やって後悔。やらぬも後悔。
残念無念慚愧の至り。

此れ等は俺が今までの人生行路の中、嫌と言う程味わってきた物だ。
その都度、諦める事に慣れ、そしていつしか何も感じなくなり今の俺が出来上がった。

少し肌蹴た襟巻きの隙間から覗くうなじを焼くのは夏の日差し。
それは俺の身体に遮られ地面に影を作り、その中心にある小さな命が消える様を如何にかして隠そうと揺れていた。
暑中のこの時期、お天道に焼かれた地面はさぞ熱いだろうに。もう抵抗をする事すら忘れているのか、訪れる終りに向けただじっと広がる蒼を眺めているのは、俺の手の平にも満たぬ位の小さな蝉だった。


暑い夏の日。

「……………、」

ぽたりぽたりと汗が額から頬に伝い地面に落ちる。
今俺が立っているのは、屯所の庭を目前に控えた一本の樹木の麓。直ぐそこにある角を曲がればいつも皆が集う広間前へと出る事が出来る。その前の縁側は人気で、構造からよく日陰にもなると言う事で人が居らぬ事の方が珍しいくらいで、今の時期はかっこうの涼み場所となっている。
なのにも関わらず、どうして俺が今…この場所で死にそうになっている蝉を見下ろしているのかと問われたら、ただ一言。


足が動かぬから…だ。



「そ、総司さん、声が大きいですよ…」
「え〜、別にいいじゃない。聞かれて困る訳じゃないし」
「こ、困り、ます…っ」
「あっはははは、なまえちゃん真っ赤だよ。可愛い」
「からかわないでください、」

俺がこの場所に近付いた所為で、気配に敏感な蝉達は一斉に其の成りを潜め鳴き止んだ。
それ故耳を澄ます事などせずとも鮮明にその会話が流れ込んでくる。呼び合った名前の通り、今しがたあの縁側に掛け話をしているのは総司となまえだろう。この二人はどうにも気が合うらしく良く普段より並んで居るのを目にする。その度に俺の足は重くなり、その場から離れようと努めるのだ。今とて、走り出したいくらい心の内が騒ぎふつふつと煮える感情が顔面に溢れ出しそうになる。

いつもこうだ。
俺が欲しいものは、俺では無い他の者へと飛んでゆく。


「…………、」

総司となまえの楽しそうな笑い声が、子供の頃…遠くで聞く事しか出来なかった声音と被り胸が不可解な痛みに襲われた。

俺は物心付いた頃から人との関わりを深く持つ事を嫌がった。
そこに理由があったかは今は皆目検討も付かぬが、今…少しは救われていると思っていたが、どうやらそうじゃないらしい。噛み締めた奥歯がぎしりと痛むのがそれらを物語っていた。

「素直になる事も必要だよ。ね?なまえちゃん」
「で、でも…わたし、自信が」
「じゃあ、僕なんてどう?悪いようにはしないよ?」
「えぇ!?」


ぽたり。
また一滴…俺が作る影に汗が落ちて、地面の色を変えた。直ぐ傍にある蝉の身体は生きているのかそうでないのか解らない位ぴくりとも動かなかった。

蝉の一生は、俺達人のそれよりずっと短いと聞いた事がある。
土の中で幾年も光を見ずにじっと過ごし、やっと外に出られたと思ったら十と四つ程度で地に落ちる。俺の目の前で腹を見せ、空を仰ぐこいつの目は何を思い上を向いているのだろうか。睨んでいるのか、諦めているのか。もうそれすらも出来ぬ場所に居るのか。


「…俺は、まだ土からも這い出ては居なかったか、」

頭の中で何度も繰り返す総司となまえの楽しそうな声、まるで一枚の布でも被せたかのように篭ってぼんやりとしか聞こえない。その霞掛かったままの会話でも、その空気は今俺が立っているこの裏所より断然高い場所にある様に思えて成らなかった。

