拝啓、みょうじなまえ殿


そんな、他人行儀な出だしで始まっていた。
未だ地に張り付いて動いてはくれない背を真っ直ぐに、ぼやけた視界の中で懐紙に綴られた文字列に従い、その懐かしい筆跡を指で辿った。どうしてか、全てが黒に染まる前に全て頭に写しておきたかった。

「書き物は得意じゃない、いつまでも形が残るからな」と、何度も何度も、まるで言い訳の様に、常日頃から聞かされていたからその筆跡を見るまでは、まさか彼が手紙等…と思っていた。渡された時だって、実感などなかったのに。


いつまでも同じ路を歩いて行くのだと思っていたあの頃。
全て終われば、また隣りに居られると思っていたあの頃。

もう何処に視線を這わせても、文字、懐かしい顔、そして色さえ捉えられない瞳は、いつまで待っても止む事を知らない大粒の涙によって微かに震えていた。それでも、弧を描くわたしの唇は、きっと真実で。

重い、冷たい、痛い。でも、進みたい。歩みたい。
あなたと共に…この世の果てまでも。
でも、少しだけ待つとしましょう。その時が来るまで。それもきっと…。





「なまえ、此処までだ」
「………嫌だと、言ったら」
「っち、いいから言う事を聞け。これは頼んでんじゃねぇ。命令だ」
「わたしも一端の隊士ですっ!それなのにどうしてこの先の戦に参戦する事をお許しくださらないんですかっ!」

鈴虫が無く綺麗な満ち月の夜だった。
土方副長(…いや、もう局長か)率いる新選組は、疲労も隠す事無く夜露に濡れた草を座布団にしここまで歩き続けてきた。
幕府軍が鳥羽、伏見の戦いで敗れ江戸へと撤退したと聞かされたのは、いつだったか。まだそれ程昔では無い様に思うが、いつからか感覚がおかしくなってくる位毎日が怱々たるものだった。

わたし達もそれと同じ様に何度も野営をし、偶に無人になった廃屋を見つけてはそこに身を寄せ合い歩き続け、刀を振るい、立ち止っては頭を垂れる。それの繰り返し。屯所に居た頃も、日々長い道程を辿り動いて居たが、其れとはまるで桁違いな程歩き通した。

そして、宇都宮で負傷した土方副長を休ませる為、若松城下に辿り着いた時にはわたしも、他の隊士達の口数もほぼ無いに等しかった。


「先ほど、斎藤組長が言っていました。副長には、誰か傍に付いている人間が居てくれた方がいいと」
「…傷は治す。治りさえすれば、それもいらねぇよ」
「どうして其処まで強情なんですか…」

思わず声を荒げそうになった。
会津に残ると決めた斎藤組長と、片や、怪我も酷く人の手を使わなければまともに馬にも乗れない副長。だからと言う訳では無いが貴方を支え、最後まで着いて行くと、当たり前の事を言っただけでどうして此処まで突き放されなくてはいけないのだと。

「…………、察しやがれ、てめぇの事だろうが」
「…それは、」

既に他の者は周りには居らず、数名連れて居た隊士達の姿は見えなかった。
皆と一緒に文明を切り替え切った髪、それと釦が窮屈な洋装。その裾部分を握り締めると自分の爪が大分伸びている事に気付いた。

首元に包帯を巻いて、苦しそうな表情でわたしを睨み上げる土方副長のその深い濃紫の瞳は「譲らない」と逸れる事無く飛んでくる。その眼差しは、何度も見て来た彼の固い決り事の様で、思わず息が苦しくなる。どうして?そんなの分かってる。でも認めない。

暫しの静寂の後、気まずそうに瞳を反らしたのはわたしが先だった。

「はあ…。ほんっと、お前はとんだじゃじゃ馬だ。どうして上司の命が素直に聞けねぇんだか…、」
「そ、それは!納得がいかないからですっ!わたしは…、いいえ、わたし達はっ、」
「なまえ」
「っ、」

