それだときっと果たし状とか送られてきますよ?」
「…………それは熱いな、」

お互いに笑いを含みながらこうして会話をするのは、実は初めてかもしれない。
いつもは部活が終わったら校内でもあまり顔を合わせる事が無いし。部活に来れは合同練習があるけれど、こういった話を普段はした事無かったから…。


「……それに…俺は、少し勘違いをしていた様だ」

また訪れた沈黙の後唐突にそう言われなんだろう、と思いちらりと視線を送るとタオルを頭から被った斎藤先輩が俯いているのが見えた。風にタオルを攫われ無い様に両サイドをきゅと握っているからその表情は窺い知れない。

でも、耳が…何だか。

「あの先輩?赤くなってますよ?暑いんですか…?」
「いや、違う…っ、なんでもない」

その時、集合の合図が道場から聞こえ首を傾げながらもわたしは身体を起こす。ああ、袴の襞がぐしゃぐしゃになってる。取り合えず適当に直そうと立ち上がったところで、突然わたしの手首を捉える何か。…それは未だタオルを頭に掛けたままの斎藤先輩の左手で。
「ど、どうしました?」と戸惑い声を掛けるが、未だその竹刀ダコでいっぱいの手の平はわたしを掴んだままで、頭のタオルはやっぱり風に遊ばれている。
集合の合図が掛かっているのに腰を上げない先輩は始めてで、まさか具合が悪いのだろうかと心配になってしまって傍らに再び膝を付いた時、突然わたし達の間に強い風が吹いた。


「し、師しょ」
「…今度、学校が休みの日、あんたが通っている道場に行ってもいいだろうか」
「へ?」
「剣道と同じ様に…俺も、あんたをもっと知りたい」


今の風に寄って結局飛んでいってしまったタオルが視界の隅に映り、更に陽に照らされた斎藤先輩の顔は真っ赤になってわたしを見上げている。


「俺もあんたのその真っ直ぐな背に惹かれた。それが理由だ」
「し、ししょ…、」
「己の背は己では見えない故、ならば俺はあんたの背を見ていたいと思った」

頬を赤く染めたまま、わたしを引き寄せた師匠はいつも部活中には見た事の無い優しく微笑みながらそう言った。





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(そ、そうまでしてわたしの事を…考えてくださっていたんですねっ!)
(は?あ…いや、今は剣道の話では無く、)
(了解しました!お兄ちゃんにも師範にも言っておきますっ!共に休日返上で稽古いたしましょうっ!師匠!)
(そうではない!俺はあんたがっ…)

(お前ェら何やってる!集合だって言ってんだろうがっっ!!!!)


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