わたしは今、一人の猫と暮らしている。日本語が可笑しいのは重々承知の上だけれど、じゃあ他にどう言えばいいのか、がわたしには全く分からない。
取り敢えず、こいつはもう野良じゃない。それだけは…確かだと思う。




見えてきた我が家の窓は暗く、カーテンは開けっ放し。それももう気にならなくなった私の口から、溜息が出る事はなくなった。
早足にドアへ向かい、手早く出した鍵で玄関を開ける。電気を点ける間も惜しんでパンプスを脱ぎ捨てれば、変わらず早足のわたしが暗い居間に辿り着くのは直ぐだ。
暗闇に慣れない視界の先で、闇に強いはじめがカーテンを閉める。わたしは証明のスイッチを手探って、後を追う様に突起を反転させた。
1、2度点滅を繰り返してから差し込む光に目を細めた猫が、ぴんと伸ばした状態の尻尾の先を僅かに揺らす。カーテンの側からこちらを見遣る相変わらずな彼の姿に、わたしは苦笑して息を吐いた。

「はじめ、ただいま」
「…」

じわりと細まる目。ぴょこんと動く耳は返事の代わりだ。はじめの返事を見届けたわたしは苦笑を揉み消す様に口角を上げて、鞄を定位置であるソファーの足元に落とした。
堅苦しいスーツに手をかけながら、着替える為に寝室に向かう。微風とは言え、エアコンも利いている自宅ではラフな格好に限る。はじめも某殺人ノートの探偵君や、嘘つきゲームの天才詐欺師みたいなラフな格好で…多分、それなりに寛いでいるし。ジーパンはあまり好きじゃないみたいだから、下は緩いパンツだけどね。チノとかカーゴとかジャージとか、そこら辺の。言わずもがな、腰パンなのは尻尾のせいだ。トランクスもローライズのLをわざわざ買い直す羽目になったりと…可愛いけれど、もふもふだけれど、奴の尻尾にはほとほと手を焼かされた。
今はじめが着ている左右にピンクと白のラインが入ったラフなジャージパンツは、言うまでもなくわたしの趣味だ。てか、はじめには服の好みは着易さや肌触り以外にはないみたいで、はじめ着は全部私の趣味なんだけどね。似合ってるし、サイズもばっちりだからそこはそれでいいでしょう。
冬用、春先…はじめの服も、今はそれなりに充実していると思う。部屋干しを繰り返さなきゃならない事を考えると、夏服ももう仕入れ始めて良いくらいだ。臭いと拒否られたあの日の様に、夏には暑いと短パン以外を拒否られるかもしれないけどね。
猫には服を着る習慣なんてないから、季節が変わるって言うだけでどうなるか知れない。わたしには想像も付かない未知の世界だ。
はじめも着用時には解せぬ、とばかりに眉を寄せ、ローライズトランクスを両手で摘み、パソコンに表示されたkonozamaのメンズ服画面を何度も睨んでいた。勿論、全裸…に頭から毛布を被った状態…で。シュールだった。スマホに目を落としつつ、視界の端に奮闘する猫の姿を映す形で様子を伺っていたわたしの姿もきっと…いや、絶対シュールだったに違いない。なんだこの空間と突っ込まれたとしても、ごもっともとしか返せないだろう。
エコが騒がれるこの時代に、役立たずの微風エアコンの下暑いとシャツをポイ捨てるはじめ…容易に想像がついてしまって、唇からはははっと渇いた笑いが漏れる。そうじゃなくても、夏に外出は確実に無理だろう。…出来たとしても、しないとは思うけどね。
耳と尻尾、牙と爪、それに瞳は猫だけど、はじめの身体や仕草は見紛う事なき人のそれだ。爪を切り揃えて深い帽子を被って耳と目覆って、厚い上着で尻尾を隠せば、取り敢えずで外見から猫は消える。外に連れ出す事も、結果的には可能だった。
とは言え、そう言う制限がついてしまう外の世界は今のはじめには逆に窮屈で、余計な不安が付き纏う場所でしかないのかもしれない。何より、はじめは外に何も見出してはいない様だったんだ。
それが、はじめを連れて玄関先に出たわたしが得た、唯一の収穫だった。




