夢の浮橋、絵空事。
眠る我が身を包むは福禄なり。

夢の中でのみ交わされる絵空事に目を細め、わたしを見下ろす濃紺色の髪の男は「あんたを掬うのは俺以外に居らぬ」と頬に手を添え微笑んだ。それを包むように己の手の平を重ね謳うは恋の唄。

「わたしは此処から飛べる事などこの先ありません。どうか捨て置いて」

それだけ告げると、泡となって消えるのは愛おしい人。好いた男が、わたしを想い触れてくれただけでもう思い残すことなど何もありません。夢の中で位、幸せになればいいものを…、再び瞼を起こせば恐らく月夜の世界。昼なり朝なり、全てどうでもいいのです。

外まで歩くには長い道程ですから…。


はした揚げ代は遠の昔に脱し、傾城賑わうこの四角形の内側でわたしの階級は今や一度に三十九匁をも稼ぐ程にまで上り詰めた。遊郭らしくに匁で表して見てもやっぱり、それぞれの見世に寄って違う揚げ代の所為で、凄いのかそうでないのかの境が未だにわからずにいるけれど。

「はあ、もう夕暮れなの…」

見世天神に位置付けられた時にも悦びなど一寸も測れなかったし、特に何も思わなかった。幼い頃からこの様な場所で育つとどうやら無垢な心こそ廃れ朽ちるらしい。大体、己の芸を商い品にしている時点で真っ直ぐに育てと言う方が可笑しな話ではないかと。しかしわたしはお利口さんだから、客の前では笑顔も作るし浮いた言葉の一つも言ってみせる。腹の中じゃ、はんっと頬杖を付きほろ酔い気分で穢れた浮世ごとを並べる男に唾を吐きつけた。
「ぬし様が一番でありんす」と猫のように喉を鳴らしながら枝垂れ落ちればそれで終いなの。とても簡単。口さえ利ければ何のその。
あちらの岡場所が潰れたこちらの岡場所が潰された。と巷で話題になろうものなら野次馬にでも飛び出したくなるくらい童心満載だと言うのに。今こうしてぼうっと見世の外を眺めるわたしは何とも不健康だこと…とまた呆れて息を吐く。

あの先に見える大門を出れば、
空はこの窓から見える此れより、ずっとずっと広い空があるのでしょうか。

「なまえちゃん、今夜も御呼ばれが届きはりましたえ」
「ええ、またぁ…先乗りは嫌やわ」
「それが、ふふ…あの彼」
「え、嘘!そ、それほんにっ!?」

生まれはもともと江戸にあり、訛りなんてここに着てから覚えた様な物だった。周りの姉さん方を見て着いて行くのに必死だったわたしは禿として初めて身につけたのがこの京言葉だった。と言っても未だに「あんたの言葉はやはりどこか違うんねぇ、ぎこちないもの」と笑われることがあるのだけれどそれも愛嬌だと笑えば相手も笑う。

そんな拙いわたしにも、ひとつまるで嘘の様な夢があった。

だらりと窓辺に掛けていた足を下ろし、わたしを呼び出しに来た見世番の姉さん(年齢は上だからわたしは関係無く姉さん呼び)の満面の茶化し顔に食いついた。「天神はんがはしたない」と笑う彼女が少し崩れた前髪を掬い耳に掛けてくれた所で、わたしはどきどきと煩くなった胸を締め視線を泳がせた。

「どうしました?はよぉ部屋行きましょう。待たせてはりますえ?斎藤はん」と、長い付き合いの彼女がわたしの前に座ったまま首を傾げる。何も応えずじっと畳を見下ろしているわたしの顔はここ数日で一番浮かない顔をしていたと思う。
いつもなら、両手を上げて喜ぶところなのに。

「なまえちゃんもしかして、………まだゆってへんの?」
「………今日、言う」
「そう、辛いなぁ…。何なら楼主はんに頼んで代わりに言うて貰う?」
「それはいやっ!」
「…よね。ええ。好きにした方が、後腐れもないやろうから」
「…うん、」

再び衿をいつもの位置に戻すと、顔の筋を締め一歩踏み出した。

夢。
ああ、それはね。



「斎藤はん、来ました」
「…ああ、」
「……もう、前に一言了承してって言うたのにっ!」
「す、すまない」

下げていた頭を上げ元気一杯に声を張ると、部屋まで案内してくれた姉さんがわたしの背後でくすくすと笑う声が聞こえてきた。
「は、入れ」なんて、少しどもりがちな言葉が飛んできて更に笑ってしまう。それに釣られつつもゆっくり襖を開け今一度負深々と頭を下げ挨拶をした。「なんかあったら呼んでな」そう告げ、酒やら遊び道具やらを運んでくれた姉さんに礼を言うと「しっかりしぃ」と眉を寄せて切なげに言われてしまった。

目の前の彼は斎藤一さんと言う。一と書いてはじめと読む。
一番初めにこの見世に訪れた時は山口だと名乗っていた筈なのに、いつからか斎藤になっていて、それを問えば「個人的な来店故、今の本名を」とばつが悪そうな顔でさらに笑わせてもらった。

