わたしが勤めているのは都内でも有名な薄桜(大学付属)総合病院。
各階に犇く科数は都内、いや日本一と言ってもいいだろう。中央に聳える大きな本館の周りを囲むように沢山の療養施設(センター施設)があり、緑豊かな広い庭もある。
病室数ウン百室、ベッド数同じくウン百床。常勤である医師人数は月々で多少の動きはあれど、「この病院で働きたい」と思う人の方が圧倒的に多いから、人が足りなくて困った事など過去に例は無い。この情勢の中でも未だにこの病院に飛び込んでくる人は増え続けているのだ。
名医揃い。この辺りだけに限らず、地方の医師や看護師を目指す者の憧れになっているのがまさに当病院だった。

それこそ世界有数を誇る名医が集るこの病院は、あの有名な白○巨塔にも負けずと劣らぬ位ギスギスとし、隙在らば下克上を目論むなんて黒い内事情が………、


「……ここにも居ないわね。まったく沖田先生は…毎度毎度理由つけては総回サボって」


あるわけない。

先程カルテを整理し終わったばかりのわたしは、束の間の休息にも関わらず何故か人探しに借り出されていた。

ナースステーションで今日も奮闘していた看護師8年目のわたしは、後輩の指導を兼ねて机に張り付きっぱなしだった。各自好きなデザインを持ち寄った愛用のボールペンを癖でカチカチとノックしつつ、せっせと書き物をする新人の手元を眺めていた時だった。突然ナースステーションのカウンター越しに名前を呼ばれたのは。

『おーいなまえ、じゃねぇや…みょうじ』
『はい、原田先生どうしました』
『あのよー、ちっと頼まれてくれねぇか?困ってんだ』
『………まさか、また』

一拍置いてジロリと視線が鋭くなったわたしを見て、「そのまさかだ」と苦笑いを零した内科専門医の原田先生は、首に掛けた聴診器の先を白衣の胸ポケットに収めながら、溜め息交じりに首元を掻いていた。後輩がその姿に頬を染めているのを小さく咎めながら立ち上がる。
まったく。何処にでも問題児と呼ばれる人は居る物で、この院内でも少なくはない。
いつも力任せに子供と遊びそこらの機器を破壊する小児科医の永倉先生に始まり、いつも騒がしく院内を走り回っているリハビリテーション科の藤堂先生。いや元気なのはいいけど、少しは限度と言う物を学んで欲しい。後は患者に変な実験をしようとする危険思考で有名な神経内科医の山南先生。本人曰く「勿論…害は無い範疇ですので」とにこやかに言うもんだから恐い。何が恐いって、その逆光眼鏡が恐いんです。

そして、一番の曲者といわれるのが呼吸器内科・外科と総合で受け持っている沖田先生だ。
この人が関わると兎に角イイ事が無い。彼の名誉の為に言っておくが、害が及んでいるのは院内の人間に対してで患者にでは無い。彼は其れこそ院内で5本の指に入るくらい腕が立つ。
つまり、巨塔みたいなドラマ的要素なんて一つも無くて、暢気、歓喜、陽気の三つ揃いなひょうきん有り余る病院だったりするのだ、この薄桜総合病院は。勿論それも含め支持されているんだから、頭が上がらない。

今日も言いつけられたのは、担当患者さんの回診があるからと言われている筈なのに、その時間になっても現れない沖田先生を探してくれ!との…医療まる無視な依頼だった。どうしてわたしかと問われると、わたしの言う事は聞くんだって。とんでもない。いつも強制連行だ、強制連行。

と言う訳で今、こうして広い迷路みたいな院の敷地内を探し回っている。


「仮眠室もはずれ、資料室もはずれ。午前で外来は終わっているとは言っても、その途端にサボるなんて…もう!」

ぶつぶつと悪態を付きながらも広い庭を探していく。勿論人が余り居ないだろう場所を重点的に探していく。以前は本館の裏にある桜の木の上に逃げていたりなんて事もあったから。
綺麗に整備された芝生を踏み締めてありとあらゆる場所に視線を這わせていると、ガサリと茂みが揺れる。おっと、ビンゴですか。漸く見つけた。
逃げられてはまずいからと、本能的に息を潜め足音を消す。ここで逃がすと、本当に夕方まで掴まらなかったりして、他の先生(主に土方教授)に迷惑が掛かってしまうから何としてでもここで捕獲しておきたい。

ガサリ、とまた一度茂みが大きく揺れた時だった。


「沖田先生っ!観念しなさいっ!………って、あら、」

思い切り葉を掻き分け顔を覗かせると、そこに居た小さな迷子のまん丸な瞳がわたしを映していた。思わずわたしも目を丸くさせると、それに応える様に「にゃぁ」と可愛らしい声が飛んできた。