元から考えてはいたんだ。
所詮は憶測。そうだとわたしが勝手に推測しているだけに過ぎないけれど、はじめがわたしの家に襲撃して来たのは、元はと言えば寒かったからだった。そうとしか考えられないし、多分、きっと。わたしも最初は涼しくなればふらっといなくなるんだろう、くらいの気持ちで家に置いておいただけだったしね。ここ、ペット禁止だし。
はじめがでかくなってそんな事を言ってられなくなったのが1月半ばで、漸く毛布ポンチョから衣服に着替えてくれた今が2月の下旬。
3月前は、半端な季節でまだまだ肌寒い。勿論気温に関わらず、今のはじめが野良になるのは全力で遠慮させたいところではあるし、実際させないつもりでいる。それでも…だからこそか。わたしははじめの気持ちが気になった。理不尽な状況に寄る不満や鬱憤の晴らし方程、難解で吐き出し場所が定まらないものはないからだ。
“外に出たくはないの?”
一応、なんて事ない世間話のつもりで、そう本人に聞いてみた事はある。でも、何を訴えるでもなく顔を背けるはじめからははいもいいえも汲み取る事は出来なかった。有耶無耶な状態の問題がまた一つ、わたしの頭をぐるぐると回る羽目になった訳だ。
この初改めふてぶて猫はお得意の無視を決め込むから、追撃にも意味はない。あれか?ぴしぴしとソファーの足を叩くその尻尾が答えなのか?ただでさえ意思疎通が難しいと言うのに、一瞥と尻尾で理解出来ると思うのか、お前は。つかその仕草キレてるよね。明らかに尻尾マニュアルに書いてあった苛つきの仕草だよね。何で今無視決め込まれたわたしがキレられなきゃなんないのよ、意味分からないんだけど。
試しでベランダを開けてみても、服を着ているだけじゃまだ寒いのか、顔を顰めるだけで寄って来やしないし。仕舞いには愛用の毛布で蓑虫になるこの猫は、飽くまでも無関心を決め込むつもりでいるらしい。
こっちはあんたの事で悩んでるってのに、このふてぶて猫…いくら恥ずかしいにしたって、コミュニケーションを欠くにも程と言うものがあるだろうが。いっそ羞恥に耐性が付くまで撫でくり回してやろうかと何度思ったか知れない。
まぁそれは置いといて、答えが得られないなら得る為に、わたしが自分の意思で勝手に動くのは当然の成り行きだろう。次の休日の予定はこれで決まりだ。
わたしは知るべきで、はじめにも教えておくべきだと思っていた。すぐに背を向けてしまうこの猫が、わたしと同じくぐるぐる悩んで眉間に皺を寄せていた事になんて、当然気付けていなかったんだ。




「はじめ、今日は少し外に出てみよう」

外は快晴。外出には最適な良い天気の土曜日だ。それでも風はあるし、朝は普通に寒い。ダウンジャケットはまだまだいける季節だろう。
この為だけに買っておいたと言っても過言ではない黒いそれを、わたしは向かい合って立つはじめに差し出した。繰り返し洗うのはちょっとと一度洗ってクローゼットに突っ込んでおいただけだけど、まぁ大丈夫な筈。別に急ぎじゃないから、ポイ捨てられたら来週に回せば良いんだし。
差し出される儘にダウンジャケットを受け取ったはじめの目が、今までにない手触りの服に気を取られ真ん丸と少し大きくなる。そうして広げられ、恒例のにおいチェックを隔た後で無事に袖を通されたダウンジャケットは、思いの外はじめの外見にしっくりと馴染んだ。

「お前…黒似合うね」

知ってたけど。
今はじめに着せたのは、白、グレーのレイヤードとネイビーのチノパンローライズだ。他に買った服もこんな感じで、柄で遊びはしても色は暗いものが殆どだった。ブラウンがギリギリ、明るいっちゃ明るいかな。何となく明るい色に手が伸びず、落ち着いた色の服ばかりになってしまった事に首を捻りはしていたものの、これはこれで良いかと暗い色に馴染むはじめの姿を見る度思わされてしまう。まぁでも、他の色を見たい気持ちが逆に沸くのも確かだ。ぶっちゃけ何でも着こなせそうではあるから、オレンジとかグリーンとかブルーとか赤とか、買っても良いとは思うんだよね。
暗い色は合わせ易いのもあって手が伸びがちだけど、夏服で良いのがあれば、少し見てみるかな。
わたしはベージュのパーカーの帽子を頭に被せ、はじめを見上げた。わたし自身は、それなりに明るい色も好んで着ているのだ。

