「…、」

これは一体どういう状況だ。
何が起こった。
ペタリと座り込んだわたしの頭から、冷たい筋が軌道を描いて服を濡らしていく。茫然とした表情と同時に、若干混乱している頭を動かし、わたしは一度首を傾げてみせた。




金曜日の退社直前。沖田さんに何故か半分飲みの水を貰った。

「思ったより甘くなかったからあげる」と言われ渡されたソレは、あの飲み終わった後にペットボトルをくしゃくしゃに出来る某水のみかん味で。軟水のまろやかな後味と「何故そこにみかん汁を入れた…!」と少しだけ残念に思いながらも、甘みを舌の上で転がしながらオフィスを後にした。

そこから、いつもだったらエレベータに直行してさっさと玄関ホールを後にするんだけれど、最近わたしは日課にしている事がある。それは何かと言われると、まずここ最近のわたしの身体事情から話さなくてはならない。

コートを腕に掛けて居るわたしの、今の服を一枚捲ればユニクロさんで買ったヒートテックがお目見えするんだけれど…ヒートテックと言えば薄地で着膨れしない上に暖かいというのが売りで、そのフォルムは結構身体にフィットする作りになっているのは皆知っている事と思う。知らないって人は、きっと女子力が高いんでしょうね。そんなの悔しいから、今からユニクロ行って一着購入して来る事をオススメする。騙されたと思って着て見るといいよ。女子力を失う代わりに得るものがあるから…っ!ワコールとかで買うのよりずっとお安いから!

おっと、まるでステルスマーケティングの様…断じて違います。まぁつまり。こう、フィットする服って言うのは、ある難点が上げられる。

身体のラインが誤魔化せない事。
いや、別に肌着何だから誰に見せるわけでも無いんだけれど、あの…つまり。

そう。ここ最近のわたしは、取り返しがつかないくらいの暴飲暴食を繰り返していた。
胃が小さいわたしの暴食はまだ可愛いものだ、食べたところでそれは女子が食べる平均値に収まるだろう。けれど、暴飲の方はどうだ。
普段から定期的に行われる女子会と名のついただけの飲んだ暮れ集会。それに加えて、最近は片思いをしている斎藤さんからも飲みに誘われていた。断ると言う選択は勿論無くて、誘われるがまま二つ返事で参加をしていた。しかも救えない事に…どっちもだ。

その結果。体重が激増し、ヒートテックをも押し上げる立派なお腹。所謂ビールっ腹。そうからかわれたのはつい三日前の飲んだ暮れ集会でだった。
「ビールだけじゃないもん!焼酎腹でもあるし!」と反論したわたしの言葉は、爆笑の渦に飲み込まれ空しくも地に落ちた。同じ飲んだ暮れの癖に細い奴等(ハイエナ)に笑われ、朝姿見の前で見た自分の惰性(お腹)に、焦ったわたしは今日も、エレベータではなく、余り使う人が居ない階段を移動手段に選び、軽快にその段差でダイエットなる物を実行していた。少しの気遣いが勝利を掴む。って誰かが言ってたもん。

しかし、明日が休みだと言う事で若干調子に乗っていたんだと思う。
少し重い我が身が珍しくて、ヒールが高いにも関わらず「へへ、一段とばしー!」とか言って、ペットボトル(これは低カロリーだからセーフ)を傾けながら歩いていたんだ。

「ふははは、身体がカロリーを消費しているのをヒシヒシと感じ……ッッんん!?え、ちょっ、」


そして、見事に


「んぎゃあああっ!!!!」


落ちたのである。





気付けば、視界には既に薄暗くなった廊下と窓に映る街灯。まだ向こうの空はオレンジ色だけれど、ある境を隔てて此方側は既に紫色だ。帰らなきゃ行けないのに、わたしは突然のピンチに陥っていた。

ぼたぼたとお気に入りのスカートに染みを作っているのは、キャップを絞めずに歩き飲みしていた水らしい。どうやら頭から被ったみたいで、顔を滴るその冷たさに身震いした。

「うわ、は、初めて…見た、漫画みたいに階段から落ちる人、ってわたしか」

盛大にお尻を付いたのと、そこ等彼処から痛みが押し寄せる。暗いから傷とかはわからないけれど、きっと擦り剥いていると思う。だって、昔運動会のかけっこで転んだ時に感じたあの懐かしい感覚が……。
座り込んだままの状態でぐるぐるとどうでも良い事を考えていると、コツコツと誰かが歩く音が耳に飛び込んできた。
静かに聞こえるその小さい音は、どうやら下の階から聞こえている。不味い、とすぐさま身体を起こそうとしたけれど、序に足首も捻ったらしく上手くいかない。まるでのた打ち回る様に両手を廊下に付きながら、来るな!見るな!と口の中で唱えてみても、わたしの願い空しく…その足音の主が下り階段から顔を出した。


