「………、」
「っっ!!!???〜〜〜〜〜っっ、っ、」
「…?」

毎朝、目が合う。
しかし直ぐに逸らされてしまうのだが、その際に慌てているのか辺りを挙動不審に見渡してから、真っ赤になって俯くのだ。
俺が再び読んでいた本に視線を戻すと、次の停車駅を知らせるアナウンスが響く。今日も相変わらず静かな車両だ。

毎朝早朝六時四十分に家を出る。
そしてまだ朝日も低い位置にある頃に地元の駅から電車に乗り込む。暖かくても寒くても、それだけは何も変わらない毎朝の風景。
満員電車が嫌だからという理由で、早い時間を選んでいる訳ではない。俺はどれだけ電車が混んで居ようが空いて居ようがあまり関係が無い。自分の世界に入ってしまえば、さして気にならないらしい。それは就職し、この電車に乗るようになってから知ったことだ。
こうしてドア前に持たれ、静かに本を読むのが毎朝の日課だった。
通り過ぎていく窓の外の景色を見なくなったのは、いつからだろうか。

この本も、もう直ぐ終わりか。このぺースでいくと、一冊辺り一ヶ月で読み終わる計算になる。いつも良い所で電車が駅に着いてしまうので、それだけが不便なところなのだが、余り没頭して乗り過ごす事など持っての外だ。在り得ない。
がたん、がたん、と規則的な揺れと音に心地よさを感じ、本も丁度大詰め。俺は次の頁に思いを馳せながら、右手を伸ばし頁を掴んだ。

「……………、」


まただ。
また視線を感じる。

ぴくりと眉を動かすと、小さく空気を吐き出す。
本を読む時のみ耳に掛けていた前髪がパラリと視界に零れてきて、頬を撫でる。
今まで本の世界に入っていた俺は、その時既に別のことに集中し捲った頁の一行目を読む事をしていなかった。

俺の斜め前。
席は幾つも空いていると言うのにも関わらず、俺と同じく対面のドアに凭れる様にして立っている女が一人。年齢は不詳だが、その服装からして同じく社会人と言った所か。いや、最近の大学生は大人びていると言うから、もしかしたら俺よりもずっと下かも知れない。人を見た目だけで判断するのは、少し苦手だ。それが女性なら尚更。
しかし、一体なんだというのだ。言いたい事があるのなら、言えばいいだろう。

彼女は、毎日その場所に居るのだ。
確かに、この車両なら駅に着いた時に階段が近い故、俺も乗る時は必ずこの車両に乗ると決めている。その証拠に、彼女に限らず毎朝顔を合わせる人間も居るには居る。
しかし、彼女だけは違う。


視線が、刺さるのだ。

俺はさも本を読んでいるかの様に俯いたまま気配だけで彼女の存在を感じていた。目の前にある本の文字は、先程まで俺に沢山の物語を与えてくれていたのに、今となってはただの文字。ただの黒いインクの他無い。あの後、リチャードはどうなったのだ。メアリーは助かったのか。と今まで読んでいた物語の先に思いは馳せれど、俺の脳はその先を欲してはいなかった。ただ、神経を向けているのは、目の前の女性。

俺も確かに以前「いつもあそこに居るな」位の感覚で気にしてはいた。
それはずっと前の事だ。この会社に入って、俺がまだ新入社員と呼ばれていた頃からずっと。晴れの日は、音楽を聞き、雨の日は憂鬱そうに花柄の傘を揺らしていた。そして、俺が降りる同じ駅で彼女も降りるのだ。
しかし、俺が降りてからまるで距離を測るように遅れて飛び出してくるのも、何度も目撃していた。当然、声を掛けられたことなど、一度もない。

