金曜日の夕方。
夕刻に、通り雨が降ったらしい。



「さ、斎藤さんっ!」

少し色が濃く滲んだアスファルトから視線を離し声がした方を振り返ると、俯き加減で己のコートの端を握り締めているOLさんが居た。
どうしたのか、と問うが「あ、」「う、」と、か細い声が聞こえる程度でその呼びかけに関する言詞は続かない。
いよいよ心配になり、俺は今しがた歩いたばかりの足跡を辿る様にして引き返した。





よくよく考えれば、本日は朝から奇怪な行動が多かった気がする。

朝、会社に着けばいつも出勤時間ギリギリに滑り込んでくる総司よりも、多少早い程度の時間に顔を覗かせる筈の彼女が、既にデスクに着席していた事から始まる。
おはよう、と声を掛けるとまるで花が咲いた様な笑顔と俺の名を呼び、続けて元気に挨拶を飛ばしてくれたが、突然何か思い出した様に口篭り、何か言いたげな視線を寄越して来たのだ。それに首を傾げていたが、すぐさま後ろから出勤してきた左之に捕まりその時は何も聞けず仕舞いに終ってしまったのだ。
そして、いつも通りの金曜日が始業チャイムと言う形で始まりを告げた。

仕事中も同じ様な感じだった。
それこそ、多少違和感はあれど特に気にしては居なかった俺は、いつも通り己の仕事をこなし、時に遊び半分の平助を叱りながらも過ごしていた。

午前分の作業も間も無く終盤となった時、突然肩を叩かれ振り向くと、やはり視線を漂わせどこかぎこちない様子のOLさんが居た。

「どうした…?解らぬ所でもあるのか」
「あーーー…えーーーーーー…っと、ですね…」
「…ああ、」
「これ、良かったら、どうぞ…」
「これは?」

そして差し出されたのは、白く俺よりずっと小さな手の平の上に乗った飴玉が一つ。それは呆気に取られた俺をじっと見上げていた。

「はあ…、」
「これ、この間コンビニで見つけた新作らしいんですけど…斎藤さん好きそうだか、ら…」
「では、ありがたく貰…」
「豆腐、好きですもんね」

飴玉の包み紙に書かれていた「珍発売!豆腐キャンディー☆」と言う、食べ物には余り使用されないであろう万葉草書フォントで書かれた文字に一瞬伸ばした手を引っ込めそうにはなったものの、少し照れた様に笑ったその表情に押されそれを手に握りこんだ。
ずっと機会を伺っていたのか、少し体温が残る飴玉に口元が緩んだのは言うまでもない。
が、しかし。
今一度礼を言おうと顔を上げた時には、既にその姿は無く目の前には仕事に励む社員達の背中があるだけだった。隣りの平助の「どうしたんだOLさんの奴、すっげぇ速さでオフィス出てったけど…」と言う問いにも俺は「さあな、」としか返事する事が出来なかったのだ。

そして時間は流れ昼休み。
俺はいつも土方さん達と共に社員食堂で昼食をとるのだが、食堂内もいつもとは違いOLさんの姿があった。
彼女は同僚達と食卓を囲んでいたが、どこか元気が無い様にもみえた。ここで俺は「やはりどこかおかしい」と思い始め、金曜日はいつも仕事上がりに二人で逢う故、その時にでも聞こうと決めていた。

そして、食事の最中。
前方から飛んでくる視線は容赦無く隣りのあの男を興味の渦へと駆り立てた。

「ねぇはじめ君、きみ、熱視線総浴びだね、あーあ羨ましいなぁ」
「あんたはまた馬鹿な事を…何故いつもいつも一つの事に集中が出来ぬのだ」
「だって、ほらほら。OLさんちゃん」
「OLさんが一体……」

総司の声に、膳から視線を上げるとそこにはやはり、ジッと此方を見るOLさんの姿があった。
…と言うか、午前から比べどこか睨む様な鋭い視線になってきている気がするのは俺だけだろうか。取り合えず己の最近の行いを振り返ってみるも、特に何かしてしまった覚えに心当たりなど無かった。隣りから聞こえる楽しそうな含み笑いを聞かなかった事にし、再び眼下にある膳を見詰め「なるほど」と気付く。
この間、食事に行った時に彼女が好物だと言っていたおかずがあるではないか。「これか!」と閃いた俺は、何も考えず席を立ち真っ直ぐOLさんの元へと向うと、A定食についてきた揚げ出汁豆腐を颯爽と差し出してみた。
これで彼女の機嫌は瞬く間に直る(いや、未だに心当たりは無いのだが…)筈だと。その時は考えていたのだ。

しかし。

「斎藤さん?何ですかコレ」
「これだろう、あんたが意味深な視線を向けていたのは」
「と言うと…?」
「以前、好物だと言っていた。俺とてそれは同じだ。それ故に言い出せなかったのだろう。気付かずすまない」
「…………………、」

後ろで総司や、左之達が噴出す声が聞こえたが俺はその小鉢を彼女の手前に置き揚げ出汁豆腐に別れを告げようとしたその時だった。
ガタンと勢い良く立ち上がった彼女は、その小鉢をわし掴み高く掲げると、そのまま箸を使わず…

飲んだ。


「……………、」
「ち、違いますっ!モグッ、…わたしそんな物欲しげに見てた訳じゃ、っング、なにこれウマッ、」
「は、はあ…」
「斎藤さんのにぶちんッ!」
「珍ッ!?」

