晴日は見た景色を土産に、雨の日はからかさを持ち、逢えない日は、心を振り返り、逢えた日は、言葉を贈る。

そんな毎度の繰り返しが、これからも永久に続けばと。
そう願うだけでは、叶ってはくれぬだろうか。


「斎藤さん、すみません!もう間も無く終わりますのでっ、」
「いや、いい。俺の事は案ずるな。焦らずとも…」
「何言ってるんですか、わたしが早く斎藤さんとお話したいのですよ」
「…っ何、を…。あんたは己の仕事をこなせっ、」
「はあい、」


申の刻も間近だと言うのに、相変わらず閑古鳥が鳴いているこの店の雰囲気が俺は気に入っていた。前垂れを腰に巻き付け、俺に小さく頭を下げたなまえから視線を逸らしながらも、己の口元が妙に引き攣っているのを感じばつが悪くなる。

俺の他に二組の客が静かに食事を取る音だけが聞こえる店内。
この店は京の裏路地にひっそりとある、所謂食事処の様な物だが、品書きを見る限り纏まりはない。例えば、うどんの隣りに助惣焼や三食団子が書かれているし、豆腐料理が多種多様にあるかと思えば、どこから仕入れて来ているのか御免関東上酒なども一つの品書きとして、飲食滅茶苦茶に並んでいたりもする。
そして、この何もかもが一拍ずれている店で看板娘の名を欲しい侭にしているのが、なまえだ。
彼女は、なんと言うか、…つまり、俺の恋仲になる。

こうして、暗い路地裏にぽつんとある怪しげな店に足蹴も無く通っている俺は、例にも漏れず本日もこうして彼女に逢う為に、茶と団子を前に静かに働くなまえを視線で追っていた。


「お待たせしましたっ、斎藤さん!」
「もう、いいのか…?まだ人が」
「はい、ご主人が余り色男を待たせてやるなと」
「色、…いや、いい。では今日も…家まで、送る」
「お願いします」


年頃の娘には珍しい短く揃えた髪が揺れ、その頬が嬉しそうに緩む。俺よりも少し低い位置にある大きな瞳が細められると、俺はやはりそれから視線を逸らしてしまう。これは、仕方の無い事だと、前にちゃんと弁明してある故、問題はない。…と思う。
しかし、恋仲になって幾月。未だ手すら握れないでいるのを情けないとは自負している。重ねる様だが、俺はそう言った事柄に関しての経験を持たない故、待っているのか…或いは諦めているのか、何も言ってこないなまえに申し訳ないとは常日頃思っている。


「斎藤さん、今日は時間が早いのでどこかに寄りますか?」
「そうだな、俺も本日は非番だ。時が許すまであんたの行きたい所にでも、」
「たまには斎藤さんの行きたい所でもいいんですよ?」
「俺は、特には、」


仕事上がりの彼女をこうして家まで送るのは、ほぼ日課と言っても過言ではない。

始めは遠慮していたなまえだったが、いつからかそれが当然になり、今では月の殆どを送り迎えという名目で逢い忍んでいた。逢えない日は、例えば俺が炊事当番だったり、巡察等で何かあった日のみだ。
しかし。並んで歩いている俺達は、端から見てどう写っているのだろう。裏通りから表通りに抜ければそこは人で溢れている。ちらりと視線を送ってみても、そこに居る男女達の様に寄り添う訳でもなければ、前を歩く童子の様に楽しそうにも見えない。
巡察の時と同じく背筋を伸ばし前を向き歩いている俺に、遅れない様着いて来るなまえは、それでも文句一つ言わなかったりする。「これではいけない」と、実は毎日そんな事を考えては「今日こそは、」「明日こそは、」などと頭を抱えている事は黙っておきたいところだ。
視線だけで隣を見ると、寒いからか手を擦り合わせて鼻の頭を赤くしたなまえが居て、期せずして頬に熱が集中する。意識せずともその薄い唇に目がいっていた自分に呆れてしまう程に。