大袈裟に息を吐いた土方副長は、少しぎこちなさ気に正座していた足を解き、ゆっくりと畳のを擦って座りなおした。胡坐でも傷が痛むのか、眉間に皺が寄って口元を引き攣らせている。同時にわたしも伸ばした背筋を一旦緩め、傍らに置いた刀を意味無く動かし眉を寄せた。

「いいか、これから俺は…旧幕府軍と歩を共にする事になるだろう。これは…俺一人が乗り気じゃなくても自ずとそうなる。要は吸収されちまうって事だ、」
「…はい、」
「そこは今まで以上に困難な道程になるだろう、」
「…覚悟は、出来ております」
「馬鹿言え。俺が出来てねぇのに、てめぇに出来てたまるかよ」

く、と笑い雑じりに肩を揺らして見せた副長は、良く屯所で見せていた押し殺す様な笑いを零しながら、そっと手を招いた。
一瞬、むっと顔を顰めたわたしだったけれど、副長のその手招きには弱い。日が暮れ、頭がすっきりしている所為か、傍にゆるりと向う一方、その手招きの行く先に胸を焦がしているわたしが居る。
行灯がじりじりと火を繋ぐ音に雑じって、わたしの足が畳と触れる音が耳に届いた。

「不服を通し噛み付いてくる奴を俺は嫌いじゃねぇが、こう面と向って交戦的な見られ方をすると、どうにも無理矢理服従させたくなるんだよ」
「な、っ何を言ってるんですか!貴方は!怪我人だと先程言ったばかりでしょうっ!」
「黙ってろ、」

隣りに座したわたしの腕を捕り、そのまま引き寄せると枝垂れ掛かるように体勢を崩したわたしの頬をぎゅうと掴みあげる副長。その力はいつもよりずっと弱くて、やっぱり本調子じゃない事をわたしに嫌でも伝え続ける。それなのに、口元だけは弱ってくれなくて、いつの間にか寸の所までやってきていた鼻先と、瞬きすらしない瞳がゆっくりと近づいて来た。
触れる唇は、断然浅い。十分に水分を補給できないわたし達の唇は乾燥でささくれ、お世辞にも甘いとは言えぬものだった。それでも、角度を替え、包むように啄ばまれてその熱い舌で湿り気を与えられれば、喜びに震える自分の身体。

いつの間にか上がったわたしの指先が、乱れ一つない彼のしゃつを掴み、縋る様に唇を追っていた。

「一緒に、居たい…歳さんと、」
「後悔する」
「しません。もう、しないって決めたんです…」
「…俺がする。遠くない先、俺が、」

その先の意味は。

わたしが居なくなり、貴方が悔やむのか。
貴方が居なくなり、わたしが悲しみ、取り遺した己を地獄で責めるのか。

聞きたいとは、思わなかった。
だから再び口を塞ぎ、その強く握り締めたままの甲に触れて解いてみる。いつの間にか口を割って進入してきた舌に吸い付きながら、わたしはそのたこだらけの手の平を重ね捕った。

「口では言わねぇ…、言ったら言った分…悵恨が深くなる。俺が生きて居た場合、それすら殺して進まなきゃなんねぇ。先に謝っとく。悪いな」
「いえ、覚悟の上です。土方副長」

そう言いながらするりとわたしの視界に忍び込んできたのは、厳重に折りたたまれた一枚の懐紙だった。
それを腰辺りについている衣嚢に移し変えると、やっと開放された強い拒否の眼差し。す、といつも通りの瞳でわたしを捉え直した土方副長は、今一度わたしの背に腕を回し耳元で溜め息混じりにこう言った。