其れなのに、毎日感じるのだ。彼女の視線を。


『次は、………、忘れ物の無いようご注意ください…』

独特の話方で降りる駅の案内アナウンスが入る。これも毎度同じ事。ここに来て俺は漸く本を鞄に仕舞う。しかし、今日はそれをしなかった。いや、出来なかった。
垂れた前髪の隙間からちらりと前を見ると、先程の名残か、未だ頬を少しばかり赤く染めた彼女が、俺を見ていた。最初の頃は、俺越しに窓の外の景色でも見ているのかと思っていたがどうやら違うらしい。俺があからさまに顔を上げると、目を逸らし俯く。
以前その話を総司にした時「気配に敏感なはじめ君だから気付いちゃうんだろうね、その子…可哀相だなあ」等と言っていた。一体何がかわいそうなのか。それを問うと「さあ、それくらい自分で気付いてあげなよ」と軽く交わされてしまった事を思い出す。

そこで、今日は初めて見る服だなと。その言葉が唐突に浮かんできた。

「…は、」

何故、服装など。
思わず顔を上げると、やはり目が合い。そして逸らされる。しかし、俺は先程自分が思った事に動揺していたのか、今度は俺が彼女を穴が空くのでは無いかと言うくらいに凝視していた。本を持ったまま、じっと見ると俺の視線に流石に気付いたらしい彼女が、両手をふらふらと上げたり下げたり慌てている様子だ。いつもの倍は慌てている。
その度に揺れるスカートが、どこか可愛らしかった。この時代、明るい髪をしておらず、一度も染めた事が無いのかと言うくらい綺麗で繊細な黒髪をしている。背後から上がる朝日に照らされると、透き通るのだ。無駄に露出もないが、控えめに覗く足元は、とても白かった。すっきりと見せる履物は、危なっかしく無くていいと思う。

……上から下まで、思わずじっくり観察してしまった。
そこで急激に恥ずかしくなって来て、目を閉じると自然と大きな溜め息が口を突いて出た。そうだ、特に見られている事など、気にしなければ良いではないか。
だが、今、俺がそうしていた様に、彼女も俺の頭から足先まで何かを思いながら見ていたのだろうか。ふと目を開けると、己の爪先。仕事で履き潰しているこの革靴も、そろそろ変え時か…。

あ、ほつれが…、


「あのっ!!!」
「は?」

靴の先に小さなほつれを見つけた時だった。
突然、大きく高い声が聞こえたと同時に、強く腕を引っ張られた。勢いよく顔を上げた時には、既に斜め前に彼女は居なかった。そして、横をすり抜ける細く透明な髪。
左手で持っていた本が、するりと指から滑り落ちていった。

「なっ!?」
「す、すみませんっ!!!」
「本が、」

どうやら、対面の彼女に腕を引かれ、電車からホームへと引っ張りだされたらしい。
足を踏み出した時には、既に電車の扉は閉まりかけていた。そして、その車内の床には、俺が読んでいた本が一冊、ぽつりと落ちている。しかし無常にも扉は閉まり切り、発射のベルがホームに響いていた。

「あ、あんたっ!何を、」
「あ、あ、す、すみませんっ!思わずっっ!本当にすみませんっ!!」

謝罪の言葉を述べながら繰り返し頭を下げる目の前の女に、俺は大きな声を上げていた。突然腕を引っ張り、ホームに連れ出され、挙句に読みかけの本は電車と共に走り去っていく。鞄を落とさなかったのは不幸中の幸いだろうか。少し乱れたネクタイとスーツを直しながら、茫然と立ち尽くすしか出来ない。
未だ顔を上げない彼女に痺れを切らし「何故あの様な事を、」と切り出すと、ぎゅうと目を閉じながら上を指差した彼女。それを辿り見上げると、

「降りる、…駅だったか、」
「は、はい…。今日はいつまで経っても、動かなかったので、思わず、」
「…すまない。少し考え事をしていた。乗り過ごす所だった…。礼を言う」
「は、はいっ!あの…でも、本が、」
「…いや、本はいい。また買い直せば済む事だ、気にするな」

