辺りを見回すと一面の桜吹雪。
あともう数時間程で見れなくなってしまうだろうこの校舎との鮮やかな調和を目に焼きつけ、そっと風に遊ばれている髪を耳にかけた。

目を閉じれば、つい先日あった出来事かの様に鮮明に思い出される三年前の角出の日。
あの日この学園へと入学した俺は、今よりずっと背も低く声も高かった。

もしここへ進学していなかったら、恐らく彼女にも出会えずに俺は分かれ道を一人、進んでいたのだろう。


「斎藤くん!ごめん、遅くなっちゃった!」
「いや、気にするな」

振り向くと、おそらく今日で見納めになるだろう制服のスカートを靡かせ手を振るみょうじの姿が映る。

彼女は、俺と同じく風紀委員としてこの学園で有意義な三年間を共に過ごした仲間になる。クラスは違うが、放課後はほぼみょうじと共に居たと言っても過言ではないだろう。部活等で逢えない日も多々あったが、稀に閉門する頃「斎藤くんも今帰り?お疲れ様」と、駅まで並んで歩いた事もあった。
その度に、柄にも無く視線を泳がせていたのも今となってはいい思い出…なのだろうな。

膝に手を付いて肩で息をしているみょうじを見下ろしていると、表情が自然と笑みを作り目を細めているのが己でも理解出来た。
「土方先生泣かせてきた!」と、まるで悪びれも無く笑うその笑顔と衝撃の発言にも何とか耐え、同じ様に「それは偉業だろう」と続ける。「鬼の目にも涙だね、うん」と楽しそうなその目の下には、先程…彼女も泣いたのだろう、薄っすらと赤く擦った跡が見て取れた

既に卒業式も皆との別れも済ませ残る事と言えば帰宅するのみだが、どうやらこの後遊びに繰り出すらしい誘いが総司からあった。
総司とは大学も同じ故、特にこの卒業に関して思う所は無いのだが彼女は違う。



「それで?なあに?話って、」
「ああ、来てくれてありがとう、礼を言う」
「う、ううん!気にしないでよ!それに…あの、わたしも斎藤くんに話、あ…あったし!」
「俺に?…ならばあんたが先に、」
「いい!いい!斎藤くんが先にどうぞっ!」

慌てた様に両手を振り首を左右に振り乱すみょうじとは、この春から別々の学び舎へ道が分かれてしまう。

可笑しなものだ。
生まれてから十六になるまで、互いの道は分かれていた筈なのに一度交わってしまえば、再び分かれる事が耐えられない。それ程、彼女と過ごした三年間が素晴らしい物で、それ故…俺は日増しに欲張りになっていった。

改めて向き合うと、少し頬を赤く染めたみょうじが俺の名を小さく呼んだ。
ざあざあと風が吹いて、俺の視界には舞い散る桜の花弁が踊っている。校庭では無く何故裏門へと呼び出したのかと問われると、

この桜の木の下で俺とみょうじは初めて言葉交わしたのだ。




入学当初、俺はどこかぼんやりとした未来に足を進める事を煩わしく思っていた。
この薄桜学園に入学したのも両親から推されそれに従っただけだった。この頃から俺は周りと上手くコミュニケーションを図れず、それを特に改善しようともせず流れるがままに十六というまさに中途半端に大人を意識する時期を迎えていた。
とは言うも、毎日する事と言えば朝起き、朝食を食べ、電車に乗り登校する。必要最低限クラスメイトと言葉を交わすのみと言う何とも面白みの無い生活だったと、今になって思う。
まだこの頃は、部活にも参入しておらず授業を終え帰宅し只管に勉学に励む生活だった。「一体あの苦労は何だったのだ」と、中学の頃毎日の様に、代わる代わる複数の塾に通っていた己に嫌悪すら感じていたのだ。そして加えて襲う虚脱感。

暫くそんな日々が続いた。ある日。

『ねえ!貴方!そこの貴方!』
『……』
『そうそうキミだよ!』

どの生徒の姿も見られない位早朝だった。
日直だと言う理由で、普段より早く登校していた俺はいつも使っていた裏門の前で突然見知らぬ女生徒に声を掛けられたのだ。

『凄いね!早起き!あと制服ぴっちり!一つも失点無しじゃない!』
『…普通、だろう。現にあんたも今この場に居るではないか、それに規則は守ってこそだと…そう教育されている故、当然の事だろう』
『そんな事無いよ、一年生の中で違反一つも無い人…もう居ないって噂だよ?』
『……そうか。時に、あんたは?』

突然の馴れ馴れしさに一歩後ずさった俺に『怪しいもんじゃないよ!』とひっくり返った声を上げた彼女は、右腕についているある腕章を見えるように引っ張った。
それを訝しげに見下ろすとそこには大きな文字で「風紀委員」と書いてあった。色合いが何処かおどろおどろしいそれを俺に突き出し、ふん、と鼻で息を吐いた女生徒は爪先立ちをしていた。

『それが、どうしたのだ…』
『え、え、えっと…』
『俺が違反を一つもしていない事と、今あんたが俺を呼び止めた事に何か関係があるのか』
『……や、それは』
『用が無いのならこれで失礼する、』

我ながら突き放す言葉ばかり溢れてくるな、と自嘲めいた笑いを零すとそのまま踵を返す。日直故に早く登校したと言っても、それは一般生徒からしてみたら早すぎる位なのだろうな。取り合えず先に教室にある花瓶の水でも替えておくか、と頭の中で予定を組んでいた時だった。

