『あんたが好きだ…』


昨日。
突然缶ビールを二本持って、わたしの部屋を訪ねてきた斎藤先生が、俯きがちにそう言った。




「斎藤、みょうじ、只今戻りました」

先に職員室のドアを開け放ち、颯爽と中へ入っていってしまった斎藤先生の背中に続けば、校内では数少ない暖房の暖かさが身体を纏い、思わずほうと緩い呼吸を零してしまう。
両手には重いなんてもんじゃない沢山の荷物と、少しばかり疲れた顔。そんなわたし達を迎えた他の先生方から「おかえり」「お疲れ様です」と、心ばかりの労いを受け、わたしはここでやっと、長い二日間が終りを告げたのだと実感し力を抜いた。

普段自分が使っているデスクへと荷物を降ろすと同時に、重さの所為で止っていた指と腕の血液が巡回を始め、じんじんと熱くなるのを感じながら盛大な溜め息を吐く。ちらりと、向かい側のデスクを見やると、いつも通りの涼やかな表情で同じ様に荷物を置き、スーツの上着を脱ぎ椅子の背に掛けやった斎藤先生が見えた。

「お疲れ様、修学旅行の下見どうだった?って言っても…毎年同じ場所だから代わり映え無いけどね」
「沖田先生、お疲れ様です」
「うん。って言うかすっごい荷物だね、何?お土産?」
「あ、はい!これ先生方に」

わあーい、と子供みたいに万歳して喜ぶ沖田先生は斎藤先生と同じく今年度二年生を受け持つクラス担当の教師だ。
わたしはまだ教師になって二年目で、修学旅行生を担当するのが今回初めてだから、彼には下見するに当たって何を重要視すればいいのか、出発前から色々と教えて貰っていた。担当と言っても、わたしは副担任であって…つまり、言うなれば斎藤先生の補助的役目に当たる。

「でもはじめ君…っと、ここでは一応先生呼びじゃなきゃ駄目かな。斎藤先生と一緒に下見だなんて窮屈だったでしょう?昨年は僕と行ったんだけど、遊ぶどころか規程ルート通りにしか行動させてくれなくて、就寝も生徒と同じ22時ピッタリ。全然楽しくなかったんだもん」
「………え、あ、えっと、」
「だから毎年校長に、もうお決まりの修学旅行先を一転して海外にでも行きましょうよって言ってるのに、中々乗ってくれないんだから…」
「海外…、うちの学校は公立ですよ。沖田先生」
「うん、知ってる。でもたまにはこうでもしないと僕達の割に合わない気がしない?みょうじ先生もそう思うでしょう?」

流石はフリーダムティーチャーの名を校内に轟かせている彼だ、言っている事がまるで遊びのソレ。ガサガサと机の上の土産物を漁りながらも、そんなコメディ漫画みたいなアイデアをぽんぽん口にする辺り本物だと思う。勿論それだからこそ生徒達には好かれているのだけれど。
「あ、緑寿庵清水の金平糖だ、僕コレがいい」と、老舗の紙袋を掬い上げ去っていくその背中をぽかんと見詰めながらも、わたしは遅れて「どうぞ、」と一人呟いていた。


今は、平日の放課後に当たる。
既に教員用入り口を潜った時点で部活は始まっていたし、それ以外の生徒は殆ど下校している時間だ。「教員たるもの、出勤扱いになっている以上、帰還時には学校に寄るのが勤めだと思う」と言った斎藤先生の言葉に頷き、下見から都内へ帰ったその足でこうして学校へと戻って来たんだけれど。休んだ間中たまりにたまって、今にも机の上から雪崩れを起こしそうなプリントを眼前に、わたしはさっそく頭を仕事モードに切り替えようと何とか勤めていた。

しかし。どうにも頭がぼーっとして、スイッチが入らない。



「おう、斎藤、みょうじ。戻ったか。ご苦労だったな」
「土方先生。只今戻りました」
「あ、お疲れ様です。土方先生」

自分が持っていた分の土産物を他の教師に配り歩いていた斎藤先生が、扉を潜って職員室に現れた土方先生に気付き頭を下げた。
それに手を上げ応えると、斎藤先生が差し出した土産を受け取り「今年もすまねぇな」と、眉間の皺を伸ばし笑っている。「帰って来て早々悪いが、」と、さっそく修学旅行の日程について思案し始めた斎藤先生と土方先生を見て、わたしは未だぼーっとする頭で、自分の元にある土産を捌く為に動き出した。


確かに、11月に控えた修学旅行の下見役がわたしと斎藤先生に決定されてからと言うもの、ずっと緊張はしていた。
だってこれも勤務の一環だとは言え、あの斎藤先生と二人で旅行だ。旅行。
教師になる為に高校、大学、そして就職してからも懸命に夢に向かい精勤してきたわたしだ。男性とのお付き合いなんて考えた事も無かったし、それこそ最近の若者は進んでいると聞く中、わたしは異性と手を繋いだ事すら無かったのだ。勿論、全てに置いて仕事優先だと考えるわたしに取って、そんな事は二の次だったし、これからもそれは代わらないと思っていた。同時に、斎藤先生も似たような考えの人だと。そう思っていたんだ。