なんだか可笑しな感覚だった。
今まで毎日顔を合わせていたが、言葉を交わすのはこれが初めてになる。
視線こそ合ってはいたが、それは一瞬の事で…こうしてまじまじとお互いの顔を見合うのも初めてだ。
近くで見ると、やはり綺麗な肌をしていた。赤みをさした頬はやはり同じだが、余程慌てたのだろう、小さく息を切らしている。それを見ると、俺から自然と笑みが漏れた。

「あんたは、意外に声が高い」
「え」
「いや、毎朝あんたを見かけてはいたが、声を聞くのはこれが初めてだからな」
「…っ〜〜〜〜〜!!!???ぶ、あ、わわ、っえ!?」
「どうした、」

両手を高く上げ、宙を掴むように振り回す彼女を良く見ると、掲げられた彼女の鞄から同じオフィス街にある社名の入った封筒が覗いていた。そうか、なるほど。とそこで、やはり俺の感は当たっていた様だと少し嬉しくなった。これで大学生などと言われたら、肩を落とす所だった。

「あの、わたし…あなたの事、ずっと、み、見てましたっ」
「……知っているが、」
「え!?嘘っ!?こっそり見てたのにっ」
「全然隠れてなどおらぬ…。俺は全身にあんたの視線を感じていた。毎朝毎朝、良く飽きぬなと、」
「…っ、ううう、」

がくりと、頭を落とした彼女のつむじを見て、くつくつと笑ってしまう。色々な表情をこの数分で見せてくれた彼女に、少しばかり親近感が沸いていた俺は、腕時計をちらりと見下ろし「改札へ」と足を動かす。それに遅れて着いてくる気配を感じながら、聞こえるくらいの声で名を名乗った。

「俺は、斎藤。斎藤一と言う。あんたの名前を教えてくれ」
「え、は、はいっ!!!あのわたし、わたしは、なんだっけ、」
「あんたは…、自分の名前すら忘れるのか、」
「あ!みょうじ!みょうじなまえですっ!!!なまえっ!」
「何度も言わずとも、聞こえる。少し落ち着け」

「笑わないでくださいっ、こ、混乱してるんですっ、だって…」
「…?」

「だって…っ、」

着いて来ていたヒールの音が止んで言葉が止まる。
何事かと後ろを振り向くと、階段の一番上の段で立ち止ったままの彼女は、先程よりずっと赤い顔をして両手で顔を覆っていた。

そして、一段上に片脚を掛けたまま見上げた俺は、次の瞬間思わず息を飲んだ。


「ずっと、ずっと前から、好きだったんです、あなたのこと…」
「…………、っ」

ゆっくりと覗く、その照れた表情がとても可愛らしくて、
そして、

綺麗だと、思った。

もっと、彼女を知りたいと、
先程読んでいた物語よりずっと、ずっとその先を頭が欲しがっていた。

「ならば…。と、取り合えず。共に、会社まで歩こう…」
「は、はい…」

初めて並べた肩は、緊張して力が入っていた。
どうして俺はこんなに脈が速いのか、確かこんな描写が先程電車に乗って旅立っていった本に記載されていた気がする。なんだったか、たしか…

「斎藤さんは、明日もあの車両に、居ますか…?」
「あの車両以外、乗るつもりは…ない、」
「よかった、じゃあ明日も逢えますね、」
「ああ、」

ああ、そうだ。
リチャードが、メアリーに恋に落ちた瞬間か。




斜め前の彼女

(忘れ物の届け出を出した方が良いだろうか…)
(あ、本ですか!?同じの持ってますっ、もう読んでしまったので、お詫びに差し上げますよっ)
(………、あんた、)
(ち、違いますっっ!ストーカーとかじゃないですっ!!ただ、あの斎藤さんが読んでたから気になっただけでっ)
(……そうか。別に嫌では、ない故……頼む)
(は、はい、明日持ってきます)


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