わたしの狭いアパートには、一匹の猫が居着いている。
飼っている訳では…ないと思う。日本語的にも前者を当て嵌めるのがきっと正解だ。この雄猫は、ほんの少し前まで自由気ままなふてぶてしい野良猫だったのだから。もしかしなくとも、今もそうなのかもしれないけれど。
こいつには、この辺りから離れる気がないらしい。今までも気の向く儘に近所を徘徊するなりして、気楽に過ごしていた様だ。
人間にもそれなりに影響を与えるタイプだったこの猫は、添え物程度の狭いベランダに我が物顔で上っては、餌をねだりにわたしの家の窓ガラスを引っ掻くのもいつもの事で。夏には編み戸にそれはもう容赦無く爪を立ててくれやがったし、その儘引っ掛かるし、編み戸がない時は言わずもがなである。絨毯を敷いていなかった分まだ良かったと思いながら、土足で踏み荒らされたフローリングを拭くわたしの横で、毛繕いに励むこいつは野良猫とは思えない程に悠々としていた。これがまた高そうで綺麗な猫なんだ。薄汚れてはいるものの、毛が多いふさふさした種類の猫だし、顔もきりっとしていてぶさ可愛い類ではない。美男ならぬ美にゃ…なんでもない。
外見の通りの高飛車と言うか、クールなこいつはある意味では猫の中の猫なのだろう。群れを成す犬と違い、猫は一匹で過ごす気ままな生き物だ。こいつも正にそんな感じで、なんと言おうか全然可愛くない猫なのである。
利口なのかなんなのか、いつも仕事で帰りが遅いわたしの数少ない自宅自由時間を狙い澄まして寄って来るのもなんかこう、釈然としない。全然可愛くない癖に、ねだるもんはねだってくるその根性には素晴らしいものがあると思うよ。休日は何をどう嗅ぎ付けるのか昼に出没したりもするし。正にふてぶてしいの形容詞が当て嵌まる野良猫である。
けれども奴はそのふさふさもふもふの見た目に反し、寒さには滅法弱かったようだ。気温ががっつり下がった冬の夜に、仕事帰りのわたしを襲撃して玄関から共に自宅に乗り込んだこいつは、それきり外へは出ていこうとしなかった。

「ちょ、ちょっと。多分どころか此処、ペット禁止の筈なんだけど」

にゃあともみーとも言わないこいつは、猫らしからぬ仕草でこちらを見上げて目を瞬き、ふいっと顔を背けた。
子猫と呼べなくなる時期には既に滅多と鳴かなくなるのが大半の猫だけど、無口どころか無関心が過ぎるだろう、おい。早く開けろと言わんばかりに玄関から少し進んだ先の、居間へと続くドアの前で澄まして座るこいつはあろう事かこちらに尻を向けている。つーか、尻しか向けていない。意図的に、もふもふの尻尾で顔を隠してやがる。
…糞も可愛くねえ…!
危うく、良いから出てけっつってんだろとか猫相手に叫ぶところだった。
にじり寄ろうにもコートやらを着込む冬に音を立てず歩くなんてのは到底無理な話で。狭い玄関にも関わらず、俊敏に動くこの猫を捕まえるのも不可能だった訳で。何とか冬さえ乗り切れば大丈夫だろうと、息切れを起こす程に奮闘したところで漸く諦めたわたしとこのふてぶてしい野良猫の、微妙な同居がスタートしたと言う訳である。

