僕達の関係は順調……なんだと思う。

あの時のプロジェクトだってちゃんと上手くいったし、あの土方さんが目を剥いて「お前がリーダーのチームなのに」なんて、すっごく失礼な事を言われるくらいに完璧だった。
サボった人達にはそれなりの罰も受けて貰って、その裏で晴れて可愛い彼女をゲット出来たのが僕って訳。
その彼女…なまえちゃんは入社した時からも凄く頑張り者で、周りから人気もあったし面倒ごとが嫌いな僕は気になってても「わざわざそんな物件に首突っ込むのもなぁ…」なんて気後れ…じゃないけど、気にしつつもずっと言えないで居たからちょっと嬉しかった。

でもそんな僕にも、一つ。
引っ掛かってる事がある。




「おはよう、なまえちゃん」
「あ、沖田さんおはようございます」
「うん、今日も早いね。すごいや」
「沖田さんは………今日も、その…ギリギリですね」
「あっははは、僕はいいの」

金曜日の朝って好きだけど、嫌い。普段サボってる分一日やる事が多いから。今日も寒いし、ホント早く春にならないかなぁとか起きて一番に思ってる。
僕は出勤早々喉元を締め上げるネクタイを解きながらお目当ての人物の背後に寄っていった。声を掛けると未だにピクって肩が上がっちゃうのを見るのが好き。だって凄く可愛いし、新鮮だと思う。別に他の女の子と比べてる訳じゃなくて、僕の周りには今までに居ないタイプだったから。

なんていうんだろう。幸薄い…っていうのかな。流石に怒られるかな?
彼女は「田舎育ちだからボロが出ない様に敬語なのは許して欲しい」と言われていたけど、名前呼びもそうだけど…僕はそう言うところも見ていきたいんだけどなぁ。

僕の問いに椅子をくるりと回して振り返ったなまえちゃんは、そのまま流れる様に僕と壁に掛かっている時計を苦笑いで見上げていた。そしてその隣り……何故か他人のデスクの椅子に我が物顔で腰掛けている人物を見やってから「何、その顔…」と口を尖らせた。

「んーん、何でもないでーす!」
「OLさんちゃん朝から顔緩んでるね。あと化粧の乗りもイマイチだよ。顔のむくみも…ソレお酒の飲みすぎ?いい加減はじめ君の言う事聞いた方がいいんじゃない」
「朝から酷い言い様ですね沖田さん!斎藤さんの言いつけ守って最近は控えめですしっ!」
「ふぅん、まぁはじめ君は甘いからしょうがないけどね、」
「あのドSさん…話し聞いてます?」

なまえちゃんの隣りでニヤニヤと顔面を緩くさせているのは、彼女の同期のOLさんちゃん。この子は僕のお気に入り(からかいたい人間)ランキングで5本の指に入る後輩の一人だったりする。ランキングって言っても今適当に思いついただけなんだけど、実際に気に入ってはいると思う。だってからかうと凄く反応が面白いし、存在自体が残念で…そしてイイ子なんだ。今だってほら、柔らかいほっぺを抓んで引っ張ると涙目になって奇声を上げてる。
でも最近は悪い虫…いや、悪くは無いか…、真面目虫が付いちゃったから余りちょっかいを出すと僕が怒られ兼ねない。ほら、もう背後から凄い視線が飛んでくる。きっとはじめ君だろう。朝から刺さる殺気紛いの視線に僕はやれやれと肩を上げた。

「いででででっ!おひははんっ!ほほ、千切れふっ!」
「あの、沖田さん…斎藤さんが凄い目でこっち見てます」
「ああ、うん知ってる。睨み一つで人殺せるよね、彼」
「だったら、あの…そろそろOLさんちゃんを開放して、」
「じゃあさ、僕の事そろそろ名前で呼んでくれない?」

「え、っ!」

僕が気になってるのは、コレ。
あのプロジェクトからもう何ヶ月も経ってる…つまりなまえちゃんが僕の彼女になってからも数ヶ月が経ってる。なのに、未だに名前で呼んでくれないんだ。

ついに、こっちに来たはじめ君が僕の手をバシンと叩いて「何をしている、もう始業時間だ!」なんてOLさんちゃんを離しに掛かる。それには目も暮れず、僕はじっと目の前で顔を真っ赤にして俯いてしまったなまえちゃんを見下ろしていた。

「じゃあね、二人とも。今日もお仕事頑張ろうか」
「沖田さんが、仕事を頑張る…?空耳?」
「何OLさんちゃん、反対のほっぺも赤くしたいの?喜んで」
「ごめんなさい嘘ですっ頑張りましょうっ!」