太陽を拝むことも出来ていない俺が手を伸ばしても、恐らく木には宿れぬ。


「僕、なまえちゃんの事可愛らしいと思うよ。いいじゃない」
「……えっと、いいじゃない…って、」
「ほら、こうしてからかうと真っ赤になるでしょう?そう言う所が凄く可愛いし、見てて楽しいよ」
「…総司さん!やっぱりからかってますね!」
「ごめんごめん。ちょっとだけ」


あと少しで夕刻へと変わる。
そうすれば徐々に風も吹き、少しでも地面は冷えてくれるだろう。そうは言っても、この地に落ちた一匹の蝉は二度と空へと飛び立てぬ上、木にも止れない。其の内別の生きる物が「生きる為に」跡形も無く消し去ってしまう。

諦めとは、実に愚かな感情だ。

今、ここで俺が飛び出して総司となまえの間に割って入った所で何が変わる。
そして戸惑う彼女に「俺はあんたを好いている」と口にした所で、俺は変人の粋へと追いやられてしまうだろう。こう考えてしまうと言う事は、初めから今まで、諦めていた証拠だ。

総司も恐らく彼女を好いている。
それは何気ない視線や会話で解ってしまうものだ。例えば雪村に対する扱いとなまえに対する扱いは、あからさまに違うのだ。察しがいいのも困りものだと、俺は瞼を降ろし考える。

いつまでここでこうしているのだろうか。
己にも解らず、ただこの向こう側に居る二人に気付かれぬ様に呼吸をする事で精一杯なのだ。

かさり、
地面から諦める事への小さな抵抗の音が俺の耳に届いた。




「……………、」
「…総司さん?どうかされました?」
「…ううん、ちょっとね、」
「あちらの方角に何かあるんですか?」


「…っ!」


同時。
聞こえてきたなまえの言葉に思わず息を飲んだ。
一瞬にして瞼が上がり、その場から踵を返そうとするが足は相変わらず動こうとしなかった。こういう時、神経が機敏だと何かと役に立つとはお笑いごとだ。まったく肝心な時に役には立ってくれない。俺は結局の所、何も変わっていないのだ。

其のうち歩み寄ればいい。と言い訳にして。
土から出る事すら諦めた。

俺の持つこの刀がまだ、道筋に落ちている何の変哲も無い木の棒だった頃、辺りで隠れん坊に励む童を見る度に「俺なら一手間も掛からん」と独り遠くの方で見る事しか出来なかった事を思い出す。歩み寄ったところで、受け入れてはもらえぬと。

だが、これでは。
余りにも見っとも無い。


「あら、そこに居るのは…斎藤さん…?」
「…なまえ、」
「っきゃ!」


名を呼ばれ、顔を上げた其の時だった。
角から此方を覗き込む様に顔を出したなまえと、遠くで総司が笑う声。

そして、
俺の足元に転がっていた蝉が、一度地面で土埃を上げて


「…あ、」


空へと舞った。



「………あいつ…あの蝉は、諦めては…いなかったのか、」
「びっくりしました、驚かせてしまったのでしょうか…」
「いや、」

顔を覗かせた瞬間、蝉が足元から羽ばたいた所為で咄嗟に俺の腕に身体を寄せたなまえ。そのまま一度だけ空を旋回した後、木葉の影に消えていった蝉を見上げて「元気ですねぇ」と微笑むなまえから視線が離れなくなってしまった。しがみ付かれた瞬間、ずっと立っていた場所から足を離してくれたのは、紛れも無い彼女で。
それを促してくれたのは、俺が勝手に諦め死に行く者と位置付けた小さな命だった。