「こいつももっと可愛いげのある人間を探して世話になれば良いものを、どうしてわざわざこの部屋を襲撃して来るかな…」

溜息を吐けば酒臭い。寝る前に必ず嗜む酒は変わらず美味いと言うのに、少し離れたところで丸まる奴を目にすると眉と肩が下がるのは致し方ない事である。こちらが少し興味を向けて、小さなその背を撫でてやろうとすれば毛先すら触れさせまいと更に離れたところに腰を落ち着けやがるこの猫は、可愛くない態度でわたしの蟀谷に着々とシワを増やしていく。
やっぱりどうにも、釈然としない。こんな態度の癖してわたしのアパートに居着くまでになったこの猫と、何より、こんな猫になんだかんだで魚をやったりし続けたわたしが、一番釈然としなかった。
元から淡泊なのは自覚している。だからこそ余計に、自分で自分が分からない。これが小動物の持つあざとさの為せる技なんだろうか。
この猫に居着かれて早一月。気付けばキャットフードとか猫缶とか、猫砂とかトイレとか、ピュアクリとか爪研ぎとか、色々揃ってんのも思えばどうしてなんだろう。キャットフードや猫缶なんて夏からあったわ、思えば。猫じゃらしも百均で買ってみたけど全く相手にされず即ごみ箱に叩き付けたんだったわ、そう言えば。
最近のわたしはBGMにとつけっぱなしのテレビじゃなく、視界の端でゆらゆら揺れる紺色の尻尾を眺めながら一人酒を楽しんでいるし。

「…は、おいし」

今ではもう構おうと言う気さえ起きないけれど、こんな猫の一匹でも別の存在を感じると言う一点に関しては、悪い気がしない。の、かもしれない。それにこいつは前から思っていた通りのお利口さんだった。部屋で過ごすからにはと風呂に誘導して洗ってやった時もそこまで抵抗はしなかったし、わたしの留守中に悪戯をするなんて事も全くない。それから、これも猫らしくはないけれど。一月に襲撃してきたからと適当に付けた名前には、必ず反応を見せてくれるのもこいつが利口だからだろう。
何せ、いつもこちらにケツを向けて来るふてぶて猫だ。こいつが雄だと言う事は一目瞭然だったから、後は雄っぽい名前なら何でも良くて、たまたま目についたのがカレンダーだったのである。いちはその儘過ぎるかと思いとどまったわたしの気まぐれは、珍しくも奴のお気に召したらしい。

「…はじめ」

尻尾が真っ直ぐ伸びて、ゆらゆらと下がっていく。綺麗な青色の目は、変わらずフローリングを見詰めている様だった。
野良ならまだしも、部屋にいるのだから名前くらいは必要か。そう思ってつけた、野良猫への微妙な贈り物。戯れに口にする以外で取り立てて必要性は感じられないのが現状だが、必ず反応を見せるこいつの姿を見ていると、何となく、意味を見出す事も出来る気がした。




仕事から帰っても、基本的に出迎えはない。力を必要としないドアや引き出しを容易く開けやがるのがはじめだが、セーブ運転のエアコンが利いた温かな居間でまったりと過ごすあの猫は、わたしが出掛けようが帰宅しようがお構いなしだ。
居間は狭く、寛げる範囲は決まっている。きっと今日も固いフローリングを避け、ソファーの上で丸まっているのだろう。何せわたしがいない間はわたし愛用のクッションにくっついているらしいはじめが、実際にわたしのクッションの上でまったりしている様は見た事がないのである。いかに伸しかかっていたのかは、くっつきまくった毛を見れば一目瞭然なんだけどね。
然しながら、照らされた居間にはじめの姿は見当たらず、それどころか今日のクッションには毛の一本も付いてはいない。朝あげた餌はなくなっているが、そこ以外にはじめの形跡がまるでなかった。

「え…、はじめ?」

呼び掛けに応じる声がないのはいつもの事。けれど、今はそれがわたしの不安を駆り立てた。不安感?不信感?何でも良いが、落ち着かない。
いくらはじめが利口で器用とは言え、所詮四肢は肉球付きの小さな脚。窓やドアの鍵を開けて、外に出られる訳がない。
鞄をソファーに放り投げ、ついでとクッションを確認したわたしはならばこちらかと寝室に足を向けた。コートを脱ぐのは今は後回しだ。
居間から差し込む光だけでは心許ないと、すぐそこのスイッチを長年の感覚で手探る。直ぐに部屋を満たしたオレンジ色の光の中、もぞりと大きく動いた布団から、見慣れた紺色の頭が覗いた。