しかし、何故だろう。
この二日間はとても濃い二日間で。未だに、わたしは現実へと戻ってはこれて居ない。
一日目の夜にホテルに着き、22時を過ぎ、寝ようとしていたわたしの部屋のインターフォンが鳴った時から、夢の中に居る様な感覚が拭えないのだ。


「おい、みょうじ!」
「…はい?」
「はい?って…お前、帰って早々旅行ボケか?何かあったら知らせてくれつってんだよ。些細な事でも構わねぇ、この二日どうだった?」
「…意外にも、その…良く気を使ってくださり、居心地も良く思いました、が…」
「………何の話をしてやがんだお前…。俺が聞いてんのは修学旅行のルートの話だ」
「え?あっっ!!!な、っなななな何事もありませんでしたよっ!?至って問題ありませんっ!最初に渡された三つのルートどれも時間内に行動可能でしたし、強いて言えばお土産買う為の自由行動を長くしたらあの店もいけたなぁとか思った位でっ!」

わたしが意識を取り戻し、慌ててそう告げると「ほう、なるほど」と手元の紙に何やらサラサラと書き込んでいく土方先生。
その隣りに先程まで居たはずの斎藤先生の姿は無くて、安堵したのと、職場でなんて事を考えているんだと自分を心の中で叱咤する。未だ頭を支配しているのは、たった一人の人物の事で。

「まぁ、近くなったらまた最終決定の為の職員会議があるから、それまでに言える事は言っとけよ」と肩を叩いた土方先生は、冷静を装い必死に足を踏ん張っているわたしを一度見下ろし、今度は何やら怪訝な視線を飛ばしてくる。それに目を泳がせている時点で、わたしはきっと馬鹿正直の部類に入るんだろう。じっと見詰められ、思わず身体を仰け反ってしまったのは、きっと頭を支配する浮かれて、公私混同の呪縛から逃れる術を知りえていない自分の所為だ。そうに違いない。

「お前…何か、あったろ」
「な、何か、とは…?」
「…斎藤」
「っっ!」

ガタンと辺りに響いた大きな音は、わたしが背後にある椅子に腰を盛大にぶつけた音だ。
わたしに聞こえるか聞こえないか程度の声量で彼の名前を出すもんだから、過剰に反応してしまった上に、頬に熱が集中するのが分かる。慌てて取り繕っても、目の前で肩を揺らして笑いを堪えている土方先生の楽しそうな横顔を見ると、どうにも上手くいってくれない。「まぁ…良い事だ、じゃあな。帰っていいぞ」と、プリントを片手に職員室を出て行った背中を見て、一気に肩を落とし溜め息を吐いた。

「あれぇ?斎藤先生どこ行った?」
「ああ、さっき情報室行くって言ってたぞ。帰って早々仕事とは…流石斎藤だな」
「へー、んじゃ明日でいっか。オレ部室覗きに行ってくる」
「おーう、行ってこい」

背後でそんな、藤堂先生と原田先生が交わす会話が聞こえ、わたしはぎゅうと拳を握り締めていた。



あの時もう一度「…好きだ」と、繰り返した斎藤先生はビールの所為か分からないけれど、頬を染め俯きがちに言った後、すぐさま部屋を出て行った。
固まったまま動けなくなってしまったわたしはスッピンも相俟って、とんでも無く間抜けな顔をしていたと思う。
いつも見るスーツやワイシャツ姿ではなくシックな服を纏った斎藤先生は、普段学校で見る彼より少しばかり幼く見えて心臓が煩かったのを思い出す。告白して置いて、返事も聞かず出て行った彼は、次の日の朝にはいつも通りスーツを着込んで、いつも通りの涼しい顔でロビーに立っていた。帰りの新幹線だって、普段通り仕事の話しかしなかったし、彼が口にする事は「生徒の為にどうすれば快適かつ安全に過ごせるか…」そればかりだったと思う。
案の定寝れなくて、寝不足だったわたしはきっと中身の無い返事を返してしまっていたかもしれない。でも、一人で気にしてこんなのも取り乱しているのに、どうして斎藤先生はそんな何事も無かったかの様にしているんですか。と思わず問い質してしまいそうにもなった。

