初夏であるこの季節にしては冷たすぎる夜風に身体を晒しながら深呼吸する。やはりここは落ち着いた。最近長州だの羅刹だの色々あってゴタゴタしてたから、こういう時間は中々貴重だ。思いきり伸びをする。ここは木の上だ。体重の均衡に気を付けながら一番太い枝に腰を落とす。寒いのは苦手だが、この風は今の気分にピッタリだった。また深く吸い込む。しかし――


「やはりここか」

「ゲホッ、ゲホッ……」


背後からの思わぬ来客に驚いて、折角吸い込んだ空気を上手く吐き出すことが出来ずに噎せ返ってしまった。そのまま暫く咳き込む。涙目で振り返ると、一君は怪訝な顔で大丈夫か、なんて聞いた。きっとその原因が自分に有るなんて微塵も思っていないのだろう。全く、私がそんなに腕が立つ人間でないことくらい知っている癖、その素人相手に気配とか存在感とか全部消して近付いて来るなんて酷いと思う。心臓に悪い。

しかし彼は、そんなことお構いなしにこう続けるのだった。


「降りてこい。そこに居ては、風に飛ばされかねん」

「……いやいやいやいや」

「アンタならば有り得ん話では無いだろう」

「無い無い無い無い」


珍しく一君が冗談言っていた。最近は外仕事内仕事でひたすら寄りっ放しだった眉間の皺も、今だけはすっきり穏やかな顔をしている。やはりこの空間の影響力は甚大であるようだった。特に今日は雲がなくて、月が綺麗だから尚更。


「一君も登れば良いのに」

「遠慮しておく。俺は地に足が着いていた方が心地が良い」

「あはは、だよね」


言いつつ、足を滑らせないようゆっくり降下する。一君が木の上居る場面を想像し掛けて挫折した。いやいや。総司や平助ならまだわかる。ひょいひょいと身軽に足場を確保していく様がいとも簡単に瞼裏に浮かんだ。しかしあの真面目堅物の代名詞たる一君が、などと考えるのは些か無理が過ぎる。

それならば――彼が木の下に居るならば、私の立ち位置はその上ではない。隣だ。ストン、着地する。一君は先の私と同じく目を細めて月を眺めていた。白い襟巻きが風に靡く。はたはたと、その姿が妙に様になっていて胸中に感嘆の息を漏らす。

……どう?

訊いてみた。
彼の目に写った月が私と同じものであるか気になった。が、直後の一君の表情を見て察する。ああ、なるほど。今日はどうやら、違うものが見えているようだと。


「どう、とは」

「月」


たった一言で理解したようだった。ああ、と小さく口を開く。


一君が何をしにここに来たのか。

それは多分、私と似たような理由だと思った。

そこに微妙な齟齬が存在することも。


途方も無く大きな物を見るのが好きだと、いつだったか聞いたことが有った。それには大いに共感する。私もそうだ。揺れ動く時代に影響されない自然というものを目の当たりにすることは、自分の中のいろんな柵を取り払ってくれる。

でも実際は違う。


私は、自分を慰めるために。

彼は、自分を励ますために。


「……そうだな、何も変わらぬ。これだけ世の中が動いているにも関わらず、何も」

「うん」

「……なまえはどうだ」

「私?」

「ああ」

「……んー、どうだろ」


問い返されることは薄々予想できたが、実際問われてみると意外にもどう答えて良いか咄嗟に判断出来なかった。少しの間、閉口する。私にとって、今夜の月とは。そうして悩んだ結果、率直な感想だけを口にした。


「いつもより綺麗、かな」

「……フッ、相変わらずか。アンタも月と同様に何も変わらぬな」


珍しい光景が視界に映る。

笑った。一君が。
私だけにしか見せないその目を細めて。


「そっちも、変わんないね」


この表情は、きっとこの先も私だけのものなのだろう。これからの未来で彼に私よりも大切な人が現れたとしても、これだけはずっとずっと、私にしか向けない顔。

変わんないね、なんて言いながらも。

いつもより綺麗、だと思った。










月と君。それから風。



「そろそろ冷える。一度中に、」

「良い。このまま居る」

「……そうか、ならもう少し付き合おう」


そう言って襟巻きを肩に掛けてくれる一君に、私も彼だけに向ける笑顔を返した。



アトガキ→

[]


戻る