「――――――――ッッ!!」

安堵するどころか、何故こっちの部屋に、と悩む暇すら与えられない。頭は一瞬真っ白になり、身体は心臓を収縮させるのが精一杯だったようだ。
探していた猫が持つ紺色の耳に、空気を含んで膨らむもふもふの長い毛。それらと共に眼前に現れた肌色に、わたしは声にならない悲鳴で喉を引き攣らせていた。半開きのドアの側面に思い切り背中を打ち付けたのは言うまでもなく驚愕でのけ反った所為だけれど、痛みに呻く余裕すらない。
猫が一匹歩いた程度では軋みもしないだろう固い安物のシングルベッドが、ぎしぎしと大きく軋んでいる。それが、今は何より恐ろしいのだ。

「‥‥‥‥‥‥‥‥‥」

布団を頭から被っていたらしいその男は、腕を立て上体を起こすなり、日本人には有り得ない青色の目でじっとこちらを見遣った。男の身体から離れた布団は波打つ事も出来ず、不恰好に折り重なって肌の周りで固まるだけだ。それ等はベッドに座した儘、ぴくりとも動かない彼の足しか覆えていない。
思い切り寄せられた眉は普段のわたしの比ではないが、あれは恐らくいきなりの照明が眩しかったからで。
‥‥‥‥。寒くは…ないのだろうか。見る限り、布団に潜っていたらしい奴は全裸である。そりゃあ布団に潜る道を選ぶだろう。…それ、いつもわたしが寝てる布団なんですけどね。…ね、

「‥‥‥‥ぎっ」

続いた不自然かつ異様な沈黙は、動き出した思考回路が弾けると共に掻き消えた。

「ぎゃっ――――――――!?」

きゃーなんて可愛い悲鳴を上げる事等出来る訳もなく、肺に溜め込んだ空気は何とも近所迷惑な雄叫びへと姿を変えた。
此処はアパートで、当然ながら壁は薄い。そんな叫声を上げようもんなら、大して親しくもないお隣りさんに声すらかけて貰える事なく百十番されるのは間違いなかった。それはいくらなんでも急と言うものだ。
だからと言って、ぎゃあで止まったのは結果的にはどうなのだろう。人のものとは思えない瞬発力で以てベッドからすっ飛んできた全裸の男に、口を塞がれた衝撃で押し倒されているこの状況は一体何なのか、誰かわたしに説明してくれ。
得体の知れない物体(全裸のイケメン)が突進して来た時は良く分からない終わりを感じ取ったわたしだったが、女らしからぬ呻き声を上げながら女らしからぬ抵抗を数秒程続けていて、分かってきた事がある。
肩で息をしつつ、恐る恐る見上げた先には生活し難い事この上ないだろう、嫌に長い前髪が揺れていた。その間から辛うじて見える左目の中の、細長い瞳孔。人には有り得ないその形は、紺色の長髪の彼には普通有り得ない青色で…。つーか前髪だけじゃなくて髪も長い。胸の辺りまで伸びた柔らかそうなそれが、厚そうな胸板の左右からも零れ落ちていた。
何よりこの人、その見慣れた毛色の頭の先から、すっげー見慣れた更に有り得ないもん生やしてる、ん、だ、け、ど。

「‥‥‥‥‥‥‥。は、はじめ…?」

細められた釣り気味の双眸の先に見えたのは、真っ直ぐ伸びたふさふさの尻尾。ぴんと伸ばされたそれは、見慣れた動きで以てゆるゆると見えなくなる。そうして、相変わらずにゃーともみーとも言わないこの雄猫は、漸くわたしの唇から完全に手の平を持ち上げた。…これまた、鋭利な爪が有り得ないところまで伸びている。




先にも言ったが、わたしは淡泊な方なのだ。女友達や同僚とは遊んだりするし合コンにだってたまになら付き合ったりもするが、基本淡泊。常に淡泊。そんなわたしに、彼氏なんてもんが出来ても長続きする訳がなく。
結論として、我が家には男物の服が一枚もない。
取り敢えずと見ていてありとあらゆる意味で寒い全裸の猫を風呂場にぶち込みお湯を出したわたしは、毛布をユーティリティーに用意して再び風呂場の戸を開け放った。部屋着の袖を捲り上げただけと言う不恰好さで湿度の高い風呂場に入るのは暑いしごわるし散々だけれど、そんな事を気にしていられる状況じゃない。棒立ちの儘、握らされたシャワーを自分の身体にかけ続けているこの男を何とかしなければならないのだ。
しかもこの猫真顔だからね!何だよこの図。何だよこの図!一人暮らしの女の風呂に広がる光景じゃないんだけど!