既に手酌で一人飲んでいたらしいはじめさんは、わたしを見るなり「顔色が悪い」と鋭く言い放つ。

「大見世の上階級捕まえて開口一番それですの?女心が解らんお人」
「その言葉も居心地が悪いと何度も」
「もう。あれも嫌これも嫌。わがままですね、はじめさんは。まず言う事があると思うんですけど…」
「…、」

もともと無口な人だとは思っていたけど、それは違って実は恥かしがり屋なだけだったという。もう襖も閉めてこの内側にはわたしとはじめさんの二人だけだと言うのに、きょろきょろと辺りを見回すのは以前行われた新選組の島原らんちきの所為だと思う。なにやら他所の見世で一悶着…いや、一暴れしたみたい。頑張って覚えた廓言葉が嫌だからと京言葉にしたのに「いらん」とむっつり顔で言うもんだから、初めの頃は何この人凄く面倒くさいわ。なんて内心嫌悪していた。

でも

「あ、あんたに…逢いたくて来た。その…顔を見れて、良か…」
「…また語尾が聞こえません。もう一度」
「からかうなっ!」
「その様な時は大声が出せるんですね、一度喉を医者に見てもらった方がいいのではないですか?」
「…ぐっ、」

こんなにも可愛らしい表情を一度見てしまったら、女は誰でも落ちると思うんです。

今日のはじめさんは、いつもの着流しにまるで病人かと疑われる様な襟巻き姿では無く涼しげな浴衣姿。いつもは隠れている涼しい喉元を見てわたしが丸目を瞬かせると、それに気付いたのか「これは、」と胸の合わせ目を掴み肌を隠す様にして押し黙った。

「暮れ盆も過ぎましたし、もう暦の季節は初秋ですよ?何故浴衣?」
「…い、以前、あんたが言っていたのだろう」
「わたしが?」
「ああ、今夏は祭囃子を遠くから聞くだけの夏だった故、雰囲気だけでも連れて来いと…」

ああ。そう言えば。

わたしは有階級故昔みたいに使いには出されない。それは近場に着物を買い付けに行ったりする以外、見世の外には出して貰えないと言う事。今年も大きな祭りがあったと風の噂で聞いて、半ば行けなかった八つ当たり序での煽り文句だったんだ。「祭りに行けなかったのが悔しいから、今度来る時は夏祭りを一緒に連れて来て欲しい」と。これはわたしの洒落を利かせた一つのからかいであって、別に浴衣を着て来いと直接言った訳じゃない。
彼が身を置いている新選組は祭りの警備も偶に行うと言っていたから、もし祭りに参加する時があったら土産話を持ってきてくれと言いたかっただけなんだ。

なのに、この人は。と実直さに呆れるのとは別に募るのは愛おしさだけだった。

「ふふ、色っぽいですねぇ、ああ、はじめさんの後ろに屋台が見えてきました。あれは何でしょう。林檎飴ですかねぇ」
「……あんた、忘れていただろう」
「滅相もございません」
「…屯所を出る時、他の者に散々からかわれたのだが」
「あら、見たかったです」
「なまえ!」

彼が過敏に反応をする度に手元のお猪口の中身が揺れて着物に落ちる。
隣りで寄り添い酌をするわたしを睨みつけているはじめさんだけれど、その頬に差す赤みの所為でちいとも恐くありません。寧ろ、想いが溢れて今にも泣いてしまいそう。
結局宥め終わる頃には「なまえの為なら、恥を掻くのも耐える」なんて言わせてしまった。他の客の前では笑顔も作るし浮いた言葉の一つも言ってみせるわたしだったけど、彼の前だとそう上手くは振舞えなかった。駄目、駄目…と何度も頭の中で自制した筈が、気付けばはじめさんの腕の中、本当に女の喜びに浸り自ら唇を寄せる程焦がれ尽くしていたのです。

「何か、お遊びします?」
「いや、いい。隣りに居てくれれば、それで」
「……見世からしたら専ら悪い客言われますえ。芸事も頑張ってるのに、魅せる出番も出てきぃひんもの」
「そうか。ならばその遊びとやらはまたの機会にでも披露して貰おう」

わざと他の客にするのとは少し異なる戯言を吐いたわたしに、はじめさんはくつくつと面白そうに笑っただけでいつもの様に杯を傾け酒をぐんぐん飲み干している。彼は芸を披露せずとも酒代だけで事足りると言われてる事なんて本人は知らないんだけど。


「……はじめさん」
「ああ、」

小さな会話の切れ目。
空になったばかりのお猪口に酒を注いでいる間少しの沈黙が包み、わたしは今かもしれないと口火を切った。


「わたし、身請けが決まりました」


とくとくと彼の持つ弧に透明な酒が満たされていく様を見て、静かに目を閉じそう告げた。
顔を上げていないから表情こそ見えなかったけれど、一拍置いて息を飲んだ彼が普段から無表情過多の顔を歪めたのが理解できた。

