「なまえちゃんって本当に良い子だよね」
「みょうじさん、悩みとかないでしょ」
「いいなぁ」

笑って、笑って、笑って、笑い尽くして。
もう口端が上がらなくなるまで笑ったら、隠れて泣いて。

それを何度繰り返しても心は軽くならなかったし、笑う度に何枚もある扉に鍵を掛けてずっと深い場所へ。いつからか、人と付き合うのにある一線を越えられなくなった。足元に引かれた黒い帯状のボーダーラインは、顔を上げるとずっと遠くまで続いている。先が見えないその霞にまた涙が零れる。
しゃがみ込んで耳を塞ぐと、頭の中に流れてくる言葉達の中に、一つだけはっきりと混じる光があった。

あんたなら、出来る。
今は負けるべき時では無い。

今時珍しい綺麗な日本語で、わたしの名前を呼んだ人は、いつの間にかわたしの大切な人になった。


いつもこっそり隠れて沈む場所があった。
それは自宅だったり、夜が長い季節だと近所の公園だったり、長年努めた会社の隅っこだったり…。人前で泣くなんてとんでもない。涙を見られる事はわたしにとって、何よりの嫌悪だったり、弱みだったり。兎に角どうしても我慢できない時は色々な場所に隠れて頬を濡らしていた。

もうずっとずっと遠い昔の様に、あの頃の自分の泣き顔が瞼の裏に鮮明に映った…。





「…日本はもう、桜の季節も終り掛けかぁ、」

手を翳してガラス越しに見上げると、大きな太陽が澄んだ青空を見事に飾り上げている。
向こうと違って、からりとしている筈の季節と言っても湿気が多く、それが少し肌に纏わり付いて思わず苦笑いが漏れてしまった。降機が済み、機内から続くボーディングブリッジをゆっくり踏み締め色々な事を思い出していたわたしは、漸く「戻って来たんだ」と懐かしい匂いがする空気を吸い込み目一杯肺を膨らました。

わたしが勤めていた会社を退職したのは、丁度五年前。あと少しで冬も終わりを告げようとしている頃だった。


わたしには、ずっと昔から思い描いていた夢があった。

と、言っても既にこの時、夢を追うには遅い年齢だったし、専門的知識も独自で無理矢理身詰め込んだ程度の軽いもので…己の未来予想図はおぼろげで。でもいつか必ずその舞台に上がるって目標を持ち、毎日笑っていた。だが現状は、「中途半端」と言う言葉が後ろをついて回り、手詰まり状態で毎日を過ごしていたわたしに、ある転機が訪れたのはまだまだ肌寒い日の午後。昼食を取り終わりいつも通りオフィスの女子社員と話をしていた時だった。

「今の仕事ってやりがい無いよね」と、キーボードを叩くには多少不便そうな綺麗なネイルを眺めながら言った同僚の一言から始まった。「私、本当はもっと煌びやかな仕事をしたかったの」と続き、仕事の愚痴から夢の話へと移行していったんだ。
目の前に広げた桜色のお弁当箱を閉じながら、いつも作る愛想笑いを浮かべ「そんな事言うもんじゃないよぉ」とへらへら笑っていたわたし。

「なまえだって、前に飲み会で言ってたじゃない。あれ…なんだっけ?空間デザインだっけ…あれ夢なんでしょ?」
「あ、うん!わたし桜が好きでしょう?前に日本の桜のイメージで作られた海外のお店をテレビで見て感動して。だから空間デザイン学ぶ為に今留学のお金溜めててねっ!それで、もう直ぐ貯金が貯ま、」
「あーあー、いいなぁ。現実的じゃない夢って持ってるだけでイイもんねぇ、私なんかさぁ」
「そんな………、」

少し呆れ顔で彼女はわたしの夢を「あれ」と言った。
それだけで僅かに持ち続けていたわたしの夢は、嘘へと変わり…輝いていた筈の夢はやっぱり霞がかかったように遠く、空へと登っていく。
夢に向って手を伸ばし続けて来たわたしは、もう一人の焦っている自分がひょっこりと顔を出したのを頭の裏側で感じて息を飲んだ。

