「じゃ、行こう」

途中に辛うじてトイレが設置されているだけの、玄関に続く狭い廊下を一気に抜ける。引っ掛けるだけで歩ける靴にさっと足を通して、わたしは用意していたはじめの靴を靴箱から取り出した。これも足を通してって言わないと分からないだろうし。靴べらはいらない奴だから、はじめもさっと履いてくれるだろう。

「はじめ、これ…て、あれ、はじめ?」

振り返った狭い廊下は無人だった。開けっ放しのドアの向こうで、尻尾をだらりと下げて立ち尽くすはじめがこちらを見ている。おい、どうして尻尾が出てるんだ。

「何してるの、おいで。あと尻尾仕舞う」
「…」

返るのは沈黙。つまりガン無視である。けれど、いつもみたいに視線は逸れない。眉を寄せた儘じっとこちらを見遣るはじめが、ただ動かないだけ。
…何か、伝えたい事があるんだろうか。それにしたって、棒立ちで寄り付きさえしないのははじめらしくない。あいつ自身何処か戸惑ってる様にも見えるし、尻尾が下がってるからテンションは低そうだし…。
もしかしてこいつ、外に出たくない?

「はじめ?」

ぶらりぶらりと尻尾が揺れる。続く微妙な反応には謎が多くて、わたしの眉間にまで皺が出来てしまいそうだ。
靴からさっと足を抜き戻った居間は、ダウンジャケットで立ち尽くすには暑そうだった。猫は体温が高いから、この儘じゃ汗掻くんじゃないだろうか。
はじめはここから出たくないと言う様に、左足を一歩引く。近付くわたしを警戒してるとも取れるけど、不安で揺れる瞳に羞恥心は見られないから、多分違う。尻尾も持ち上がりはしても飛び上がりはしてないし、寧ろまた下がって揺れてるし。
明らかに、何かに戸惑っている。

「何が嫌なの?いくら風があるとはいっても一瞬出るだけだし、ダウンジャケットじゃ暑いくらいだよ?」

真っ先に頭に浮かんだ候補の一つを上げてみる。けれどこれは、単なるわたしの逃げだった。
はじめは元は野良猫だ。今年が異常に寒かったのかどうなのかは知らないけれど、何年かは外で冬を乗り越えているから彼の今がある筈。だったら、寒さを理由にここまで渋るのは少し考えにくいんだ。分かってて、当たり障りのない問いにわたしは逃げた。他にいくらでも浮かぶ候補を言葉にしてみたって、マイナスを突いてしまう可能性の方が圧倒的に高いからだ。
思えば外の話題を振った時、ベランダに続く窓を開けた時も尻尾が少し不機嫌になっていたっけ。それが今不機嫌と言うより不安そうに見えるのは、はじめの目が、縋る様にわたしを見ているせいだろう。
じゃあ、はじめは不安なのだろうか。不安だから、外に出たくない?

「…分かんないよ、はじめ」

それだけじゃ、何も分かんない。なのに見詰め返すだけでそれすらぎこちなく逸らされてしまうのだから、わたしは堪ったものじゃなかった。
猫から姿が変わった事で、はじめにとっての外がどう言うところになってしまったのか、やっぱり野良に戻りたいのか、自由が制限された事を、どう思うのか。何をどう気にしていて、何が不満で何処が不安なのか。今までの反応だけじゃ、わたしに汲み取る事は出来そうにないのに。
なのに、だ。
この初猫は…明らかに惑っているくせに、伝えようと動いて見せてもくれないんかい。あの時マーキングに走った強引さは何処に隠した。実はカマトトぶってんじゃないだろうな。
今だって、わたしは当たって砕けろ状態なんだ。出ていく事は出来なくても外出は可能なんだって事をこいつの頭に入れておく事が、はじめにとっても必要だろうと思って行動してみているだけに過ぎない。
知らないよりは知っておいた方が良いだろうし、外に出たはじめの反応で、わたしにも分かる事があるかもしれない。手探りにも程があるけど、やってみる価値は十分にあるって気持ちは今も変わらない。
だからせめて、玄関先くらいは見せておきたい。一歩は、踏み出させておきたいの。互いの為とかじゃなく、動いてみなくちゃ進まないから。
だっつーのにそこでお前に一休みされたらわたしのターンも進まないんだ。分かってんのかぁあ!!
威嚇されて逃げ回られて大暴れされてと全力で拒否られるなら諦めるけど…このはじめの反応は、諦めるには引っ掛かるものが多すぎた。もう一押しだけ、わたしは行動してみる事にする。
弱い力で握り込まれているはじめの左手に、嫌なら後退れる様に、ゆっくりと手を伸ばした。動くものに敏感なはじめの目がわたしの右手を見下ろして、不安とは違う意味で青が揺れる。けれど、それだけ。温かい人差し指の付け根辺りを親指と人差し指でそっと掴んでみても、彼は逃げなかった。