はじめ君の後ろに隠れていたOLさんちゃんが慌てて自分のデスクに戻っていくのを見ながら、誰にも気付かれないように静かに溜め息を吐いた。
顔を上げたなまえちゃんが何か言いたげに口をぱくぱくさせていたけど、それに気付かないフリをして「金魚みたいだね」なんて頭をぽんぽんして、その場から背を向け歩き出した。

何でかなぁ。と、ネクタイから開放された首の後ろを擦りながら頭を擡げる。

実は、僕は知っている。
前にたまたま同じ階にある会議室でサボっていた時、丁度会議用の椅子を取りに来たなまえちゃんとOLさんちゃんに遭遇した事があった。僕は土方さんに簡単にバレちゃわ無いようにって、奥の方にあるソファに寝転がっていたから二人は気付かなくて。
あの日は付き合い始めてまだ一ヶ月やそこらだったと思うんだよね。その頃は特に不満も無くて、時間が合えば逢ったり、恋人らしい事もしてたし、今みたいにこんな悶々してなかった。

『斎藤さんとね、なまえちゃんが沖田さんとくっ付いたら楽しいねって話してたんだよ』
『そ、そんな事話してたの…っ、』
『だってあの沖田さんだよっ!?あ・の!沖田さんっ!』
『OLさんちゃん…私の彼氏なんだけど、』
『ごめんごめん、でも大丈夫?苛められてない?』

何を言ってるのOLさんちゃんはって思った。
酷い言いようだねって思わず身体を起こして今直ぐプロレス技掛けに行ってやろうかとか思ったけど、なまえちゃんが彼女の前で僕をどんな風に話しているのかちょっと気になったんだ。じっと息を殺して、パイプ椅子をずるずる引き摺っている二人の会話に、神経を集中させた。


『そ、総司さんはすっごく優しいよっ!』


一瞬、時間が止った気がしたんだ。
こんなの初めてだった。女の子とのお付き合いの中で名前を呼びたいとか呼ばれたいとかそんな中学生みたいな事、一々意識した事なんて人生の中で一度だって無い。付き合っちゃえば早い段階で名前呼びなんて定着してたし、僕はこんな性格だから女の子を下の名前で呼ぶなんて、対して重要でも何でも無かった。

…筈だったんだけど。


『なに、今の…っ、』


がちゃがちゃと音を鳴らして会議室から出て行った二人を確認してから身体を起こすと、僕の顔は真っ赤になってて呼吸が苦しくて、喉が詰った。そのまま両手を顔に当てたのはきっと、自分でも頬が熱くなっているのが本当なのか確かめる呈だったんだと思う。その日は土方さんから携帯に数十件近い着信が無かったらそのまま会議室でぼーっとしてたと思う。

それからはああやって事ある毎に「名前で呼んでよ」なんて持ちかけてみるのに、その成果は一向に得られなかった。いつもいつも顔を真っ赤にして黙っちゃうなまえちゃんに、僕はやきもきしていたんだ。
OLさんちゃんの前だから、呼ぶのかな。どうして僕の前では呼んでくれないんだろう。そんなの可笑しいなぁと思いつつも、そんなのはただの駄々の一環で。僕は、ただね…。

もう一度、あの声で
なまえちゃんの声で、僕の名前を聞きたいなんて強く思っていたんだ。



「お疲れ様でした」
「お疲れ様〜、お先ぃ!」
「また月曜日ねー!」

就業後。
みんなが生き生きとした顔で颯爽と帰っていく中、僕は会議室の前でじっと立っていた。今日は人数が集らないって理由で会議室飲みが開催されないって聞いて「これだ」と思った。つまり、今日はこの会議室は空。勿論鍵は土方さんから借りてきた(黙って)から、なんの問題も無い。家までなんて待ってやらない。

「あ、沖田さんお疲れ様です」
「お疲れ様、なまえちゃん。今日はどうする?美味しい物食べに行きたいなぁ、僕」
「あ、はい。じゃあこの間OLさんちゃんが斎藤さんと行って来たって言うお店に、」
「その前に、ちょっといいかな」
「え?」

もう後は帰るだけなのに、ちゃんとお化粧直しをしてヒールを鳴らしてる彼女の手を引っ張って誰も居ない会議室へと連れ込むと、僕はそのまま後ろ手に鍵を回した。
カチャンと軽い音が聞こえて、僕の革靴がコツコツと静かな室内に響いていく。僕の突然の行動に、訳が解らないといった表情を浮かべて少しうろたえているなまえちゃんの前まで来ると、一歩後退した彼女の身体が会議室の長机に一度だけぶつかった。