「‥‥はぁ」

猫なら、何日か風呂に入らずとも全然大丈夫なんだ。猫なら。然し人間は精々3日でアウト。少なくともわたしは無理!はじめを風呂に突っ込んだのがいつだったかなんて混乱気味の脳みそで直ぐに浮かぶ訳もないし、浮かべたくもない。
それにわたしは今更男の裸ごときで慌てる程初でもないから、この猫が綺麗になるついでにあったまれば今は取り敢えずそれで良い。他の事なんざ今は知るか。

「大人しくしててよ」

大きな猫を椅子に座らせ、受け取ったシャワーを頭からかけた。跳ねたと思えば押さえ込まれ、寝た耳は人の頭のサイズなだけあって結構大きい。丁度、はじめの手の平くらいの大きさだ。水が入らない様に洗うのは難しいけれど、自主的に押さえてくれたのはかなり有り難かった。
髪質は変わらず柔らかいが、人間のそれに近いものになっている。人として扱うに何ら問題はなさそうだ。念入りにシャンプーを洗い落とした暗い色のそれをコンディショナー漬けにして纏め上げてやってから、わたしはボディーソープを染み込ませたタオルをはじめの項から背に滑らせた。
耳を伏せ、目を閉じてされるが儘のはじめは、先程から大人しいと言うか硬直状態。垂れ下がった尻尾は足の方にカーブを描いている。
…これは全身コースなのか?流石のわたしだって、全身を洗ってやるのに全く引っ掛かるものが無いかと言われれば嘘になるんだけど。二足歩行は普通に出来てたし、教えてやれば身体洗うくらい出来るんじゃない?
ぐるぐると思考を巡らせていれば、広い背はあっという間に泡塗れになっていた。尻尾に到達したタオルが行き先に迷い、一瞬止まる。
毛むくじゃらのこれはシャンプー?ボディーソープ?まぁボディーで良いかとタオルで握り込んだ尻尾は、耳と同じで猫の時に比べると格段に太く長い人型サイズだ。大きくて長い尻尾は、いかつい男のケツの上から生えたものだろうが良いものだと思う。今はびしょ濡れだけど、もふもふしたものは癒しだ。飽くまでこれだけ見ると良いものだなと気楽な事を思いながら、わたしは付け根を握る手にぐっと力を込めた。

「ッ!!」
「えっちょっ!!?」

尻尾の先まで引き下ろすつもりだった手が、持ち前の俊敏さでいきなり立ち上がったはじめに振り払われる形で行き場を失った。
何事かと見開いた目は、鞭のようにしなり飛び上がった尻尾を無意識に追い掛ける。…それはもうはっきりと、至近距離で。今の今まで注視していた尻尾が、彼の背後に消える様をはっきりと映す。

「―――――――っ!!」

そうして、再び引き攣ったのはわたしの喉だ。
尻尾が見えなくなったのは、椅子から上げた腰を捻り、はじめがこちらを見たからで…つまり、そうなると、必然的に前…

「ッの馬鹿!後ろ向いてなさいよ!!」

左手はタオルを握るわたしの手を止める為に伸ばされたらしく、強く捕まれた手首が痛いが気にせず左手で眼前の胸板を殴る。
一瞬とは言え至近距離で、電球に燦々と照らされたそれを注視してしまったわたしは、不覚にもかなり混乱してしまっていた様だ。
その混乱した頭が、でっ・・・・とか咄嗟に浮かべた気がするけど、絶対気の所為。断じて違う。
つーか確かに尻尾の付け根をいきなり握ったのは悪かったけど、わたしは毛が抜けない程度の力しか入れていない。そんなデリケートなタマかお前ッ!