夢はやはり見る物です。
枕に頭をつければ瞼が下りて眠りに付く。もう外で朝鳥が鳴いて居ても眠る事が多いわたしは何度も何度も夢の中で彼に甘えた。「例え叶わぬ夢であれど、見るだけはただ。花代も戯言も要らないの」と。これは誰が言っていたんだっけと考え、ああそうだと思いつく。以前、客を愛し本気で惚れた男以外の者に身請けされ、この島原から外へ出た同業が言っていたんだ。いつか此処から飛び立つときらきらした目で空を仰いでいた彼女は、その通りここから出られた。でも、その足には一本の縄が掛けられ自由には羽ばたけず、浮かない顔をして「結局こうなる。私達なんて所詮飛べぬ鳥」と皮肉一杯で花魁道中を歩いた人が居た。

「なんの冗談だ、」
「もう決まってしまったんです。次の始めには身請け金も入ります。わたしはもう勤めを終えるんですよ」
「しかし、そんな…」
「……じゃあ、はじめさんが請けてくださいますか?」

頭を上げにこりと微笑みそう告げる。
わたしにしか聞こえない位の小さな声で「それは…」と言うのは、余りにも無茶な要求だと物語る。わたしの階級にもなってくると、それこそ一度の花代なんてただの石ころの様な者だから。ここは大見世だから、その見世の花魁を見受けするには数百両…いや、数千両なんて至極当然の事だ。彼も高給取りではあるけれど、月三両程度では空には到底届かない。

だから、わたしはここで諦めるつもり。
藁半紙の様な白に戻し、何もかも忘れて見世とは別の場所で飼われ住むだけ。


「あんたは…なまえはそれでいいのか。それが本当にあんたの望んだものなのか」

そんな訳、無いじゃないですか。この言葉は口には出来なかった。
もしここで縋り、わたしを攫って逃げてください。なんて言える訳がないんですもの。今まで養われた歪んだ胸の内が真っ直ぐな彼の瞳のお陰で痛くて、溶けてしまいそうだった。どうすれば、断ち切れるのか、考えれば考える程目尻が熱くなって、今口を開けば取り乱し泣き喚いてしまいそうで…。

ぐ、と喉を絞めるも、彼から飛んできた言葉一つで努力も水の泡となってしまった。

「ならば心中立てをするか、俺に」
「っ、…ぅっ、」
「なまえ、どれでもいい。今直ぐ俺に誓え。誓詞、誓紙、髪切り…あんたが望んだものを俺は受け入れる」
「もう、やめて下さい…っ、はじめさん、やめて、諦めて他の方と幸せになってください…っ、」
「それは聞けぬ願いだな。話は戻るが入れ墨、放爪、指きり…これは解り易いがあんたが辛い故に却下だ」
「はじめさんっ、お願い、聞いて!」
「残るは、情死か…。これはお互い辛いだろうから有効にしよう。だが…少し恐いな。戦死にするのとは違い、思いも寄らぬ覚悟が居る」
「やめ、…っ、くださ、もう、いっそ死にたいっ、」

好いている人に…刀を振るう武士様に「恐い」だ何だと、こんな事を言わせてしまっている自分が情けなかった。どうしてわたしはここに居るんだと。どうして彼と逢ってしまったのか、どうして焦がれてしまったのかと。
ぼろぼろと畳に泣き崩れたわたしをゆっくりと抱き込み、同じ様に背を折るとはじめさんはゆっくりと肩を撫で、鼓動を分けてくれた。


「あんたの見る夢は俺の夢でもある…共に生きよう。花道など歩かずとも幸せにしてやる…」


顔を上げたわたしの顔は酷いものだろう。
それでも微笑みを絶やさず見下ろす、今の季節と同じ空色には迷い等、どこにも滲んでは居なかったの。

「不思議と、何でも出来る気がしているが…見当違いだろうか、」
「…はじめさん、はじめさん!わたし、嫌です、あんな男の所なんて行きたくないっ!はじめさんと一緒に居たいっ…っ、ふ、」
「ならばそいつの所へは行かぬが答えだ。いい…俺が連れて行く」
「…このまま、わたしの手を引いてっ、」


落ちるまで離さないで。



掠れた声は声にならず。
そのままふさがれた唇は、少ししょっぱかった。

いわたしにも、ひとつまるで嘘の様な夢があった。


「あんたを掬うのは俺以外に居らぬ」


それは、


「わたし此処から飛び立ちたいっ!連れて行って、」


それはね。


「ああ、お安い御用だ」


見返り柳をどうかこの目で。




島原大門までは振り返らず


(はじめさん…あの屋台はなんですか?)
(あれは、矢師と言いあの吹き矢で品を落とす遊びだ。言わば的屋と言った所だろうか)
(やります!やってみたい!)
(なまえがやった所で金の無駄に終わると思うのだが…、)
(なんですのそれ!ならばはじめさんがやって見てくださいっ!)
(………わかった。しかし、取れずとも駄々を捏ねるな)
(まあ、最初から諦めて掛かるなんて男らしくもない。あの時の気合を今一度見せて欲しいものです)
(あの時は本気…いや、何でもない。見ていろなまえ)
(素敵ですはじめさん!)



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