「些細な事であろうとも、力になれる事があれば遠慮なく言うといい」
「は、はい!斎藤さん、あの」
「なんだ」
「ありがとうございます、助かります」

横目にすらりと流された瞳を追う様に見上げれば、わたしに背を向ける様にして襟巻きを直した斎藤さんが「礼には及ばぬ、あんたは何も悪くない」と、小さな声でそう告げ縁側に降りると、部屋から続く襖を静かに閉めた。

先日。日柄も良い夏のいち日だった。
朝早くから朝餉の準備を行っていたわたし。もう一人の当番は藤堂さんだったのだけれど、いつまで待っても現れ無いので寝坊でもしたのかと苦笑いで独り土間を行き来していたところに、どんな早朝でも隙ひとつ見せぬ斎藤さんが「平助はいるか」と引き戸から現れたのだった。
そこまではいい。良くある事なのだ。しかし、その日は太陽の位置が少し高かったのか、彼の声に振り返った時に窓の隙間から漏れた夏のひかりに一瞬顔を顰めた。咄嗟に手のひらでひさしを作ろうと身体が反射的に動いた時、その手に何かが思い切りぶつかり鈍い音を立てた。次の瞬間には斎藤さんの珍しく切羽詰った様な声でわたしの名前を呼ぶ音と、堅砂で均してある土間にがらんがらんと大きな音が響き、煮詰めていた味噌汁鍋が盛大にその砂地の色を変えたのだ。

結果、わたしは右足に煮立った味噌汁を浴び、恐らく完治するまでひと月を要する程度の火傷を負い、ただわたしに声を掛けただけの斎藤さんから「すまない」とお釣りがきそうな程の深甚な謝罪を何度も聞くことになったのだった。
斎藤さんは悪くないです。と何度も何度もそう言ったが、当の本人は「いや、あの時火を扱っているあんたに矢庭に声を掛けたのは俺だ」と、取り合ってはくれなかった。
そして、平に平にと謝られた後、慌てるわたしの目をきっと見据えて彼はこう言ったのだ。

「あんたの火傷が治るまで、身の周りの事で出来るだけ俺にやらせてはくれぬか」と。



そして今、わたしは身体を濡れた手拭いで拭いながら盛大な溜め息をついていた。

「わたしってばほんと、あの天下の斎藤さんに何をやらせてんのよ……」

今日も今日とて、朝起きてから普通に朝食を作り、稽古場から聞こえる鍛錬に励む隊士の皆さんの声を聞きながら井戸で洗濯物を洗い、庭に干す、その後も意外とやる事はぽつぽつと残っていた…筈だったのに。

『おはようみょうじ。火傷はどうだ』
『あ、おはようございます。あの別に、大事にはなってな…』
『いい、分かっている、気にするな。あんたはもう居間で待っていろ』
『あの、ちょ…』

朝はずっとこんな感じで、土間に下りることすら許可が下りない。
わたしよりずっと要領良く朝餉の準備をしていく斎藤さんの背中は、やっぱりどこか落ち込んで見えたし、何より可哀相だったのは朝早くから叩き起こされたらしい藤堂くんの真っ青な顔と、伸びた背筋だった。藤堂くん曰く「なまえが怪我してからはじめ君の機嫌が悪い…朝から鬼の様な睨みで、まさに地獄の目覚めだった」との事。

その後足を引き摺り洗濯物を抱え井戸まで行った時なんて、稽古中だと言うのにも関らず竹刀を持ったまま息を切らし飛んできて開口一番「座っていろ!」です。
冷たい井戸水でたくさんの隊士の着物や隊服を洗い、千鶴ちゃんと並んでせっせと洗濯物を干していく斎藤さんの姿を見て、わたしはなんだか泣きそうになった。
いつも凛として、皆の憧れでもある彼になんて事をさせているのだと。自分が情けなくなった。いつも真っ白な襟巻きの裾は、地面に触れて汚れていた。