「あんたは寒いからここに来て…それで今、もう春も近いでしょ?何が引っ掛かってるのか知らないけど、一度だけでも今の姿で外を見てみたら、何か変わるかもよ」
「…」

はじめの眉が更に寄る。何に反応したのかを探る為に、わたしは敢えてそれを無視した。

「わたしはぶっちゃけ、今の姿のあんたを野良に戻す気はないの。だからもし嫌だったなら一生出なくても良い。でも、不安はあるけど外には出たいって気持ちが強いなら、逆に慣れるまで頑張ってみたって良い。その為にも一度くらい外出はしてみたら?野良には戻れなくても出掛けられない訳じゃないって、あんた自身が感じるべきじゃない?」

どんなに皺が深くなっても、下がった眉は揺らぐ瞳を余計不安に包むだけ。珍しい事に、足元で揺れる尻尾より崩れたポーカーフェイスの方が、より彼の気持ちを表している。
はじめは、怒っている訳じゃない。一言で言えば、悄気てるみたいだった。
こんなはじめは初めてだ。帽子に覆われていて耳が見えないのは残念だけど、揺れる瞳には不謹慎ながら可愛いものがある。でもわたしはどうやら、しれっとしたこいつの顔を見る事に慣れすぎてしまっているらしい。

「…必要、ないの?ないなら、強制はしないけど」

ダウンジャケットに刻々と上昇させられている彼の体温を感じる事、ほんの数秒。微妙な沈黙を跨ぎどうする?と繰り返して指を引こうとした時に漸く、はじめの指がぎこちなく動いた。
まるで離れかけたわたしの指を追う様に、はじめの親指と人差し指がわたしの親指に寄せられる。実際、この繋ぎ方じゃはじめはわたしの親指を掴む、と言うか摘むのが精一杯だ。
繋ぎ直しても良いけれど、相手は初猫。折角返った反応が、漸く安定してきた瞳ごと羞恥に煽られても困る。わたしはその儘はじめの手を引き、靴に足を突っ込ませて玄関のドアに手をかけた。
最終確認も必要ない。当然ながら、くどいとはしょらせて貰う。