「猫…、か、かわいい…、やだ、ウチのはじ……、ウチの子に毛色がそっくり」

思わず零れそうになった秘密を何とか飲み込み、マジマジとその迷子猫を見詰めていると、人慣れしているのか茂みから飛び出しわたしの足元に擦り寄ってきた。真顔でそれを見下ろしているわたしだけど、内心はもうお花畑状態でどうしようも無くなっていた。今はまだ仕事中だから思い切り猫を抱っこして上げられないけれど、これが仕事上がりで私服だった場合、思い切り両手で掬い上げ頬を摺り寄せる勢いでだ。

「キミ、どうしたの…?迷子なの…?やだ、あの図体がデカいだけの何処かの迷子先生と違って可愛いね」

にゃあにゃあと可愛い声で鳴いているその猫は、わたしの周りを何度か回った後、そっと足の横で腰を降ろした。わたしも同じ様に身を屈めるように膝を折ると、少しだけならいいよね、とその小さな頭を指で撫でた。
どうしてこんな所に、とは思えど直ぐにもある考えに行き着き溜め息が漏れた。以前わたしもこの場所で子猫を拾ったんだ。
高校を卒業して医療の専門学校に進んだわたしは、慣れない寮生活に加え学生業と病院勤務に研修、実習、試験、それらに追われ目まぐるしい日々を過ごしていた。夢に向って歩いている筈の足はもう毎日くたくたで、長い一日を終えてベッドに滑り込んだら最後、もう足なんて動かしたく無いって位に辛くて。もう辞めて楽になってしまおうか、と半ば夢を諦めていた時期だった。
親が同じ血筋なのか、目の前の猫と同じ様な毛色をした猫をこの場所で拾った。
勿論寮長は大反対。寮生活のルール故その時は泣く泣く実家に預けたけれど、ナース8年目となった今は都内に部屋を借り、そこで共に暮らしている。名前は、……なんでもない。

「ねぇキミ、沖田先生知らないかな…?」

いつも飼っている猫に話しかけているからか、こうして動物と会話をしてしまうのはもう癖だ。癖。勿論返事なんて「にゃあ」以外に望めないのだけど、それでもこうしている間はわたしに取っての癒しであり、今まで歩いて来た己の人生を振り返るいい機会だった。

案の定「にゃあ」と一つ鳴いた後、優雅に毛繕いを始めてしまった猫に苦笑いを零しつつ、沖田先生もだけどこの子もどうにかしなくては…と、結果…一つ厄介事を増やしてしまっただけだと気付き肩を落とした。

その時、今まで風に煽られた草木が擦れる音しかなかった空間に一つの声が落ちた。

「みょうじ、そんな所で何をしている」
「っ!?」

その声がわたしの名前を紡いだ時点で過剰に反応してしまったわたしは、思い切り振り返ってその声の人物を視界に映した。
少し離れた場所に立っていたのは、小さなカップを片手に白衣を纏ったままの斎藤先生だった。

「斎藤先生お疲れ様です、休憩ですか?」
「っ、あ、いや…少し。その…抜けてきたのだ、」
「はぁ…。そう言えば朝イチで先生が執刀されるオペが入ってましたよね?」
「ああ、それは何の問題も無い。昼前には麻酔も解け…患者の術後経過も良好故、なんの心配も要らん」
「そうですか、流石です」

ぎこちなく此方に歩いてくる斎藤先生は、当医院でも母体の一つに上がるがん総合医療センターに勤務する専属医師だ。優秀の上にもう一つ優秀をつけてもお釣りがくる位の名医と言われ、沢山の難しい手術を成功させ、大学なんかでは講演も開いている多忙な人。そして、

「あ、あのソレは…?」
「こ、これは…、」

わたしの、片思いの相手だったり。する。
わたしが指摘したのは彼の手に握られている一つのカップ。中は見えないけれど、どう見てもコーヒーカップなどでは無いだろう浅い形状。それを見下ろし少しバツが悪そうな表情を作った斎藤先生は、空いた方の手を白衣のポケットへと忍ばせた。すると同時に、わたしの足元に座っていた子猫が甘えた声で「みゃあ」と鳴き、斎藤先生の元へと歩いて行く。まるでわたしの心の中を見られた気がして、頬に熱が集中してしまった。

「すまない。待たせた」

そう言うと、目の前に来た子猫の前で先程のわたしみたいに身を屈め持っていたカップを芝生の上へと静かに置いた。いつも余計な皺一つ無い白衣が地面を擦るのもお構いなし。猫の頭を撫で、綺麗に微笑んでいる斎藤先生。更に追い討ちをかける様に、彼のポケットから出てきたのは、子猫用の小さな猫缶で。

「斎藤先生が…この子に餌を…?」
「……母親と逸れたらしく、見つけた時に相当弱っていてな。やっと物を食える程に回復したのだが…。お陰で何処へも行ってはくれなくなってしまった…」
「あらぁ…、」

確かに何処を見渡しても母猫らしき姿は無い。
これも何処から取り出したのか小さなプラスティックのスプーンで猫缶を解しながらカップに移している斎藤先生は、いつも院内で見る真面目な顔では無く、年相応の青年の様に映った。新しい一面を見れた喜びと、彼も動物を愛でる人なんだ…なんて、勝手に親近感が湧いてきてしまって、わたしは零れる笑みと共に余計な事をポロリと言ってしまった。