「あの、沖田さん」
「………」
「あ、あれ?あの、何でしょう、ご飯食べに行かないんですか…?」
「……………」
「え?え?目の前で堂々と無視ですかっ!?沖田さんっ!」
「………………、」

問い掛けに返事をひとつも返さない僕を見上げて、いつもより少し大きな声を出すなまえちゃん。最初はにこやかだった僕だけど、ゆっくり頬の筋肉から力を抜いていって、今は無表情。それに連れてなまえちゃんの顔も徐々に暗くなっていって、今じゃあ泣き出しそうな位大きな瞳が揺らいでる。泣き顔も可愛いなぁ。この表情はいつもベッドの中でしか見られないから、会社で見ている事にちょっとした悦びを感じてニヤけちゃいそうなんだけど、まだ駄目。

僕と同じ様に言葉を発さなくなったなまえちゃんを他所に、僕はポケットに入っていたスマホを取り出すと受信メールボックスで一番を締めている名前をタップし、素早くメールを送信する。勿論その名前…つまり送り主は目の前で泣きそうになっているなまえちゃん。
ポケットに再びスマホを滑り込ませたと同時に、目の前の鞄から小さな振動音が聞こえた。

「…え、」

今の行動を見ていたから、驚きの声を上げつつも鞄から震えているスマホを取り出しぎこちない動作で操作している細い指が見える。伏せた睫毛が震えて今直ぐ抱き締めたい衝動をぐっと抑えて僕は再び、笑みを浮かべた。


僕の名前をもう一度呼んで。
別の誰かじゃなくて、ちゃんと僕の前で。


きっと、そのメールを呼んだんだろう。弾かれるように顔を上げたなまえちゃんは、目一杯口を開けていて手元のスマホを握っていた手から力が抜けていくのが見て取れた。
「ね?」と言う意味を込めて、首を傾げておねだりして見ると、一瞬息を飲んでからやっぱり顔を真っ赤にして俯いてしまったなまえちゃん。

やっぱり駄目か。とちょっとだけ悲しくなった時だった。

「わ、私は…ですね、」
「…………」
「男性を下の名前で呼んだ事が、今までで、その…一度も、無くて…」
「…………、」
「本当は貴方の事だって、その…名前で呼びたいんです。けど、」
「……………、」
「今でも、夢見たいで…貴方が私の恋人だなんて、未だに信じられない位の奇跡で、ちょっと、怖気づいてました」

恥ずかしいんだろうなって言うのは薄々気付いていたけど…、夢見たいって。僕がキミと付き合っている事が?奇跡だって?

何それ、


「最近はやっと、OLさんちゃんの前でだったら、呼べる様になってきて、」
「…………、」
「まだ、ちょっと恥ずかしいですけど、あ、あの…」


凄く、うれしい。



「これからは…その、総司さん、って呼び、」
「……っ!」


呼びますね。…きっとそう言おうと思ったんだと思う。でも、僕は「総司さん」の「そ」の部分で既に一歩足が出てて、「呼び」の時点で両手を伸ばしてなまえちゃんを腕の中に閉じ込めていた。小さな悲鳴を零して、僕の体重の所為で後ろに背を曲げたなまえちゃんは、スマホを持ちっ放しの手で僕を抱き返しながら「あ、あの!」とうろたえていた。

「もっと、」
「え?」
「なまえちゃん、もっと呼んでよ」
「そ、総司さん、」
「もっと。全然足りないよ、ほら」
「総司さんっ!」
「…………、」

お仕置きのつもりでこんな所に連れ込んだのになぁ。
これじゃあ、まるで


「っ!総司さんっ!だ、大好きですっ!!!」


僕の方が、耐えられそうに無い。

素なんだろうか。ちょっと訛りが滲んだ「大好きです」に、僕は満足そうに顔を緩めた。
地に付いていた両足が腰から溶けていっちゃいそうな感覚を感じて、僕はなまえちゃんの肩口にぎゅうと自分の唇を押し付けて笑った。


「うん、僕も、大好き」


その言葉になまえちゃんが小さく笑を零して僕の頭をゆっくり撫でた。
その手の平はとても、春のように暖かかった。




ぽかぽかと


(これからはどこでも名前呼び、じゃないとまたお仕置きだよ)
(え、お、お仕置きだったんですか…さっきの、)
(なぁに。OLさんちゃんみたいなのが好みなの?僕は別にそれでもいいけど)
(いやですっ!!!!!)
(うん、じゃあしない。ねぇ、)
(はい?)

(もう、いっかい)



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