そして、俺の豆腐はさっきよりぎこちない表情になってしまった彼女の胃袋へと吸い込まれ、生姜やネギ一つ残らず空になった小鉢を突っ返され、「ご馳走様でした!」とまるで捨て台詞の様な声音のOLさんの背を茫然と見ていたのだった。

そのままの状態での就業時間。
退社する直前まで戸惑いを隠せなかった俺と、やはり終始何か言いたげなOLさんの目の逸らし合いは最後の最後まで続いた。

そういった関係になってもう大分経つが、それに伴い以前とは違ってしまった部分も多々ある。仕事に私情は挟まない主義の俺に何か不満でもあったのだろうか。退社後も並んで駅まで行き「本日はどうする」との問いに歯切れ悪く「斎藤さんのお家がいいです」と言われた時には、どこか心臓が握られる様な痛みすら感じていた。
一体俺の何が…。と問いたい気持ちはあれど、ここで何か余程の事を告げられてしまったら…と考えると自ずと口数は減り、俺の地元駅に着いた時にはお互いに無言だった。

そして、今。背後で立ち止ったOLさんが俺の名を、小さな声で呼んだ。

あと数メートルで俺の住むマンションへと辿り着く矢先の事だった。


「OLさん、本日はどうしたのだ…あんたらしくも無い、何か言いたい事があるのなら…」
「…………っ、」

肩に触れると、ピクと身体を跳ねさせるOLさんを見てやはり俺は不安を駆り立てられていた。つい先週の今頃はお互いに酒を飲み、居酒屋だと言うのにも関わらず…その、余り人には見せられぬ様な甘い時間を過ごしていたというのに。今の現状は一体何なのだ。
俯いたままの彼女の表情を見たくなって、少し屈んでみる。



「俺は、あんたを何か…その、不安にさせていたのだろうか…」
「………、」
「ならば言って欲しい、少しでも近くに居、」

そこで、俺の頬に何かぽつりと冷たい物が触れたと同時。
OLさんの温かい両腕が、屈んで少し顔が近くなった俺の首元に回されたのだ。

「わたし、なんだろう…。今日は朝から変で、」
「ああ、変…だったな。自覚はあったのか」
「はい。更に、なんていうのかな…あの、えっと、」
「ゆっくり話すといい、俺はここに…。いや、また雨が降って来た様だ、マンションに、」

「斎藤さんっ!」



また通り雨らしい。


小さな雨粒は、いつの間にか視界一杯に広がる半乾きだったアスファルトを再び黒く染め上げ、俺達二人の肩を容易に濡らして見せた。

反射的に背中に回した俺の両腕は、唇に触れた熱によって力が篭められOLさんのお気に入りのコートに皺を作る。小さく背伸びをして、俺に小さな口付けを寄越しやっと視線を合わせた彼女の顔は、これでもかと言うくらい真っ赤に染まっていた。

「…、な!」
「ごめんなさい。わたし、その…朝からずっと斎藤さんに甘えたくて甘えたくて…どうしようも無くてですね、」
「甘え…、」
「はい。だから、えっと…良く恋愛小説でありそうなオフィスラブのシチュエーションに持っていくにはどうしたらいいかとか、餌…じゃない、食べ物で釣ってみたら斎藤さんが釣り針にかからないかな、とかずっと悶々してました…ごめんなさい、」

まさか、


「…………あんたは朝から酔っていたのか?」


あの飴玉や熱視線にそんな意味が篭められていた等露知らず、その言葉に目を丸くするしか出来なかった。
いつも甘えてくるのは部屋で二人きりの時か、酒が入っている時位で。俺もそれが当然だと思っていたし、彼女もそう言った事が余り好きではないと思っていた。いや、俺が勝手に思い込んでいたらしい。

「酔ってなんて居ませんしっ!」と慌てた後、照れた様にはにかんだOLさんを見下ろして、俺は軽くなる胸の内を落ち着かせる事に励んだ。

あと数メートルの距離がもどかしい。
早く力一杯この腕に抱き留めてしまいたい。

「あんたでも、素面で甘える事があるのだな…」
「っ!だって!斎藤さんとお付き合いする様になってから一週間がすっっっっごく長いんですよっ!!!今は繁忙期だし、平日になかなか逢えないしで、もーーーー!気が狂うかとっ!」
「………また、そんな事を平然と」
「へーーー!斎藤さんは寂しくないんだーーー!へーーー!じゃあいいですよっ!へんっ!」

お互いに通り雨に降られ、ずぶ濡れの状態だと言うのに、いつも通りに戻った明るい声は人が居ない路地に良く響いた。頬を膨らませ身体を離したOLさんを見下ろしていた俺は、濡れた髪やコート、そして重い鞄等気にも留めずご立腹らしい彼女の手を取り歩き出した。

「さ、斎藤さん…っ!」
「ならば、もっと時間を作ろう。繁忙期など強いて言えば…元より俺には関係が無い」
「う、それって…わたしにもプレッシャー掛けてます…?」
「あんたも仕事を時間内に終わらせれば何も問題等無いだろう」
「うげえ、」
「しかし、今は…」


やはり通るだけだった突然の雨に背を押され、俺の足はいつもより断然速く彼女を連れ動き出す。


「一刻も早く、そして今まで以上に、俺があんたに甘えたいのだ…」


酒の力など無くても甘え…そして、
甘えられる関係を俺はずっと欲していたらしい。

その証拠に、こんなにも…






雫が心地良い


(しかし、一つだけ言うとしたら、あの飴玉は二度と買うな)
(え?)
(まず商品名からしておかしかったが、豆腐は本来…飴玉にする様なものでは無いのだ、)
(不味かったんだ…)


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