彼が非番の日なんて、本当に一日中傍に居てくれた。
誰も手が空いて居ない急がしい日に買い物をかって出た時には「俺も用があるのだ」と気を使ってくれて、「用事は急を要するものではない故、またで良い」と言葉付きで、重い荷物を両手一杯にゆっくり帰路を辿ってくれた。

女が、武士にさせることではない。
それは勿論、理解していた。が、その反面わたしは内心喜んでいたのかもしれない。


斎藤さんが、わたしを気に掛けてくれている。
それに罪悪感を持ちつつも、わたしは僅かに悦喜していた。

勿論、他の皆さんもわたしの怪我の事は知っているし、斎藤さんが土方さんに直々に頼み込んでわたしの世話をする事も承諾済みだと言うのだから困った物だ。
わたしが何をしようとしても、いつの間にか直ぐ傍に現れ「何をすればいい…」と、ぎこちない小さな笑みを浮かべて問う斎藤さんがもう…っ、なんと言うか、特別だとそう思っていたんだ。


「斎藤さんも…疲れてるだろうにわたしったらさぁ。本当どうしようも無いわ」

今も、斎藤さんに引き摺られる様にして訪れた町医者に「暫く湯浴みは控えて」と言われてしまい、一日にこうして部屋でひっそり身を清めている。そして当然の如く、この桶にたっぷり入れられた適温のお湯は斎藤さんが用意してくれた。多少ぴりぴりと痛みはするが、薬が効いているのか今は余り気にならなくなったがやはり普段通り歩くのは難しい。けんけんと覚束無い歩き方をするわたしを見て、斎藤さんは眉をぐっと寄せるのだ。

「さっさと治してさっさと復帰!世話されるのは嬉しいけど、これ以上迷惑掛けて堪るもんですか…っ、ひぃい!痛ぁああいっ!」

思い通りにならない自分の右足と、不甲斐無さに少し爛れた幹部を力任せに拭うと案の定悲鳴の様な声が漏れて部屋に広がった。と、次の瞬間すぱんと開かれた襖。

「みょうじ!どうしたっ!?」

そして襖を開け放った体勢で声を上げる斎藤さんが逆光の中立っていた。

ああ、またやってしまった。と手拭いを掴んだまま口を開けるわたしなんてお構いなしに、足を踏み出し傍らに膝を折った彼は、痛々しい表情をしながらわたしの脚を取った。たくし上げていた着物の合わせ目が崩れていくが、今の彼には少しも見えていないのだろう。真っ直ぐな瞳で患部を見下ろしぐっ、と息を飲んだ。

「さ、斎藤さん…」
「無理をするなと言っただろう…、薬はどうした」
「あ…あのまだ今から、です」
「…酷く、痛むのか?」

窺う様にそう呟いた彼の口は真一文字に結ばれていて、いつもより低音が効いた声が届き触れている部分が熱を帯びる。
「ううん」と首を横に振ると、斎藤さんはそれに返事もせず傍らに置いてあった付薬を綺麗な手で攫いやった。

「あの、薬なら自分で濡れますよ!」
「いい、俺がやる…」
「で、でも…斎藤さんにそんな事させられませんっ!あなたに憧れている隊士の方に斬られますっ!過保護すぎますよっ!」
「あんたは直ぐそう言い俺を気遣い拒んでくれるが、何か勘違いをしている…これは過保護などでは無く…ただ、俺が、」
「え、」

その言葉と同時に、彼の膝に脚を置かれ患部を優しくなでられる。痛みなのか、ふいに触れた彼の指先の熱によるものなのかは定かではないが、思わずぴくりと肩が撥ねる。それが無性に恥ずかしかった。労わるように往復するその手の平にはまだ薬は無いのに、触れられる度に痛みががどこか彼方へと飛んでいってしまう様な不思議な感覚。思わず目を伏せると、大きく平いたままだったわたしの着物の合わせ目を右手で直しながら、小さな声で斎藤さんが「わからぬか…?」と、そう言った。