本当に素敵だったのに。一瞬で心を奪われた。わたしもこうやって人を感動させたいと。大好きな桜を、わたしの思い描く美しい日本の桜を、沢山の人に知って貰いたい。それが、たった一言で沈んだ瞬間だった。
当の同僚は何事も無かったかの様に他の同僚と笑い合っていて、いつの間にかドラマの話に切り替わっている事すら気付けないで放心していたみたいだ。はっと我に返った時には、今にも睫毛の手前から零れ落ちそうな涙で視界がぼやけ、咄嗟に歯を食い縛り目を最大限まで開いて食い止める。もうあと少しで昼休憩も終わるのに。
サッとデスクの上に置いていた桜の刺繍されたハンカチを手に席を立つと「どうしたの?」と中身の無い問い掛けが飛んでくる。それに「なんでもなーい、給湯室に隠してあるお菓子つまんでくる」と、今出来る精一杯を込めて笑うとその場を後にした。

後ろから「なまえってホント毎日楽しそうでいいなぁ」なんて笑い混じりに聞こえたけれど、それにも「うるさーい!」と背中だけでおちゃらけた。彼女たちに背を向けたわたしの顔は、酷く歪んでいてそれを隠す様に。わたしはオフィスを後にした。

会社で泣けるのは、此処。
オフィスに上がる階段の裏に、設計上どうしても開いてしまったらしい空間。
陽の光も当たらない上に、皆は滅多に階段を使わないから人も来ない。隣りには最後にいつ使われたのだろうか、古ぼけたバケツとモップが壁に立て掛けられていた。
階段に続く非常扉を開けた時点でわたしの涙は頬を濡らし、駆ける足に反して後ろへと流れ落ちていく。それがまるで散りゆく桜みたいだなんて何度思っただろう。

「っ、…、だったら、どうしたらいいのよ」

わたしは何と無くでなんて歩いてない。皆が思う程わたしはお気楽なんかじゃない。こうして泣く場所を確保しないと前も向けない弱い人間なんだ。
目標だからと昔から好きだった小物を集めて自分を奮い立たせて、囲んで、笑って。
それなのにどうして、わたしは今だここに居るんだろう。もっと頑張れたんじゃないの?もっと前に進めていたんじゃないの?そんな事ばかり聞こえてくる頭の中は、とても優秀で、この苦痛からわたしをいつまで経っても解放してはくれない。

自分で掲げた夢を、未だに薄暗い場所で陽も当てずに座らせているのはこのわたしだ。

「もうやだ〜…っ、」

ぐしぐし、と自分の不甲斐無さが痛くてここが会社だと言う事すら忘れて泣き腫らしていた時だった。少し控えめに聞こえた足音。カツ、と少し戸惑い気味に進む其れに気付いた時、わたしは思わず身を隠す様に縮こまった。

「誰か…居るのか?」
「っ、」

この声は。
手の中に握りこんだハンカチは沢山涙を吸い込んで少し色が変わっていた。心許無いスペースにいい年した女が一人しくしくと泣いているなんて、端から見たらただの苛められっ子じゃないか。そして、わたしの予想が当たっていれば、声の主。彼に取って、余りにも衝撃過ぎるだろう。
どうしようどうしようと、焦れど涙は止まってくれないし、足音は近付いてくるし、色々考える事が在りすぎてもう限界だった。

「何でみんな放って置いてくれないんですかーーっ!」
「っ!?、その声は…」
「斎藤さんもわたしの為を思うなら、何も見ずに戻ってくださいーっ!」
「は、……」

今まではらはらと落ちているだけだった涙が、ダムが決壊したみたいにどっとあふれ出し、喚いたからか膝からも力が抜け冷たい床に両膝を付きわたしは泣き崩れた。

「…やはりあんたか、みょうじ」
「斎藤さんの馬鹿、なんで来ちゃうんですか、」
「……、いや、流石に放っては、置けんだろう…」
「放って置いてください、わたしなんて、わ、わたしなんてっ!」
「落ち着け、取り合えずそれでは事足りぬだろう、これを」

