可愛いものは嫌いじゃないし、動物は普通に好き。嫌がらないこなら撫でたい、触りたいとも思う。でもそれだけで、わたしの愛玩動物についての知識なんて皆無に等しかった。
学生時代の飼育係には関心すら持たなかったし、動物を飼った事もない。近所や友達が何かを飼っていた訳でもなく、野良猫に会ったのだってここに越してから初めてだ。ペットショップの冷やかしにも行った事はない。
テレビでたまに見かけていたのと、少しだけ持っていた動物の形をした縫いぐるみ。わたしはそれらのフォルム、鳴き声を認識して、犬や猫、小動物を可愛いから好きだと思っていたに過ぎないのだ。
そしてその無知な頭は何故か、猫だって人が寝静まる暗闇の中では寝るものだと当然の様に思い込んでいた。遊ばれたのか押し潰されたのか、夜コロコロをかけたばかりのわたしのクッションが毎朝毛だらけになっているのには首を傾げたものの、朝起きれば猫ハウスの中で丸まるこいつの姿を見る事は出来ていたし。ハウスの中なら寒くないだろうと、エアコンを夜中は切っていたのもその為だ。

「…いい?はじめ。恥ずかしがってたら凍死して乙だからね」

だから、はじめが猫から人型になったあの日の夜も、わたしははじめの事を居間から寝室に誘ったのだ。
女が一人暮らす狭いアパートには、寝具も狭いシングルベッドが一つだけ。他に眠れるスペースどころか、まずかけるものがない。どうすると悩むまでもなく、別々に寝ようとすればどちらかが確実にご臨終だ。
ま、所詮猫だし。なんて気楽に構えるわたしが危惧していたのは、極度の恥ずかしがり屋と判明したこの猫が、素直に同じベッドで眠ってくれるかと言う事だった。寝るか、死ぬかだと凄むなりして、何とか布団に突っ込むしかない。狭いベッドだけど反対側は壁。わたしが床側に寝れば何とかなる筈。いや、何とかする。しなきゃいけない。逃げちゃ駄目だ、逃げちゃ駄目だ。
わたしは毛布から危ない安全ピンを取り去ってやってから、先にシングルベッドに上がって布団を捲り上げた。意を決して見上げた猫は、女がする様に毛布を身体に巻き付けていて吹きそうになったけれど、今は吹いてる場合じゃない。笑ったりなんかしたら、賢いこいつの機嫌を忽ち損ねてしまいそうだ。落とされたら困ると、巻いたのはわたしだしね。

「はじめ、ここ」
「…?」
「おいで」

若干寄せられた眉からクエスチョンが飛んでいる。棒立ちの猫は動かない。

「…」
「今は警戒してる場合でも、羞恥にかられてる場合でもないの」

言い聞かせながら、精一杯空けたスペースをぽんぽんと叩き続けた。ここまですれば、確実にこちらの言い分をはじめは理解する筈だ。案の定、狼狽え始めたはじめの尻尾が毛布の中でもぞもぞと動き始めた。

「いつもみたいに寝るだけだってば。何もしないよ」
「…」
「あんたね…肩も剥き出しだし、その儘突っ立ってても寒いでしょうが。ほら、おいで」

叩くだけでは足りないかと差し出した片手をガン見するはじめの眉間に、ぐっと皺が寄せられた。
何なの。さっき自主的に手が伸びて来てから、はじめの取る距離が地味に開いてる気がするんだけど。わたしに近付かれるより、自分から近付く方が羞恥ポイントが高いとかなの?初っ子の基準なんてわたしには分からないからなぁ…。
差し出していた手から力を抜けば、ぼん、と音を立てて固いマットに手の平が沈む。その所作にか、吐いた溜息にか、ぴくんとはじめの耳が動いた。
お、と思って目線だけを持っていけば、俯くはじめが思い切り目を逸らしながら重い一歩を踏み出したのが見えた。二歩、三歩と軽やかになる足取りは流石猫。わたしがしたよりも俊敏かつ優雅にベッドに乗り上げたはじめが、四つん這いの状態で怖ず怖ずとわたしに視線を合わせた。
よし。そう微笑むわたしを見届けてから、ついと逸らされてしまう視線。何が恥ずかしいんだか、と苦笑してしまうのは仕方ない。

「さ、じゃあ寝るよ」

乗り上げた際に折り込んだ角が出たんだろう。忽ち緩んで前が開けた毛布を丁度いいとはじめの首まで引き上げる。同時に、わたしとはじめにかかる様に一気に布団を引っ張り上げた。

「!…!?」

四つん這いの儘、きぬ擦れの音に反応するはじめの目と耳が忙しい。きっと尻尾も布団の中ではばたばたしているんだろう。毛布を隔てているから、わたしにそれが当たる事はないんだけどね。
でも、布団は兼用している訳で。