「っ!?」
「あ…、斎藤さん…」

わたしの顔を見るなり、ビクリと身体を跳ねさせた斎藤さんは、普段涼しげなその瞳を少し開けて動きを止めた。

「…っ、驚いた。あんたか、何をしている」
「あ、ちょっと、エクササイズを…」
「それはいつもの冗談か。…辺りに鞄やらコートが散乱しているが、転んだのか」
「う、あ…はい、」

一番見られたくない人に見られたらしい。
大分前に退社していった斎藤さんが何故此処に?と思う間も無く、散らばったコートやら、鞄の中身やらを拾い上げていく斎藤さんは、暗がりで見辛いけれどきっと呆れ顔だ。屈んだ時に小さく溜め息が聞こえた。

本来なら直ぐにでも立ち上がって、自分の所持品を拾い上げなくてはいけないのだろうが、どうにも上手い事言ってくれない。立ち上がろうとするにも何か支えが無くては、無理っぽい。くそう…。
取りあえず斎藤さんが黙ってコートを拾い上げた時、階段の手すりに掴まって何とか立ち上がった。


「これで全部か…。ここは薄暗い故、視界が悪い。何か足りない物があったら言ってくれ」
「あ、ありが…っ!」
「………どうした、」
「ちょっと…、足痛くて」
「…やはり本当に転ん……いや、なまえ、あんた…まさか、」

す、とわたしの後ろに続いている階段を見やった斎藤さんは、一旦言葉を止めて顔を青褪める。同時に足元に落ちた空のペットボトルが、わたしの爪先に触れ転がっていったのが薄っすらと見えた。

「落ちた…などと、言うのではないだろうな」
「あー……、まさか、そん」
「落ちたのかっ!?」
「はいいっ!」

珍しく大きな声でそう問われ、思わず背筋が伸びる。直後にじじ、と頭上で音がして、階段に気持ち設置されている蛍光灯が点った。もう日は完璧に沈んでしまったらしい。

「ここでは見えん。照明が十分な場所へ移動するぞ」
「え、や、でも!斎藤さんもう帰るんじゃっ、」
「そんなまともに立てぬ者を見て、置いて帰る様な薄情な人間に見えるか」
「…う、はい。すみません。歩けません」
「…肩につかまれ」

わたしに渡そうとしていた鞄とコートを自分の手元へと今一度引き寄せると、自分のビジネスバッグを小脇に抱え、少し屈む体勢をとった斎藤さん。あまりの近さに顔が熱くなるのを隠し俯くと、消入りそうな声で「すみません」と詫びを入れて、彼の肩に腕を回した。
ここでまさかの斎藤さん登場に、ホッとした反面、今までふわふわと曖昧に主張していた痛みがわたしの神経を犯し始めた。

斎藤さんはオフィスがある上階には戻らず、同じ階の非常扉を開けそのまま進む。ここは余り普段から馴染みのない部署がある階らしい。既に皆退社を終えているのか人の気配は無い。
一応どの階も同じ様なつくりになっているから、彼が行こうとしているのが会議室だと分かる。わたし達の部署では土方さんが会議室の鍵の管理を行っているけれど、他はどうなんだろう。なんて少しでも痛みを散らそうと考えふける。服が濡れて寒くもなってきたし、寒いのに痛い所が熱いって言う変な感覚に、馴染めそうも無いと小さく唇を噛んだ。

「俺達の使う会議室は…金曜日に集る際に座り心地が良い腰掛が欲しいと、新八達が持ち寄り個人で置いていた故…この階にソファ等は無いだろう。しかし、簡易椅子でも何か座れる物があればいいのだが、」
「はあ、あのソファ…元からある奴じゃなかったんですね、」
「土方さんは当初勿論反対していたが、押し切られてしまったらしい…あいつ等の、そういった時にばかり発揮する結託力と言う物は尊敬に値する」
「あはは、永倉さん達らしいですね、」

突然そんなイケメンバー事情を話し出した斎藤さん。きっと物凄く気を使ってくれているんだと思う。その証拠にさっき背中へと回された彼の腕は、重い(自分で言ってて傷付く)わたしの身体に負担をかけない様にと力が篭められているし、痛みで足が止ると優しく背中を撫でてくれていた。