きちんとアイロン掛けされている黒いハンカチを差し出し、やっぱり放って置いてくれなかったのは、同じ部署で新人の頃からお世話になっている斎藤さん。彼はわたしより年も職歴も上で、昔からまず頼る人と言えば斎藤さんって位に社会で確立している人だった。
普段は無表情で少し恐いイメージが付いて回る彼だけど、話してみると誰よりも優しくて、素敵な人だった。勿論この会社で下っ端なわたしとは違い、彼はどこからも認められていてそれを本人も誇りに思っていると言う。

つまり、彼は自分の夢を、舞台に上げてやる事が出来た人だ。

「理由を…無理に聞こうとは思って居ない。だが、あんたが落ち着くまで居てもいいだろうか」
「……もう午後、始まります…、お気になさらず」
「前々から思っていたが、あんたはもう少し自分の内を理解するべきだろう…」
「内…?」

受け取らないまま彼の手の中にあったハンカチで、少し強引にわたしの頬を拭いやる斎藤さんは、呆れた様子でそう溜め息を付いた。薄く乗せたチークが気になったけれど、その黒には涙の跡は付けどもそれ以上は目には見えないままで肌を這う。
すん、と一つ鼻を鳴らしたわたしは、遠くに行ってしまったまま戻ってこない夢を探して、彼の瞳を見上げていた。
そして特徴的な前髪の隙間から見えた綺麗な春晴れ色に導かれるように、口は勝手に音を紡ぎ出す。

「わたし、やりたい事が…あるんです」
「やりたい事…」
「はい。今は、もうどっか遠くで泣いているかもしれませんが…。夢が、あって」
「……、」

落ち着かせるようにか、背にそっと置かれた手のひらがまるで今にも崩れ落ちそうな身体を支えてくれている様に感じられて、どこかじんわりと温かくなる身体が「まだ…進める」と縋りつく。
でも、その身体とは反対に、その縋り付こうとするモノが見当たらなくて嫌になる。

「でも、それももう辞めちゃおうっかなーって。ほらわたしって普段こんなキャラじゃないですか!なんか場違いかなぁって。それに皆、わたしの夢…」

笑いますし。

「………どうせなら、今まで汗水たらして働いた貯金パーッと使っちゃおうかと。あ!斎藤さん、よかったら一緒に飲み会でも如何ですか?奢りますよ!」

どうせ、誰に言っても同じだから。
わたしの夢なんて、咲かずに散る。
散ったからって、その欠片を必死に拾い集めても元には戻らない。

散ったら、終り。


「理解が、出来んな」


思わず、聞こえたその言葉に変な声が漏れた。
いつの間にかまた作っていた愛想笑いを解き、目を丸くして居ると、ハンカチを今だわたしの頬に押しつけたままの斎藤さんが、涼しい瞳でこちらを見下ろしていて。その綺麗な藍色は、情けないわたしの顔をはっきりと映し出していた。

「周りに笑われたら、あんたは己の信念を簡単に曲げられる人間なのか」
「…え、そんな」
「己の性格は、その夢を諦めざるを得ない程の欠点に成り得るのか」
「…………、」

まるで、叱る様に。でもそれは仕事でミスをした時にするよりずっと真っ直ぐわたしに向けられていて。どうして斎藤さんが怒っているのだろう。と言うより先に、どこからかふつふつと湧いて来るモノがあった。

それは、


「まだ始まっても居ないのだろう?だったら、進むべき時が来たら素直に従えばいい。足が動くなら、進めば良い…違うか」
「斎藤さん…どうして、わたしなんかの、」
「…俺は知っている。あんたが笑顔の裏で時々内面を揺らしていた事を」
「………っ、」