「…はじめ、寒い」

あんたが四つん這いだと、めっちゃ風が入る。
背中を布団ごしに数回叩いてやりながら、わたしは就寝体勢ではじめを見上げた。そう言えば枕が一つしかないが、はじめは使うのだろうか。
わたしは生まれてこの方、枕なしで眠れる人間を見た事がない。はじめは今は人型だし、寝やすい姿勢と言うのも今日初めて探す事になるんだろう。
ああ、でもそう言えばこいつ、半日くらい全裸でここに潜ってたんだっけ。なら寝方の一つや二つ、とっとと身につけてる気もする。
…うん。思い出すんじゃなかった。さっさと振り払う事にする。

「…枕、使う?」

試しにはじめの下に移動させた枕に、真ん丸な碧眼が釘付けになる。わたしは片手を枕に見立てて、そこに首を落とす仕草をして見せた。きっと寝やすいよ、と視線で促すと、酷くぎこちない動きで、はじめの上体がベッドに近付く。
左手を枕の下に差し入れて近付けた鼻をすん、と鳴らしたはじめに、嗅 ぐ な よ !と思いはしたがそこは我慢だ。ここで騒いだが最後、隣のイケメンがフルチンで家中を爆走しかねない。それで死にてぇのかぁ!なんて叫んでみろ。今度こそ百十番だ。
徒でさえさっき猫砂をざりざりと掻き始めたはじめに「やめてあげて!!」と叫んだばかりなのに。これ以上騒ぐ訳にはいかない。てか騒ぎたくない。トイレッスンでわたしのライフは既にゼロだ。
てかこれ、わたしは背を向けてもう寝た方がいいんじゃないか?寝ても、いいんじゃないか?無関心の方が、羞恥心とやらも動かないだろうし。
もう…いいよね…?
酒が入ってるのもあって、図太いわたしの神経は普通に瞼を重くしている。ぶっちゃけ疲れた。もう、寝たい。思わず出たあくびを理由にはじめの背中…布団から手を離して、わたしは徐ろに身体を反転させた。はじめに背を向けて、目を閉じる。
振り向き様、あくびが消える直前に言ったお休みを、はじめが目で追ったのが見えた。直ぐに見えなくなった彼の姿はまだ就寝体勢とは言えないものだったけれど、わたしは構わず枕元の豆電球を切る。
ぎし、と一際大きくベッドが軋んだ後、直ぐに訪れた静寂。重い瞼は何処まで図太いのか、一度閉じた視界はそれきり開く事がなかった。



脳が睡魔から解放される。起き上がるや、癖で伸びる腕が操作したスマホの時計を見たわたしは、え、なんて変な声を出してぐっと眉を寄せた。
決して図太さの所為ではなく、やっぱりわたしは疲れていたんだろう。仕事の影響でいつも昼までには上がる瞼が、今日はなんと十四時まで閉じっぱなしだったのである。買い物は今からでも十分間に合うけれど、寝過ごした、と何故か寝起きのテンションは露骨に急降下だ。
…まぁ、いいや。仕方ない。顔にかかる髪の毛を掻き上げながら、わたしはふと視界を掠めた隣の存在を見遣った。
寝起きの頭から一瞬完全に飛んでいた、人型の猫がそこにいた。顔の半分を沈めている枕に大切そうに左手を添えて、鼻先までを布団に埋めて。長い睫毛の一本すら揺らさずに眠る猫の寝顔が、辛うじて伺えた。
…少しと言うか、意外だ。こっち向いて寝てたのか。てか…めっちゃ幸せそうに寝てるんだけど…
そこで、何故か生唾を飲んだのはわたしの喉だ。スマホのカメラに動きそうになった指を、すんでで押し止める。
綺麗な顔だし、かなり貴重っぽいし、撮りたい気持ちは嘘じゃないけどシャッター音は喧しい。無音アプリなんてダウンロードしてないんだ、わたしは。
溜息一つでベッド脇に戻したスマホの画面は真っ暗闇。空になった手を持て余しながら、再び見下ろした大きな猫の鬱陶しそうな前髪を、わたしはそっと払ってやった。
ここで敏感なはじめが起きなかった事に、まず疑問を抱けばよかったんだろう。でもその日一日何かとばたばた忙しく思考を巡らせていたわたしの頭は、それどころではなく。飯用意して買い物行くかぁ、なんて伸びたわたしは、この状況に慣れてきていたのか酷く呑気だった。