「よし、鍵は開いている様だ。物騒だがこの際ありがたく使わせて貰うとしよう」
「うう、…すみません、」
「気にするな、例えあんたが酔狂だと言っても、好き好んで階段から転落する様な真似はせんだろう…。故に事故だ。なまえは悪くない」
「酔……、はい」

パチンと軽い音がして一気に視界が眩しくなる。カーテンの隙間から見えた空は、完全に「夜さんこんにちは」状態だった。つーか、わたし今日どうやって帰るんだ?
一抹の不安に駆られながらも、座っていろという斎藤さんの支持に従って近くにあった椅子へと腰を降ろす。未だ足首が燃えるように熱かった。
「さて、」と、荷物を降ろした斎藤さんが真面目な顔で振り向き腰掛けているわたしを、上から下まで見た。そして、やっぱり驚いた様な顔と、血の気の引いたその表情を見て「ああ、結構盛大にやったのか」と、自分の置かれている状況に合致がいった。

「どう転げ落ちたのだ、ちょっとやそっとと言える程度では無いが、」
「いや、もう、気付いたらツル!ゴキ!ゴロゴローって!」
「…まずは消毒だ、その、そ、それを何とかしてくれっ、」
「それ?」

慌てて自分の鞄へ踵を返した斎藤さんは、こちらも見ずに上ずった声でそう告げる。何とかするって何を?と自分の足を見下ろして気付いた。
廊下で擦れたのか、階段の角にでもぶつけたのか、盛大に血を滲ませている傷跡がわたしのストッキングを赤色に染めている。うわ、伝線してるし!うわああ!足首まで血が垂れて…ってぎゃあああ!足首腫れてるうわああああ!!!
改めて見た大惨事に、さすがのわたしもヤバいと思った。すぐさまストッキングを脱ぐと、そのボロボロになった肌色を丸めて肩を竦めた。やばい、これはやばい。痛い。傷とか見た所為で更に痛い。

若干涙目になっていると、斎藤さんが何かを手に此方へと歩いて来た。…目が泳いでる。


「それは?」
「これは緊急時用にと常に持ち歩いている携帯救急セットだ、足を此方へ」
「…斎藤さんのビジネスバッグって四次元ポケットか何かですか?」
「違う」

わたしの前に跪いた彼は、慣れた手付きで救急セットから消毒液とピンセット、それと綿みたいな塊を取り出し、前髪を耳にかけた。いつもだったら隠れている右目が忙しなく動いているのを見ながら、わたしはただ黙ってその作業を見守っていた。
やっぱり完璧な人を何をするにも完璧だ。まず鞄から救急セットだしてくる男性は、なかなか居ないだろう。
ちょっと恥ずかしいけれど、足を捕られ傷口に顔を寄せた斎藤さんのつむじを見ていると、何やら難しい顔をした彼の瞳が突然わたしを見上げた。

「…何やら、甘い匂いが、するが」
「え?甘い匂い?」
「ああ…、柑橘系…?香水は好まんと以前言っていた気がするが」
「あ、あまり好きじゃないです、頭痛くなるんで…。え、なんだろう、」

くんくんと自分の腕の匂いを嗅いだわたしを暫く見上げていたが、何故そんなにも複雑な表情しているんだろう。斎藤さんは。もしかして嫌いな匂いなのかな。…って言うか、別に甘い匂いなんてしな、

その時。ぎゅう、と少し強い力で足裏を掴まれ上へと導かれたわたしの脚。
パンツ!と真っ先に思ったわたしは、短い悲鳴を上げながら簡易椅子の背凭れへも垂れ込んだ。


「ひゃあっ!」
「…みかん、」
「さ、さ、斎藤さ…今っ、いいいいいま、舐め、足って言うか、傷、舐っ、」
「…と、鉄の味がする、」
「そりゃ!血舐めればしますよっ!何やってるんですかっ!」

わたしの視界が捉えたのは、目を伏せわたしの足に顔を寄せ赤い舌を出した斎藤さんで。べろりと、舌全体で舐め上げられた足…もとい、怪我は彼の唾液で少し艶立っていた。ビクリと身体が反応してしまう位には沁みた。けれど、今はそんな事よりも斎藤さんが跪いてわたしの足を舐めた事に、思考の大半は持っていかれていた。

「…何故、みかん」
「みかん!?え!?みかんなんて食べてな…、あ、いや…そう言えば、」


あの沖田水(おきたすい)…頭から、被ったんだ。


「そう言えば、あんたの髪も濡れている、」
「っ、」

す、と伸びてきた指先がわたしの前髪を捕まえて小さく払う。
その時、斎藤さんとわたしの視線が交差した。

「あの、味の付いたミネラルウォーターを沖田さんが、くれて、それを被ってしまって…」
「総司が?」
「はい、あのっ、でも落ちたときに全部零れちゃって、多分廊下とわたしの服が全部飲んじゃったみたいです」
「……、勿体無いな」