「それで、こうやって帽子被って」

パーカーやジャケットに付いている帽子はどれもでかくて風に弱いが、少し外に出てみるだけならそれで十分事足りる。目立つロン毛も一緒に覆えて一石二鳥だ。
言われるが儘帽子に左手を伸ばしたはじめが、三角耳が生えた頭をファーに縁取られた帽子で覆う。遮断される音が気になるのか、些か鬱陶しそうに寄せられた眉に反して、帽子が似合いすぎていて何だか可愛い印象を受けてしまった。帽子を被るだけでまた変わるとは、流石イケメン…そして猫である。
わたしは目に縁がかかってしまうけど、ぴんと立った耳のお陰か、はじめの視界は良好そうだ。ファーが目を上手く隠してくれると思ったのにそんな事も全くなく、見事に着こなしてくれちゃっている。それじゃ目がモロ見えなんだけど…これで隠れてくれないならお手上げだ。はじめには人間の耳がないから、目を隠すには最適なグラサンがかけられない。詰んだ。他の案があったとしても、今すぐには浮かべられそうにないし。
試しにと今でも目深い自分の帽子を鼻の辺りまで引っ張ってはじめに訴えてみたが、首を傾げた猫は興味津々な指をファーに絡めただけだった。おい、毟るな。握って隠してごまかすな。物を壊した猫かお前は。

「…はぁ」

この辺りは人通りが少ない方だし、お隣りさんとばったりなんて事も全然だから、周りに注意を払えば大丈夫だとは思う。土曜日だけど早朝だし…少し出るだけなら、うん。何とかなるでしょ。
問題は後一つ、上着の外でゆらゆら揺れている尻尾にある。やっぱり自由に動かせないのは嫌みたいで、さっきダウンジャケットに覆われかけたそれは、窮屈な場所から早々に這い出して来た様だった。今も気ままに、はじめの背後でゆらゆらと揺れ動いている。

「耳と同じく尻尾も仕舞える?」

尻尾の事は理解出来ても、ジャケットに仕舞うの部分には軽いジェスチャーが必要だ。でも、尻尾を仕舞うジェスチャーはちょっと無理がある。興味津々にファーを握っていたはじめは、案の定首を傾げて尻尾を揺らした。
頭は良いから、腕を尻尾に見立てると言う無理矢理なジェスチャーでも理解はしてくれるのが救いだが、矢張り図太い。目の前で何の迷いもなく逸らされる視線は嫌だの意だ。こいつも懲りない猫である。

「嫌ならわたしが捩込むけど」
「!」

手をワキワキさせながら一歩近付くと、はじめが俊敏と言うか大袈裟に二歩もどん引いた。操を奪われるみたいな相変わらずのその反応、本当に何とかならないのか。
真一文字に噛み締められた唇は苦そうなのに、そこから上は羞恥心が丸出しだ。一気に伸びた尻尾も、棒みたいに垂直になって固まっている。わたしはこの儘じゃあっという間に赤面してしまいそうな猫から早々に一歩引き、出していた右手を背中に引っ込めた。

「外出する間の、ちょっとだけだから」

そうして、再び差し出した右手の平をどうぞ、とはじめに向ける。彼は得意の一瞥を右手に落としてから、不服そうに、渋々、本当に渋っ々、尻尾をゆっくりとジャケットの中に仕舞ってくれた。
ごわごわとジャケットが動く。矢張り窮屈で落ち着かないらしいけれど、そこは我慢して貰う他ない。

「よし」
「…」

漸く視線が戻って来る。安堵した様に下がる睫毛も、良く見られるはじめの仕草の一つだ。でも今は、耳も尻尾も視界にはない。
改めて上から下まで見た猫は、瞳孔が細く大きい青い目以外は、何処から見ても人間に見えた。
けれど、

「…」

はじめの碧眼は、本当に綺麗だ。猫の時となんら変わらない、ビー玉みたいな深い青色の瞳。それが今、服が暗いのも相俟って一段と目立ってしまっている。
人は他者の顔…特に目を真っ先に見るものだし、高が小さな目と言っても予想以上に目を引くかもしれない。…いや、引く。目撃されたら確実にアウトだ。俯かせようにも、他人が来たらはじめは反射的に目を向けるだろうし。

「…。玄関先にちらっと出て、さっと帰ろう」

今日は外に出られれば、はじめの視野を広げられればそれで良いんだから、それでも何ら問題はない…筈。ちょっと拍子抜けだけど、目を覆う自然な方法がイマイチ浮かばないのだからしょうがない。それは今度までに、それなりに悩もうと思う。
因みにさっさと覆われたロン毛と違って、視界が悪そうな前髪はまぁ大丈夫かとその儘だ。一時期は団子にして前髪上げてと思ったけど、猫は短い昼寝を時間に関係なく繰り返すみたいだから、寝にくいだろうと早々に取り止めてしまった。まぁ、あれから毛繕いはしてなさそうだし、結んでなくても多分大丈夫だ。今も外見にそこまでの違和感はないし、何故か根暗にも見えない。肌が白いからか?
顔はモロに日本人だけど、これで金髪だったら完璧外国人で通…いや、やっぱり目は猫だな。




[]


戻る