「…からかわれたなんて事は、」と此処まで考えて、絶対に無いとすぐさま結論付けられる位に、彼は真面目な人だったから。



「…………」

あの後、特に仕事をしなくちゃいけなかった訳でもないけれど、折角学校に寄ったんだからとプリントを整理していたわたしの頭の中は、ずっとグルグルと回っていた。
それはもう、一世一代の大決断かの如く。何か他事をしていれば、気が楽になるかもしれないと思ったんだけれど、それは違って。端的な仕事をすればする程、逆に考え込んでしまう。
既に外は陽がとっぷり暮れて、職員室の窓から見える空はいい感じに赤と紫のグラデーションで、校庭の所処に設置されている街灯の光が揺れている。
他の先生方は仕事、或いは部活指導を終え皆帰宅してしまったし、周りに生徒どころか、人の気配すらしない。静まり返った放課後の学校は、少し苦手だ…。
返事、返事…と同じ事を唱えながらも、手をずっと動かし続けていたその時だった。

がらりと独特の音を響かせ、開いた職員室後方の扉。

「…みょうじ先生。まだ残って居たんですか」
「っ、」

今までは、校内でしか言葉を交わさなかったから、下見の件で分かった事がある。

「斎藤、先生…お疲れ様です、今まで情報室に…?」
「はい。明日の小テストを作って居たので、」
「そう、ですか…」

斎藤先生は基本、誰にでも敬語だ。偶に沖田先生や藤堂先生には砕けた言葉を使っているのを見るけれど、わたしを含め後輩だろうが、上司だろうが同僚だろうが誰にでも基本は堅い言葉を使っている。

でも、

「ああ、もうとっくに下校時間は過ぎているのか、気付かなかった」
「あ、は、はい!」
「みょうじ、あんたはまだ残るのか?」
「いえ、もう…帰ろうと思ってましたが」

椅子に掛けっぱなしになっていたスーツの上着を羽織ると、腕時計を見下ろし「そうか、長い一日だった様に思えるな、」と口元を緩めている斎藤先生。
この言葉がきっと、彼の素だと思う。旅行先では、ずっとわたしを呼び捨てにしていたし、言葉もどこか堅苦しくなく彼らしい声音で話してくれていた。それに、心を跳ねさせたのも、瞳を潤ませたのも、頬に熱を集めたのも、

わたしだ。


「…あの、斎藤先生、」
「ああ」

彼が鞄に書類の束を詰めている音と、わたしの声が二人しか居ない職員室に広がっていく。声が震えて、指先が冷たくなっていくのを感じながらわたしはゆっくりとあの事を切り出した。

「昨日の、夜の…ことですが、」
「…………ああ、」
「あの、わたし…」
「………ま、」
「わたしっ」
「待て!」


ガタン、バサバサ。
思い切って気持ちを伝えようとした刹那。意外にも大きな手のひらがわたしの方へ突き出され、その腕に触れた鞄が重い音を立て彼の机の上から落ちて書類を辺り一面へ滑らせた。待てといわれ、まるで飼い主に服従する犬の様にぴたりと言葉を止めたわたしは、目の前であの時と同じ表情をした斎藤先生を見た。

「…それは、その、あれの…返事…に、なるのだろうか」
「は、はい…」
「き、吉報か、訃報か…」
「え」
「いや、それを返事と言うのだな、いい、少し、待て。取りあえず学校を出よう」
「……はあ、」

まさか、ここでストップをかけられるとは思わなかったわたしは、言葉を飲み込み呆気に捕られていた。せっせと床に散らばったプリントを掻き集めている斎藤先生はいつもよりずっと余裕が無い様にも見えて。
それを手伝って、職員室に鍵を掛け、警備員さんに鍵を渡すまでわたしと斎藤先生の間には会話なんて無かった。
二人で並んで薄暗い廊下を歩いていると、下見の時より少し歩幅が大きいのと歩く速度が早い彼の背中を必死に追いかける。その歩数に合わせて、何だか心が軽くなってくるのが分かる。

わたしの答えは、もう出てる。
だから、きっと、そこを越えれば…。


教員専用扉から一歩踏み出し、わたしを振り返った彼と、目が合った。



「わたしも…斎藤先生の事、もっと知りたいと思いました」


一度、ゆっくり瞬きをして。
回りっ放しだったわたしの頭が出した素直な答えを、そのままのカタチで伝える。


「…それは、つまり」
「はい」
「その…、俺と、」
「よろしくお願いします、斎藤さん」


未だ扉の内側に居たわたしの身体は、次の瞬間彼の手に寄って外へと引っ張られ、気付いた時には、その腕の中で思い切り抱き締められていた。

その時に、
ああ、彼は教師の鑑だと…




そう思った。





公私混同葛藤劇


(下見と言えど…立派な業務の一環だと思う故、我慢していたのだが…あの夜の俺は、あんたを目の前にし、見事に負けた。二日も共に過ごしているのに、と…浅ましくも思ってしまった)
(いや、でも…あの時はもう勤務時間内じゃありませんでしたし。いいじゃないですか)
(…これから先、総司を叱ることが出来無くなった)
(それに、一つ言えば。まだ門を出ていないのでここも立派な校内だと思うんですけど)

(っっ、!!?)



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