指がそのまま頬に落ちて、指先で肌を撫でられる。つ、と触れるか触れないかの絶妙な触り方に思わず身体を固めると、擽ったいからか、無意識に彼の手を掴んでしまった。「すまない」と、囁くように言われ首を横に振ると、何かに気付いた斎藤さんの瞳が、また少し近付いた。

「ここにも、擦り傷が、」
「あ、」


ぱくり、と指先を口に含まれ思わず顔に熱が集中した。

彼の口の中で、指先に舌が這う感覚と怪我をした足首よりずっと感じる熱さに眩暈がした。ちゅ、と小さな水音を鳴らして離れていく唇。
そのまま手を握りこまれたわたしは、ただ前髪をぱらぱらと零す斎藤さんを見下ろしていた。

「本当は、あんたを飲みに誘いたくホールで待っていたのだ。しかし、遅いので見に来た、どうやら正解だったらしい…」
「で、でも、どうして階段を…っ」
「最近ずっと階段を使っていただろう。そう言えば、何故」

手を離し、やっと当初の目的である怪我の治療に移行した斎藤さんは、てきぱきと手を動かしながらそんな事を聞いてきた。少し赤みが差しているのは、わたしの頬だけじゃなく、彼も例外ではない。
その問いには正直答えたくなかったけれど、ぼーっとしたままのわたしの口は勝手に言葉を紡いでいく。

「最近、太ってきて…、ダイエットをしようと、思いまして…」
「なるほど。たしかに…」
「はい、たしかに太っ」



ピタリ、と止ったわたしの口。

そして、一瞬にして据わったわたしの視線に気付いた斎藤さんが「しまった」と言うように口元に腕を宛てていて。


「今、なんと…」
「ち、違うっ!そう言う意味ではっ、」
「たしかに、なんですか?サイトウサン」
「さ、先ほど抱えた時は足に力が入って居ないのだから当然だっ!それに、見た目が最近少しふっくらしてきたとは断じて思ってなどいないっ!」

身体を支えた簡易椅子が、ミシリと軋んだ。

「うわあああん!明日から夜走るーっ!絶対に落とすっ!脂肪殺すっ!」
「女性一人での夜ランニングは危険だ!それに今くらいが女性として丁度良いと思うのだがっ、」
「わーん!斎藤さんがわたしの事肥やして食うつもりだーっ!うわーーん!」
「食っ、!?」

傷口に巻いてくれていた包帯がぎゅうーと足を締め付けて、ふくらはぎのお肉が乗っているのが分かる。それにまたショックを受けたわたしは、そのまま椅子の上で真っ白に燃え尽きていた。真っ白に、燃え尽きちま…、


「なまえ、」


某ボクシング漫画の台詞を脳内で唱えた時だった。
突然目の前が真っ暗になる。そして近くで感じるのは、甘いみかんの匂いでは無く…斎藤さんの優しい匂い。同時に背中に回った腕は、力強くわたしを引き寄せ、頭上からは少し戸惑いがちな彼の低い声が聞こえた。

「…、今日は、我慢する。この怪我では飲みにも行けまい」
「さ、斎藤さん、」
「故に、送る。だから、その…早く治せ。そしたら、また…俺と、」


後ろの髪を掻き揚げられ、耳元で囁かれた言葉は、


「共に酒を交わそう」


今ダイエット中って言ったじゃないですか!なんて二の次で。

いつの間にか正しく処置をされ痛みが緩和している怪我を早く治して、また金曜日に斎藤さんとお酒を飲もうと考えているわたしがいた。
もう熱さは無いけれど、舐められた場所だけはいつまでも熱が引かない気がしてならなかった。


「やはり、…甘いな」


また、耳を舐められた気がした。






ぺろり



(斎藤さん寒くないですか…?すみません上着借りちゃって、)
(いや、コートがあると言っても、濡れたままでは風邪を引くだろう、気にするな)
(ありがとうございます、よかったです。小さくなくて)
(っ…!しかし、世辞でも冗談でもなくだな…っ、あんたはそれくらいが丁度いいのでは)
(どうしてそう思いますか?その理由を100文字以内で説明して下さい)
(…その、抱き心地が、いい…。気が、する…)
(え!?聞こえませんっ!?何!?豚足っ!?)
(一言も言っていないっ!)



あとがき→


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