それを合図に、今まで静かだった辺りが一斉に騒がしくなった。

「蝉しぐれか、風流だな」
「…これだけ暑いのに、一生懸命でわたしは好きですよ」
「ああ、俺も色々と教えられてしまった所でな、」
「教えられた…?」

ミンミン、ジワジワ、ジージー。
様々な命の合唱が、俺の背を押している様だった。

「あんたが総司を好いていて居たら俺はただの邪魔者だ」「あんたが総司と言う宿り木に止りたいと言うなら、俺は黙って身を引くべきだ」今までそう思って諦めていた。しかし、それでは面白くないだろう。

「なまえ、」
「はい?」

俺の腕に置いてあった細い腕を取ると、夏も真っ盛りだというのに少しも焼けていない白い肌がしっとりと汗ばんでいるのがわかった。
それを加減し握ってから身体を返すと、俺を見上げるなまえの瞳が、一度、二度とゆっくり瞬く。

その中に映る空で俺も飛んで見たい。


「総司には、悪いと思う。だが、一世一代と言っても過言では…無いだろう。その、」
「…斎藤、さん?」
「あんたは驚くと思う。そして、…横着だと思うだろう」
「は、はい?」

この、鼓膜が震える程の蝉しぐれの中。
土から這い出たばかりの俺は、


「俺は、」


羽根を広げて。


「あんたを、好いている…」


これ程煩いのにも関わらず、俺の聴覚が縁側から去る総司の足音を聞こえ拾った。
目の前で瞬きを忘れたなまえの顔が見る見る赤く高揚していくのを見ていると、じわりと胸に感じていた痛みが和らいで行くのを感じたのだ。お互いに合わせた手の平はしっとりと交わり、離さないとばかりに強く重ねられている。

「斎藤さん、今の、は」
「今のは、俺の心の内だ。それに対する応えは無くとも良い。ただ俺が知ってもらいたかっただけだ」
「…そんな!わ、わたしも、その…っ!」
「…は、」

いつの間にかお天道が傾いた所為で、立っていた場所は木陰へと変わる。

「わたしも、お慕いして…居りました、」
「……………、」
「えっと、…さ、斎藤さん?」
「……………、」
「あの…か、顔に穴が空いてしまいます、」
「総司、は…」

俺の間抜けな声に、大袈裟に瞬きをしたなまえは首を傾げ「総司さんが何か?」と予想外の言葉を俺に返した。

「あんたは総司を好いていると思って居たが、」
「ご、誤解ですっ!それに総司さん、わたしが斎藤さんの事をお慕いしている事を知っていましたし…、」

「ちょっとだけそれでからかわれたりはして居りましたが…」と照れ臭そうに零したなまえは少しだけばつが悪そうに唇を尖らせた。


やって後悔。やらぬも後悔。
残念無念慚愧の至り。
俺が欲しいものは、俺では無い他の者へと飛んでゆく。

あの地に落ちていた蝉の様に、一度は諦め空を仰いだ。
しかしどうだろう。
今、俺は、未だ土の中か。否。


「なまえ、俺はどうやら今になってやっと、地上へと出られたらしい」
「…?」
「あんたが居れば、俺は何度地に落ち様とも、再び空へと飛び立てる…」


腕を解き、その手を腰に回せば何の抵抗も無く俺の胸へと寄り添ってくれたなまえは、「まるで、蝉のようですね」と面白そうに囁いた。

蝉時雨に包まれて、寄り添う身体はどこまでも。

彼女とならば、恐らく何度諦めても立ち上がれる。
そして、俺の人生は十と四つでは終わらん。一生、出来る事なら何十年も先まで共に。

その髪に頬を寄せながら、俺はそんな事を思っていた。


そう、暑い夏の日の話だ。



蝉しぐれ

(しかし、総司はどうして去っていったのだ…)
(あ、それは…その、)
(ああ、)
(此方を覗き込めと言ったのは、総司さんです…それで“蝉の声に隠れてる臆病者が居るから引き摺りだしてあげて”って…)
(…………あいつは、)
(頑張れと言ってくださいました)

(そうか、では後で礼を言っておこう、)
(はい)


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