「……死ぬ時きゃ、一緒だ。そう願う。願っとくだけは“ただ”だろうからな」
「はい…、同じく」


俺より先に逝くことは許さない。
これは、以前、わたしが変若水を飲み、初めて眼を覚ました時に言われた言葉だ。
羅刹となった今、わたしには戦うしかこの方の隣りに居る価値等なかった。傷だって癒える、身体も軽い、眼も利く、良い事ばかり。そう思っていたのは、副長にあんな表情をさせてしまった時までだったな、と…今になって思い出した。朝は気だるいし、発作は感覚を狭めわたしを苦しめた。
羅刹の力を使えば使うほど、人から遠ざかって行くのを感じると同時に、残りの寿命まで手に取る様に分かるんだ。山南さんも、藤堂組長も同じだと笑っていたっけ。


「あの紙は、…その時が来て、動ける様なら開け。無ければ捨てっちまえ」
「承知致しました」





先ほどまで嘘みたいに視界を多い尽くしていた吹雪が止み、晴れた空にぽっかりと浮かんでいる満ち月が、あの日あの時に傍らで燃えていた行灯の灯火と重なって見えた。

ずっと吹雪続きで寒かった北の地…江差にて今、わたしは先に散ろうとしている。
無論、彼を置いて、だ。
もう本当はずっと前から限界だった。五稜郭へ行くという彼の背中を追いかけて、見失わない様にするのが精一杯で、あれだけ啖呵を切って置いて、上げる根などとおの昔に雪道へ投げ捨てられていた。悴む手は、もう握られることなど無かったし、唇なんて掠る事すら無くなり、それでも副長は…いや、歳さんは、わたしを見ていてくれた。最後まで。

「…やだ、所処…、擦り切れて、読める物も読めなくなってるじゃない」

まさかこんな海の上で一人、力尽きる日が来ようとは夢にも思わなかった。最後まで手を伸ばし、撤退命令が出て直ぐにわたしを引き連れて船へ戻ろうとしてくれたけれど、風が強くて、力が抜け切っているわたしを担ぐには困難過ぎた。
まるでこの世の終りみたいな表情で唇を噛んでいた歳さんは、何も言わずその場に立ち尽くして動こうとしなくて。わたしが、言葉無く「行ってください」と漸く交わった視線だけで背を押すまで、わたしの眼を見ようとはしなかった。
榎本さんが寄越してくれた船から、沢山彼を呼ぶ声が聞こえてくる。それは、とても遠くで響いていた筈だったのに、投げられた脱出用の荒縄を掴んだ歳さんの呻く声だけは鮮明に耳が拾いやった。


「……結局こうなっちまう。すまねぇ、」


搾り出す様に、そう告げ、船から遠ざかっていったその背中はまるで泣いている様で。

もう立つ事も困難な身体は、そのまま誰も居なくなりあとは海に飲まれるだけの船の甲板で力なく倒れこみ、ゆっくりと仰向けになった所で、ふと胸元に灯った温かさを心が感じ取った。
返り血も乾かぬ指先で三度も折ってある懐紙をつまみ、眼前に翳してみた。そのまま、力が抜けていく腕を空へと伸ばし、波に揺られ視界も覚束無い船の上で、彼の心に触れた。

『拝啓、みょうじなまえ殿』

他人行儀なそれと、何とも彼らしい墨の湾曲に


涙が零れた。



『誠へ進め 俺もそうしよう だが 再び言葉を交える日が訪れたら その時は、』


海風に煽られ指から空へと、飛んでいく一枚の紙。

掴もうと伸ばした指先から、さらさらと砂の様に消えて行く自分は何故だか穏やかに微笑んでいた。

重い、冷たい、痛い、やめてしまおう。
でも、進みたい。歩みたい。ほんとうは。

あなたと共に…この世の果てまでも。
でも、少しだけ待つとしましょう。その時が来るまで。

それはきっと、


とても幸せな事なのでしょうから。







誠へすすめ



その時は俺が先に逝く。お前がそれを見て泣けば良い。
だから先の世で茶でも飲んで待っていてくれると、わたしくしはとても嬉しく思います。では、また。 敬具 土方歳三






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