そんなに遅くはならないだろうけれど、一応分かる様にはじめの昼飯を昨夜と同じテーブルに置いてきた。レンチンは流石に無理だろうが、ご飯をよそう、ラップを外すくらいの事はできる筈だと思いたい。足りない、お代わりが欲しい、そんな意味を込めてわたしを見詰めた昨夜のはじめは、いいよと言えば自分でご飯をよそっていたから多分大丈夫だろう。空の茶碗を見れば、自分でよそって飯を食うに違いない。最悪食べていなくても腹が鳴り続けるくらいだし、ラップごと食ってなければこの際何でもいい。ま、そこらの猫もラップを食うなんて事はしないだろうし…大丈夫。だよね。
町まで出向き、寄ったメンズショップのあれそれ…全てMサイズ…を漁るわたしの手は、思考とは裏腹にゆったりとショッピングを楽しんでいた。服を見るのはメンズだろうが楽しいし、何せ着せるのは猫のイケメン。チャックはセーフだろうけれど、窮屈なデニム、紐が喧しいパーカーはアウトだろうかと悩むより、着せたいものがありすぎてわたしは困っていた。アクセントにピンクとか添えたら絶対似合う。絶対かわいい。やばい、このパンツ部屋着に買おう。あと耳を隠す必要があるかもしれないから帽子と、靴…はいるのか分からないしサイズ見てくるの忘れたから今日はいいや。てか耳隠すならパーカーかわいいと思うんだよね。やっぱり何着か買っていこうかな。
まったり過ごした正月のお陰で、冬のボーナスは結構手元に残っている。それをいい事に質より量だと服を買い漁るわたしは、今を物凄く楽しんでいた…様に思う。因みに、下着はトランクス一択だろうと即決だ。模様なんて分からないだろうし、デフォルメ猫が散りばめられたかわいい奴を買って行ってやろう。靴下とかいるのかな。履かせるなら爪を切らないといけないけど…
気付けば膨れ上がっていたカゴの中。男の服はでかい分女物よりごわるんだよね。洗濯のサイクルがかなり早まりそうだけど、まぁ仕方ない。家に帰ったらkonozamaで布団一式とかも見てみようと、両手に重い荷物をぶら下げたところで漸くわたしは帰路についた。
外に出れば、明るいとは言い難い空が視界に飛び込んで来る。呑気にショッピングを楽しみすぎたと気付いたわたしの頭に、真顔でラップを頬張るはじめの姿が浮かんで消えた。
いや、ない。間違ってもない。頭を振りながらも早まる足は、最終的には駆け出して、わたしの肺に負担をかけた。



電気の付け方、消し方が分からなかったのだろうか。わたしを出迎えた家は真っ暗で、嫌に静かだった。
猫のはじめが家にいた時もこんな感じだったけど、今のはじめは人型だ。色々と心配になってしまうのは普通の反応だと思う。

「はじめー?」

今は徒でさえがっさがさと喧しい手荷物を両手に抱えているし、元々猫は気配に敏感だ。わざわざ呼ぶ必要はないけれど、暗闇に触発されてわたしの喉からは猫の姿を求める声が出た。ま、どうせ反応はないんだけど、一応ね。
軽く足を振って乱雑に靴を脱ぎ、居間へのドアをさっさと開け放つ。カーテンが開けっ放しなお陰で窓から差し込む光が仄かに中を照らしていたけれど、残念ながら動く物影はなし。
…デジャビュだ。荷物をこれまた乱雑に居間に置き、わたしは寝室に向かい照明スイッチを手探った。
漸く見つけた物影の動きが静止する。手で掬った髪の毛に舌を這わせていたらしいはじめと、思い切り視線が搗ち合った。

「・・・・・・」

耳をこちらに向けて立てたんだろう。はじめが頭から被っている毛布が少し跳ねた。
あー、ああ、そうか。あの優雅な毛繕いが、人間になるとそうなるのか。
照らされたはじめの髪は、確実に唾液の所為だろうがてかてかべたべたとそれはもう艶やかに光っていた。彼は結構な時間、寝癖を繕っていた様だ。

「…はじめ」
「?」

はじめは猫だ。こんな姿になったって、わたしの中での認識は依然として変わらない。はじめもそれは同じで、毛繕いなんて彼にとっては当たり前の仕草なんだ。
だがしかしである。そのべたべたの髪で、こいつは今日一日を過ごすつもりなのだろうか。髪だけじゃなく、肌とかも舐めてるかもしれないのに。
…仕方ない。はじめには分からないんだから。必死に言い聞かせながら、ふっ、と少しでも笑おうとしたわたしの口元は、ひくっと角が釣り上がっただけだった。

「おッ前は何をしとんじゃぁあああああああッッ!!!」
「!!」

帰宅して風呂へ直行コース、再び。
まぁこれはこれで、休日の内にシャンプー、コンディショナーを教えるいい機会になったと無理矢理ポジティブに考えてみる事にする。



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