顔が見られないくらい、自分の瞳は揺れているだろう。
素足を撫でられているから恥ずかしいだとか、傷口に触れているから痛いだとか、そんなものじゃ無い。


「あんたが思っているよりずっと…俺には罪悪感がある。だが、それだけでここまで甲斐甲斐しく他人の身の世話を俺がするなど、そんなわけがないだろう…」

いつの間にか薬が脚に触れ、冷やりとした感覚が身体を駆け上がっていく。反射的に目を開き視界を取り戻すと、そこにはこちらを流し見、薄く笑っている斎藤さんが居た。ここ最近ずっと見てきた痛々しいそれでは無く、どこか熱を孕んだような熱い眼差しを受け止め一気に身体に力が入ったのが自分でも分かった。

「…ここまで言っても、伝わらぬか…?」
「え、えっと…つまり、」
「いや、いい。弱っているところに、付け込む様な真似はそれこそしたくはない…」
「いや、全然弱ってなんてないんですけど…」

するすると満遍なく薬を塗られて丁寧に包帯を巻いていく斎藤さんの手付きはどこかもたくたとぎこちなかったのだが、そのお陰で自ずと分かってしまう。

「もし、火傷を負わせたのがわたし意外の人だったら、斎藤さんはどうしてましたか?」

われながら意地悪な質問だと思った。
けれど、止らないのだ。ここまであれこれ甘やかして置いて、ここまで心を熱くさせて置いて、知らぬ存ぜぬでは済ましたくない。済んで欲しくないのだ。


「……医者へは連れて行った、と、」
「…ふふ、それだけですか?斎藤さんは意外に薄情なんですねぇ」
「あ、いや!違う、もちろん経過も見守る…と思う。だが、その…」
「だが…?」
「…っ、もういいだろう!今からは何をするのだ、言えっ!」
「聞きたかったのですが、」

包帯を綺麗に結び、結び目を隠す様に押し込みながら「あんたは意外と意地が悪いのだな」と、ばつが悪そうな声が聞こえる。さらさらと前髪を落としながら顔を隠す斎藤さんを見てもう一度「ねぇ」と彼の名前を呼べば、もっとそっぽを向かれてしまった。

「薄情と思いたくば思えば良い…。みょうじだから、ここまでしてやりたいと思った…」
「嬉しいです…」
「…満足気だな、」
「ええ」
「ほ、他に用が無いならもういいだろう!何かあったらまた、」

おもむろに腰を上げた斎藤さん。立ち上がるより先に、畳みに垂れたままの先端が汚れた襟巻きを救ったわたしは、顔を赤くしている斎藤さんに「じゃあこれが最後のお願いです」と前付けし、お茶を二つ淹れて欲しいと頼んだ。ここに来て素直に言い付けたわたしに驚き目を丸くした彼に、さらに追い討ちをかける。


「そして、わたしと並んでお茶を飲みながらお話してくださいませんか?そして、言葉で…斎藤さんの声で、たくさんわたしをちやほやと甘やかしてくださいませんか?今までの分もまとめて、全部」

その言葉に、返事なく立ち上がった斎藤さんは背を向けたままこう言った。


「それは、最後などと言わずいつでも頼むといい。いつでも…”ちやほや”してやろう。…直ぐ戻る」


逆光の中でも、彼の顔が一足早い夕日色に染まっているのが見て取れた。







かほごじゃない、ちやほやしたい


(げほッ!苦いっ!斎藤さん!お茶、これ苦いですよ!)
(煩い、良薬口に苦しと言うだろう…)
(何か盛ったんですか!?いや、あのわたしただの火傷なんですけど、口に苦いと関係ないんですけど!)
(いいから飲め)
(もしかして、からかった事怒ってます!?ちやほやしてって言ったのにっ!)
(これを飲み干せばあんたが根を上げるまでちやほやしてやると言っているだろう!)



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