元々が利口だった猫である。わたしの言葉は、それなりにはこいつに伝わっているらしい。あの後、高ぶった感情に翻弄される儘自分で身体を洗うように凄んだら、はじめは見よう見真似で自分の身体に押し付けられたタオルを滑らせたのだ。乱暴なジェスチャーも功を奏したのだろう。お蔭様で、何とか逆上せる前に風呂場を後にする事が出来た。
服を着た儘の風呂は、シャワーと言えど暑くてやばい。もう二度と入るまいとは思いつつ、次からはじめが一人で入れるかはまだ分からないからなんとも言えないんだけど。
わたしが四肢を拭って見せれば、渡されたバスタオルではじめも身体を拭い出す。物覚えは良さそうだし、手つきもしっかりしている。
ま、いけるか。そう思ったところで、勢い良く頭を振り乱したはじめのロン毛に顔面を強打され、わたしは甘い考えを直ぐさま捨てる羽目になったのだった。猫か!!




「…はい、じっとする」

羽織らせた毛布を後ろから安全ピンで止めてやり、折り畳み椅子に座らせたはじめの髪をタオルでわしゃわしゃと擦っていく。
こうして改めて後ろから見下ろしていてふと思う。元が猫だからか、はじめは筋肉こそあれそんなに長身じゃないんだ。わたしより少し高いくらい。それでもわたしの服は絶対に入らないから、こうして芋虫みたいな格好を強いているんだけど。猫は布団で寝たりするし、はじめも毛布を巻かれる事にはなんら抵抗がないみたいで、そこには一安心だ。いや、何一つ安心出来る状況でもないんだけどね。明日からの土日は買い出しで潰れる事間違いなしだし。安堵と言うか、落胆からの溜息が出てしまいそうだ。
あれこれと悩んでいても手は動く。柔らかな猫っ毛から、粗方水分は吸えたみたいだった。

「ドライヤーは分かるでしょ?かけるからビビらないでね」

タオルを洗濯機に放り込み、目を閉じているはじめの前にずいっとドライヤーを持っていくと、気配で目を開けたはじめの耳が二度程動いた。ドライヤーは一瞥されただけで捨て置かれ、青色の目は再び瞼の奥へと消えていく。
猫の時と、基本態度は変わらない。わたしは大人しいはじめの髪に風を送り、湿った髪の水分を飛ばした。辛うじて見える左目は相変わらず閉じていて、うとうとと言うか、気持ち良さそうに見えるのはわたしの気の所為なの、かな。
気になって、ここぞとばかり、鏡ごしのはじめの顔を見てしまう。てかこいつ、元は猫の癖してそこらのアイドルより整った顔してないか?イケメンだとは思っていたけれど…

「っ、」

ふくらはぎを、湿った何かが撫でた。我に返って見下ろした先には、ご機嫌そうに揺れる水分をそれなりに含んだ儘の紺色の尻尾。
…忘れてた。ドライヤーの電源を落とすのは、まだまだ先になりそうだ。
やわやわと撫でながら、耳にもドライヤーをかけてやる。どう言う基準になっているのかは分からないけれど、耳と尻尾の毛は猫のはじめの儘だった。首を傾げつつ無意識に耳を撫でたわたしの手の平の中で、風に煽られるが儘だった大きな耳がぴこぴこと動く。
…やっぱり、少しご機嫌なんじゃないだろうか。所詮憶測だけど、そう思ってこいつを見てると何だか胸がむず痒い。
気を引き締めようと真一文字に結んだ唇と、はじめを撫で付ける手の平。目を閉じて時折耳や尻尾を動かすはじめをありありと映す鏡の中は、とてもミスマッチだった。