いつも笑っているのを知っている。
いつも泣いていた事を知っている。
いつも前を向いていたのを知っている。
たまに後ろを振り返って落ち込んでいたのを知っている。
いつも休憩時間に夢に向かい勉強していたのを知っている。
桜の話をする時、誰よりも輝いていたのを知っている。

俺は、ちゃんとあんたを見ていた。…と。

「あんたなら、出来る。今は負けるべき時では無い」

最後、わたしの手前に静かに周りこみしゃがみ込んだと思ったら、目線をあわせわたしの頭をそっと撫でてくれた。

止まったはずの涙は、また次から次へと伝い落ち、逆の手でそれを救おうとしてくれた斎藤さんの指先まで濡らした。

「…桜にも、遅咲きの物があるのを知っているか」
「…それは、」
「いつか、あんたの夢が叶った時。俺があんたに届けよう」

たとえ、周りの桜より時期が遅かろうと、その桜に取っての開花は最初の一厘が開いた瞬間から始まる。まだ、いける。わたしの足は、動く。

まだ、進む。

諦めの代わりに湧いてきた物は、止っていたまま足掻いていたわたしの背を押す一欠けらの希望だった。




「えっと……、どこに居るって言ってたかな、」

キョロキョロとあたりを見回すと、行き交う沢山の人に押されつつもその人を探す。
あの後直ぐにデザインを学ぶ為会社を退職し、単身海外留学をしたわたしは五年の月日を得て日本に戻って来た。勿論、ちゃんと…叶えた夢と一緒にだ。

「あれぇ…?直ぐ分かると思ったんだけどなぁ、メールもう一回見、っ!?」
「遅い」
「あ、え、さ、斎藤さんっ!」

メールを確認しようとした手を思い切り背後から引かれ、体勢を崩したわたしの背に触れたのはあの日近くで感じた懐かしい匂い。首だけ動かし後ろを向くと、あの日より少し前髪が短くなった斎藤さんの姿があった。

「どうして分かったんですか!?こんな人多いのにっ!」
「上から下まで、桜色の物で固めた人間…あんた以外に見当たらん。相変わらずの様だな」
「う、は、はい」

「久し振り」や「お帰り」と言う前に、飛んできたのは「相変わらず」とのあんまりなお言葉だったけど、すぐさま斎藤さんは「いや、」と否定し、わたしをじっと見下ろした。人が多い中、後ろから抱き留める形で話すわたし達を人の視線が辿っているけれど、今はその綺麗な空に捕われていたいと思った。メールでのやり取りでは感じられない体温が心地良い。

「あの頃よりずっと良い表情をしている。…おめでとうなまえ、見事に咲いたではないか。あんたの桜」
「ありがとう、ございま…っ、」
「まだ泣くには早い。行くぞ。もう搭乗手続きが始まっている」
「へ、ど、何処にっ!?」

手を引かれ、感動の再開もそこそこに、珍しく急かすように足を速めた斎藤さんはわたしを振り返ってこういった。

「言っただろう。俺があんたに届けると」
「あ、」
「今都内の桜は殆ど散っているが、それは丁度満開だそうだ。チケットは取ってある。見に行こう。嫌とは言わせん」

少し照れた様にそっぽを向いた彼の横顔は、まるで空をひらひらと舞う花弁の様に桜色に染まっていた。





涙を重ね花開く


(凄い、凄い、凄い綺麗!これは日本で最初に依頼を頂いたあの店舗のイメージにピッタリですっ!)
(それは良かったな、)
(はいっ!ああ、出来る事なら枚数数えたいくらいですっ!え、何々…花弁の枚数が300枚近くにもなる場合があるですって、凄い…、メモメモ)
(………仕事もいいが、)
(え?何か言いました斎藤さん!)
(俺が隣りに居る事を忘れて欲しくは無いのだが、)
(っ、は、はい)

そうして繋がれた手が、まるで八重咲きの様に…。



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