後ろに引かれる、真新しい制服。
そして『待って!斎藤一くんっ!』と、今日まで誰も呼んだ事が無い、俺の名だった。


『まだ、何かあるのか。そして何故、あんたは俺の名前を知っているのだ』
『し、知ってる!知ってるよ!隣りのクラスだもんっ!』
『一年だったか…。俺を知っている?同じクラスの奴でも俺の名を知らぬ者が居ると言うのに…』

鼻で笑い、そう吐いた所で頭の中が揺れた気がした。
馴染めないのでは無い、馴染みたいと思えない。
何の面白みも無い俺の事など、いっその事見えないまま流れてくれないだろうか。誰の心にも踏み込まず、誰も招かない。それで、何事も無く過ぎるのが一番いい。

『そんな事無いよっ!』

掴まれていた制服を払い、無理矢理足を動かすとずっと静かに吹いていた春の風が強くなった。
そのまま視界が桜吹雪に寄って奪われる。


思わず腕で顔を覆って、目を閉じると後ろから泣きそうな声で俺に向って何かを叫んだ女生徒。ゆっくりその言葉を脳内に取り込み、理解しようと努める俺の顔は自然と上を向き、ひらひらと落ちてくる花弁の一つ一つを数えるかの様に辿っていた。

『斎藤くんは、何を諦めているの…?』
『……………』
『入学式の時から見てたよ、わたし!斎藤くんっ、ずっと死んだ様な目して騒ぐクラスメイト睨んでた!でも…、でもね、』
『……………』


『でも、そんな斎藤くんを、わたしは』


綺麗だと思ったの。


と、彼女…みょうじなまえはそう言ったのだ。

死んだ様な目とは一体どういうものを言うのか、俺には解らずに居た。何を諦めているのかと問われたらその答えはすぐさま頭に浮かび、そして消えた。

『…諦めて居るのでは、ない』
『…え』
『俺は、逃げているのだ、』

初めて、他人に己の内側を吐露した気がする。
これは恐らく勢いだった。今となっては、突然この様な事を言われ、みょうじは戸惑ったとも思う。しかし、この時振り向く事も桜を見上げるのも止めなかった俺は、彼女が後ろでどの様な顔をして居たのか知らないで居る。

『ねぇ、斎藤くん』
『…なんだ、』
『わたしね、隣りのクラスのみょうじなまえって言うの、良かったら一緒にやらない?』
『…何を、』
『風紀委員!!きっと、三年間楽しくなる!ううん、わたしが斎藤くんを楽しませるから!』

あの日、俺はこの桜の下で差し出された彼女の優しい手を取ったのだ。絶えず降り注ぐ桜に隠れるように、この時俺の口元は小さく弧を描いたのだ。

彼女が居たから、こうして三年間。
俺は俺らしく、この学び舎で笑って居られたのだと思う。


「懐かしいね、あの時はホントいきなりごめんね、昔から自分の暴走止められなくて」
「ああ、確かに…みょうじのその猪突猛進な性格は、当時の俺に取っては理解が出来ぬ範疇だった」
「う、」
「しかし、だからこそ。俺はここにあんたと居る」
「…へ?」

そっと手を広げ差し出すと、舞い落ちてくる桜の花弁が一枚。ゆっくりと俺の手に乗った。それを左手で摘みみょうじへ差し出すと、大きな瞳がさらに丸くなっていくのが解る。

この花弁は俺だ。

あんたが、手を差し出してくれたから


「俺は、あんたを好いている、恐らく誰よりも一番に、」


地面に落ちる前に、救われた。


「今日で卒業だが…、明日からも、いや、ずっと途方無い先の未来まで、共に居てほしい。あの日、俺に声を掛けてくれて、ありがとう…」


そして、願いが叶うなら、来年も。桜を共に見上げていたと思う。


「っ、も、やだぁ…っ!」
「な、何故!?嫌だったか!?すまない!泣かせるつもりは、」
「違うよ!斎藤くんの馬鹿!ずるいよ!」
「は…?」

俺の指先ごと一枚の桜を両手で包んだみょうじは俯きぽろぽろと涙を流し始めてしまった。まさか一世一代の告白をして、いやだ。ずるい。と言われるとは思わなかったが、戸惑う俺を追う様に紡がれた言葉は。


「さっきまであんなに悲しかったのに…、皆と離れ離れになっちゃうからって一杯泣いたのに…っ!」
「…すまない、その、」

き、と睨む様に俺を見上げたみょうじの頬は、桜色に染まっていて。

「なのに、そんなの全部吹き飛んじゃうくらい、嬉しいっ…!」
「っ、な、」

そして、泣きそうな笑顔を俺に向けた後直ぐに感じたのは、俺の胸に飛び込んでくるみょうじの温もりだった。


「わたしも、ずっと好きだったの…!でも大学離れちゃうし…どうしようって…!わたし、斎藤くんとこれからも一緒に居たい!」


ふわりと靡くスカートは、今日で見納めになるだろう。
「斎藤くん」と俺を苗字で呼ぶ事も、俺が彼女をみょうじと呼ぶのももう近い将来無くなる事になるやも知れん。
そしてこの裏門にある桜も、この学び舎も。

しかし、今道は繋がった。
別の道を歩くみょうじの背に手を振らなくても良くなったのだ。



卒業式でも涙を流さなかった俺は、この時。


初めて涙を零した。





それは舞い散る花弁の如く


(あ、沖田くんから電話だ…)
(この後、あんたも呼ばれているのか)
(うん、斎藤くんは行かないの…?)
(いや、参加するとしよう。それに)
(うん?)
(皆に、あんたとの事を報告せねばなるまい、)
(っ!)

手を握ると、その僅かな隙に一枚のはなびらが滑り込んだのが見え、俺は小さく笑ったのだ。



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