綺麗になったはじめをソファーに座らせて、向かったのは台所。こんな時でも人間腹は減るものだし、何よりはじめに何をやりゃあ良いのか、わたしは考える必要があるのだ。
そうして取り出したるは豆腐と秋刀魚。魚に豆だし、これなら食べさせてみるには持って来いだろう。
用意したのはいつものキャットフードと、湯豆腐と、秋刀魚、大根おろし。今はまだ寒いし、猫舌かどうかの確認も込めて豆腐は熱してみた。猫は甘味を感じないと言うけれど、それも必要ならば確認してみたいところだ。
此処までくればものはついで。どばどばと砂糖をぶち込んだ水を用意し、辛うじて二人で飯を囲めはするテーブルにそれらを並べ、はじめを促した。風呂上がりに水を飲ませたばかりだからコップに手は伸びないかもしれないけれど、その時はその時だ。
はじめは眼前に揃えられた熱々の湯豆腐、秋刀魚、米、いつものキャットフード、砂糖水に順に視線をやり、先ずは箸を手に取った。
キャットフードにも使えそうだしとスプーンも用意していたんだけど、箸に行くとは驚きだ。やっぱり器用な猫である。
片手でさっと持たれた箸は握り込まれる訳でもなく、既にものを挟める体勢に入っている。さっきコップから水を飲んだ時も、てんで迷うそぶりは見せなかった。これで猫耳と尻尾さえなければ、普通の人間の仕草なんだけどな。
湯豆腐をつまみに、十分腹に溜まるアサヒナさんをぐびっといきながら、わたしは動かないはじめの箸を横目で注視する。
残念ながらソファーは二人がけのそれ一つ。向かい合って食べる事もできなくはないが、わざわざ折り畳み椅子を持って来るのは面倒極まりない。隣り合わせで困る事もあるまいと座り込んだソファーの上から、幸いはじめも逃げ出そうとはしなかった。驚いたのか、気持ち目を見開いて身を引いたくらいだ。
依然として動かない箸が気になりつつ、急かすのはどうなんだろうと気にせずプルタブに手を伸ばすわたしのご飯は着々と進んでいく。
明日は買い出しの予定が入ったとは言え休日で、こんな状況じゃ酔いも回るまいと高を括るわたしのペースはいつも通りだ。取り乱したのは最初だけだし、我ながら落ち着いていると思う。
でも流石にはじめは落ち着き過ぎだと口元が引き攣ったところで、漸く固まっていたはじめの箸が豆腐に伸びた。
鍋の中は兎も角も、装ってあったそれは程よく冷めた頃だろう。矢張り猫舌なのかな、と情報収集に勤しむわたしの視線を気にも止めないはじめは、らしくなく集中しているのか。豆腐は崩れる事もポン酢をかけられる事もなく、綺麗な形の儘はじめの口内に消えていったってか歯ァ怖ッ!牙四本そのまんまじゃん!
こいつ…なんかこう…美形と言うより美人の部類に入るだろう容姿も相俟って、吸血鬼っぽく見えなくもない気がしてきた。風呂上がりでほかほかだし、間違っても死体には見えないけど。所詮けも耳だし。所詮けも耳だし。
そのけも耳が、ぴんっと立った。人間の頭サイズに変化しているでかい耳が、ポーカーフェイスの代わりに見事にはじめの心境を表してくれている。
何より猫より人の方が、比べるまでもなく表情は豊かだろう。同じポーカーフェイスでもその違いは明白だ。少なくともわたしは猫のはじめの心境なんて、これっぽっちも理解出来ていなかったと思う。
でも、取り皿に残った豆腐を見詰めて目を見開く今のはじめの気持ちなら、多分分かる。心做しか、青色の綺麗な瞳も更にキラキラしているし。

「…美味しい?」

箸を宙ぶらりんに固定した儘動かないはじめに、わたしの口元はきっと緩んでいた。酒も入っていたし、湯豆腐で大袈裟に感動するはじめに、見事に意表を突かれたんだろう。
…なんだ、この猫、可愛いぞ。
勿論そこには、湯豆腐で感動するイケメンの図が微笑ましいと言う思いもあったのかもしれない。でも可愛いと笑ってしまったのは、間違いなく猫のこいつを多少なりとも知っているからだろう。
声を拾ってこちらを向いた双眸は、既に顔面ごとポーカーフェイスに戻っている。でも、頷くなり再び湯豆腐に集中するはじめは、やっぱり可愛い奴に見えた。もしかしなくとも、猫の時も意外に感情豊かな奴だったのかもしれない。尻を向けられる事が大半だったし、知る由もないけど。