「うちのはじめもこの猫缶大好きなんですよ、缶開けた音だけで駆け寄って来て容器に移し終えるまでにゃあにゃあと離れてはくれなくて………、」


「は、じめ…?」

「「…………………、」」

時が、止まった。

目を見開いてスプーンを持ったまま、隣りに移動したわたしを見上げる斎藤先生。
そしてそれを「しまった!」と青褪め見下ろしているわたし。
その間には、子猫が一生懸命に猫缶を食していた。

「猫!猫です!猫の名前ですっ!別に他意はありませんっ!たまたま斎藤先生のお名前がはじめってだけで別にそれに因んで名付けた訳では…っ!」
「猫…、ああ、あの時の、」
「あの!あのですね!別にわたしが斎藤先生の事が好きだからって、飼い猫にはじめなんて付けた訳では決して…っ!」
「なっ…!」

また、時が止まった。

ぼんっ、と一気に顔が火照り今までマシンガンの様に言葉を垂れ流していた唇は開いたままで音を無くした。サワサワと長閑に流れる風と、遠くの方から聞こえる院内アナウンス。それらもすぐさま頭を流れ耳から抜けていく。
ああ、何を言ってしまったんだろう。そもそもわたしがここに来たのはたまたまで…、またまた姿を消した問題児の沖田先生を探しに来て、そしてたまたま子猫を見つけて、そこへたまたま斎藤先生が現れて…それで。

大パニックの末盛大な「たまたま祭り」を脳内で起こし、間も無く停止してしまったわたしは、無意識に一歩一歩後ずさる。
斎藤先生も、その長い前髪で顔を隠す様にして俯いてしまったし。次にその瞳に移る前に退散してしまいたい。今までベテランナースで通っていたわたしが、こんなはしたない顔をして彼等の信頼を失いたくは無い。それこそ、仕事がやりにくくなる。

ずり、と擦れた外履きがまた一歩後退した時だった。


「…みょうじ、」
「っ、は!はいっ!」

名前を呼ばれ肩が上がる。駄目だ。逃げられない。

そして、斎藤先生は未だ腰を下げたままゆっくりと顔を上げ、わたしの情けない顔をその濃空色の瞳に収めて見せた。

「俺は、以前ここであんたが猫を拾ったのを見ていた、」
「え、」
「そうか。もう随分大きくなっただろう。…あの頃はまだこいつと同じ位の大きさだったが…」

そう笑った斎藤先生の頬も、少し赤みが差していて思わず息を飲む。
風に遊ばれている髪の隙間から見えた優しい瞳は直ぐそれて言って、行き場が分から無いとでも言いたげに猫に向けられていた。そして、聞こえたのは。

「俺も、ずっと迷っていたが今決めた。こいつは俺が飼おうと思う」
「え、…あ、」
「あんたは以前…此処で良く泣いていたな。しかし、どんな事にも懸命で…そして実直なあんたを俺は認めている。今度、」

食事を終え舌なめずりをしている子猫を両手で抱え上げると、そっと立ち上がりわたしを真っ直ぐ見据えた斎藤先生は、照れた様に目を伏せると小さな声でこう続けた。

「今度…食事でも、どうだろうか。そのあんたの猫…は、は…はじめにも…久し振りに会いたく思う、」
「斎藤先生…」

新人の頃、同じく新人だった斎藤先生は、雑務だろうが何だろうが真っ直ぐ向き合い、毎日を全力で走っていた。それをずっと見てきたわたしは、そんな彼に惹かれ、いつか彼の様になれたらと思って、今日までずっと頑張ってきた。飼い猫のはじめに彼の名前をつけたのは、想いを寄せているからと言う理由だけじゃなく、わたしに生き甲斐を与えてくれた彼への感謝の気持ちでもあった。挫けそうになっていたわたしを救ってくれたはじめと、斎藤先生。

「何故泣くっ!」と驚いた様子の斎藤先生は、子猫を降ろすとわたしに駆け寄って慌てていた。それに「嬉しいからですよ」と返すと、安堵の溜め息を吐きそっと肩をさすってくれた。

毎日たくさんの人を救う手は、とても温かく…
容易にわたしの事も救って見せた。






救う手


(ふぅ〜ん、良いもの見ちゃった。土方さんに言っちゃおうかなぁ…。斎藤先生がなまえちゃんを垂らしこんでたって)
(…総司、あんたは。またサボりか)
(あああ!沖田先生っ!あなたねぇ!)
(大丈夫大丈夫、僕の変わりは天下の土方教授がきっとフォローしてくれてるよ、ところで何?結局どうなの?はじめ君も満更じゃなさそうだし、これは晴れて…って奴かな?みんなに言い触ら……教えなきゃね)

(沖田先生っ!)
(待て総司!)


あとがき→


prev next

bkm

戻る

戻る