最初で最後になりそうなはじめの外出は、結局のところ5分と持たなかった。
玄関を開け放ち、4歩程進んだわたしに続くはじめの足は、そこからもうぎこちなかった様に思う。わたしの背後…ドアのすぐ傍でノブを握り締めた儘、玄関先から空を見上げたはじめが動くのにだって、2分とかからなかっただろう。
ほんの1分程度空を映したはじめの目には、感情と言うものが何も浮かんでいない様に見えた。てっきり出たら出たでそれなりには嬉しそうにするかと思っていたから、わたしは意外で、呆けてしまったのを呆けながらに良く覚えている。
空から落ちて地面を一瞥し、ゆるりと上がった彼の目はそれきり自然を追う事もなく、繋がれた儘の二人の指に向けられた。わたしの指を後方…つまり家の方へ、気持ちばかりに引いたはじめの親指は、彼にしては有り得ないくらいに積極的だ。戻りたい、と切実に訴えるはじめの仕草が、目が、益々わたしの顔を間抜けなものに変える。
目の前に広がる頼りない青。そっと擡げた視線でわたしを見詰め続けるはじめの足元には今は何もないけれど、珍しく下がった儘の尻尾が、不満そうに左右に揺れ動く様が見える様だ。そんなに嫌なら一人でとんぼ返りすれば良いのに…とは、思ったけれど言わないでおく。捨てられる事を恐れる猫の様な、そんな不安が、はじめから感じ取れた気がしたから。
これがわたしの自惚れなら、遠慮なく笑ってくれて構わないけど…はじめはきっと、多分、恐らく、もしかしたら、多分。元から、野良に戻る気はなかったのかもしれない。ここにいたいんだ、多分。
でも、そう言う事だよね。この、悄気返った居心地悪そうな目は、素直にそう伝えるのが恥ずかしくて、でもいきなり外に連れ出されるのも不安でって、そう言う事だよね。
厄介な理不尽な不満は、微塵もないって思って良いの?なら、正直それが一番嬉しい。心の底から安堵できる。

「…うん、分かった。帰るか、はじめ」

解いてしっかりと握り直した手は意図的だけれど、にんまりと笑った口元は意図的か無意識か、それは自分でも分からなかった。可愛い小動物とは凄いもので、人の顔面をこうも容易くいじくり回してくれやがるのだ。今は何処を取ってもわたしよりでかいこの猫も、小動物としての武器をしっかりとその身に残している。
目の前の白い頬はわたしの期待通りに赤く染まり、はじめの眉から見事に苦いものを取り去ってくれた。もう手遅れだろうに顔を背けて、わたしを引き摺る勢いで玄関に取って返すはじめが可笑しい。
然しながら、玄関から4歩と2歩のこの距離は、家に帰ると言うのだろうか。余計なところを気にするわたしの目の前で、乱雑に脱ぎ捨てた靴を律儀に揃えるはじめに、遂にわたしは吹き出してしまった。




ばふっべしっばふっべしっばふっべしっばふっべしっと、規則的にソファーをぶっ叩くなり滑るなりする尻尾が喧しい事この上ない。帰宅するなり脱いだダウンジャケットをきちっとハンガーにかけてからソファーに落ち着いたはじめは、さっきからずっとこんな調子だ。
帽子から解放された耳は嬉しそうに立つでもなく水平に下がっていて、肘掛けに突いた手で支えられている顔は思い切りわたしから逸らされている。いつものポーカーフェイスが未だに赤いんだろう事は、まぁ、見なくても予想つくけど。もうなんなのこの生物は。お手上げなんだけど。抱擁かましたら爆発するんじゃないだろうか。

「ごめんって。もう笑わないから」

パソコン机の椅子を引き、テーブルを跨いだ向かいに座る。手をひらひらと振って見せればはじめはじろりと横目を寄越したけれど、すぐに顔ごと背けられてしまった。尻尾も忙しい儘だ。
ここで可愛かっただけだよなんて言ったら逆効果だろうなぁ。こいつが言葉を何処まで理解してくれているのかは知らないけれど、結構伝わっている様だからうかつな事は口走れない。

「はじめ。ごめん」
「…」
「ご、め、んってば。いつまでその儘なの?タイミング逃すだけなんだから、いつもみたくつんつんしてなさいよ」
「…」

しつこく言葉で突いてみるも、効果なし。これは放置の方向で、昼飯に豆腐を出すしかないか。動物には餌付けが効果的で、それははじめも例外じゃない。飯時にはほとぼりも、こいつの顔の熱も冷めているだろう。
でも取り敢えず、そのクイックルワイパーは何とかして。普通にうるさい。



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三度目にもなるけもはじ。つまり三獣万打!めでたい!!おめでとうございます!私もこれからもカウンターを回しまくりますよう!
はじめは顔面隠して尻尾隠さず。尻尾の感情丸出しっぷりは無意識です。ヒロインの猫に対する「お前」と人に対する「あんた」も無意識で、見事にごちゃごちゃしております。




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