はじめはキャットフードには目もくれず、湯豆腐をポン酢和えで完食し、明日の朝用の米までもを大根おろしを添えた秋刀魚で平らげ、砂糖水に盛大に顔をしかめて遅い夕食を終えた。そして、下げた食器を水に漬ける。
全く賢くお利口な猫だと、何度も思わされてしまう。して矢張り雄…男。小柄…当社比…の割に、有り得ないくらい飯食うんだけど。空の炊飯器を遠くから見詰め、渇いた笑いを漏らすわたしの口は先程とは打って変わって引き攣っている。
あーあ、それなりに飲んだ後に動きたくはないんだけどな…朝のがだるいし、今日ばかりは仕方ないか。もう少し炊いておけば良かったんだと過去の自分を恨むしかない。
溜息に重なった水音が止んだ。もう少しふやけてから動こうと持ち上げた缶には、まだ少量の酒が残っている。ぐああ…面倒臭え…!とばかり、残りを煽った。
再び見遣った台所には、こちらに背を向けた状態で立ち尽くしているはじめの姿。…ん、何をしてるんだろう。手が動いているし、なんかかちゃんかちゃん、食器が重なる音がするんだけど。

「え…」

空の缶を握り締めた儘ソファーに沈んでいたわたしは、まさかと立ち上がって台所を覗き込んだ。
泡塗れのはじめの手に握られた食器用スポンジと、先程水に漬けられたばかりの筈の食器類。更にはじめの手は炊飯釜までをスポンジで洗い、当然のようにお湯で泡を流し始めている。
お前…どんだけ賢いんだよ!!

「ちょっ…はじめ!そんな事しなくて良いから!」

咄嗟に止めに入ったわたしの中で、はじめは猫以外の何者でもなかったんだろう。今は人の姿で、やり方には何の問題もなかったものの、させられないと込み上げたものに素直に身体は突き動かされていた。
慌てたのは驚愕したからだけれど、耳と尻尾を揺らしてこちらを見たはじめはやり方が間違っていたのだと思ったらしい。止まった手が、行き場を失って惑うそぶりを見せていた。

「別に間違ってないよ?でもそれはわたしがやるから良いの」
「…」
「ほら、手洗って」

はじめが泡を付けたものを、彼が今していたようにお湯で流して行く。言葉は通じていると確定しても良いのだろうけど、一応、念の為、行動でも見せておいた方が良いだろうし、歩いて来たんだからこの際やってしまうに越した事はない。
炊飯釜を洗い追えても固まった儘のはじめがじれったくて、わたしは苦笑しながら、泡と水滴を滴らせるはじめの手を取り、お湯で洗った。両手で握り、やわやわと擦る。然しながら大きい手だと思う間もなく、水を得た魚のように彼の手は飛んでいってしまった。
泡と水が飛沫になって台所とわたしを襲う。

「おいこらっ…」

はじめ!そう続けようとしたわたしの目に、映り込んだ赤い頬。
吊り革に捕まったリーマンみたいなポーズのはじめの前で、咄嗟に彼に伸ばした腕をわたしも不自然に停止させた。
やや見開かれた状態で、真ん丸になった青色の目の中に映るわたしは、ぽかんと口を半開きにした間抜け顔を晒している。でも今は、わたしの醜態よりもこのはじめの反応が、わたしの思考を埋め尽くしていた。
ぎこちなく握り込まれたはじめの手には、若干の力が入っているようで…やがてふいっと逸らされた事で目に入った耳は変わらずの藍色だけど、毛が生えてるんだしそれは当然である。だから猫は顔色が変わらないし、表情の変化も分かりにくいんだ。尻尾が騒がしいくらいで。はじめの尻尾は、いつもどんなふうに動いてたっけ?
いや、もしかしなくともこいつ…

「お前…まさか今までずっと照れてただけ…?」

初なの?張るの?まさかなの?
利口な猫は、横目でこちらを見遣り、そして。触発されたのか何なのか、同じく赤くなっていたらしいわたしの頬を、泡塗れの左手で撫でた。
泡がついてるとか…気にしないのはやっぱり猫だからなんだろうな…。怖ず怖ずとぎこちなく伸ばされたそれを回避しなかったわたしに、今更文句はない。

――――――――――――――――
お付き合いくださり有り難うございました!
風呂での作業は覚束ないのにそれ以外の行動に支障がないのは、背を向けているようでいて、はじめがヒロインを結構見ていたと言う複線でした。絶対伝わりませんね。土下座!


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