「では、少し歩くが河原にでも散歩に行くか、」
「いいですね!嬉しいです」
「あ、ああ…」
「斎藤さん?」
「…………、」


そのあどけない瞳で見上げられると、息が一瞬で詰まる。それは嫌な意味ではなく、勿論溺れている意味で。毎日毎日、迎えに赴き、送り、帰る。それの繰り返しにそろそろ終止符を打とうと決めたのは、いつの事だったか。…間違いなく、ここ最近の話しではない。今日が雨だったら、からかさを理由にもう少し距離を縮められただろうか。
悶々と考えていると、なまえが一度困った様に眉を寄せ、首を傾げた。
俺の悪い癖は、考え事をしだすと相手が居ろうが黙り込んでしまうことだ。「これは駄目だ」と首を振り何か気の利いた話題でもと口を開いた時だった。
もう少しで、曲がり角。


「斎藤さん、手を…繋ぎません、か?」
「…ああ、そうだな。……………は?」
「あの、だ、駄目でしょうか!?ほら!河原に行くにはそこの路地を通るでしょう?此処より…人が居ないので、少し位だったら、いいかなぁ…って、」
「……っ、」


俯き加減で、いつもよりずっと小さな声でそう言われ、俺は思わず足を止めてしまった。振り向かず、同じようにその場に留まったなまえが「だ、駄目ですか?」と続けて呟いた。
俺は、その瞬間己の腹を斬ってしまいたくなった。女子にこの様な事を言わせてしまった事と、こんな事ならもっと早く俺が歩み寄っていればよかったという自責の念。短い髪を垂らし、未だ手を身体の前で擦り合せているらしいなまえの背中が途端に愛しく、可愛らしく見えた。いや、常にそうは思っているのだが、いつもよりずっとだ。


「すまない。あんたに…そんな事を言わせてしまった、」
「い、え…わたし。はしたないですよね、こんな人前で、」
「いや、そんな事はない。俺も、」
「はい?」
「俺もなまえともっと沢山の事を始めていきたいと…そう思っていたのだ。常日頃から、」
「斎、と…さ、」
「だがすまない。今、此処で全て知りたくなってしまった。…そう言えば、あんたはどうする」


気持ち大股でなまえの隣へと歩み寄った俺は、少し手荒にその腕を取るとそのまま指を絡めて引き寄せる。俺の突然の行動に小さく悲鳴を上げたなまえを引っ張り、再び入り込んだ裏路地。薄暗いその空気が、俺の理性を崩すのは至極簡単だった。
民家らしい壁にその背を押し付けると、片方の絡めた手はそのままに、未だ驚いているなまえと身体を向き合わせた。
大きな瞳には、戸惑い気味の俺の顔がぽっかりと映っている。前に左之か誰かが言っていた。本当に好いた女の前では、いつもの顔などあって無い様な物だと。なるほど。確かに今俺は、自分でも見た事の無い顔をしているらしい。
無言で見詰め合っていると、繋いだ手が強く握り返される感覚がして、今度は俺が息を飲む番だった。それと同時にくすりと小さな笑い声。


「斎藤さんが、こんなに強引な一面をお持ちとは、知りませんでした」
「すまない、嫌なら、」
「もう!また女に言わせるんですか!さっき謝ってたくせにっ!」
「そ、そうではなくて!ああ、なまえっ、背中は冷たくは無いか!」
「そうじゃなくて!」
「そ、そうではなくて…。そうではなくて、つまり…」


頭が沸騰しそうだ。と俺は唇を噛んだ。
きっと今日もいつも通りだ。と思っていたが、まさかこんな展開に縺れ込むとは思わなかった。

いや、俺が望んだ。俺が心から望んでいて、そして彼女もこうする事を望んでくれていたのだ。そう思えば、今までうろたえていた頭は一気に晴れ渡り、小さな気恥ずかしさと、それを凌ぐ大きさの愛しさが脳を麻痺させていく。
ゆっくり空いていた手を、もう一つの小さな手の平に絡めて、目を細めた。

初めて合わせた両手は、先程よりずっと温かく感じた。
初めて合わせた唇は、甘く身体が痺れた。


どうしたものか。
これでは、明日からもっと今以上にあんたに近付きたいと、そう思ってしまうではないか。
今以上、とは…。

そこまで考えて止めた。


「嬉しいです、わたし。すごく嬉しい…」
「な、泣くなっ、何故泣くのだ!」
「嬉しくて、ですよ。斎藤さんはもっと女心を勉強するべきですっ、」
「っ……手は尽くすっ、」


こんな事をしている間に、一日は巡り行く。
本日は、繋いだ手をそのままに、二人で河原を歩くとしよう。そして、また明日は今日とは違う新しいなまえを探してみよう。少しは俺も、彼女の手を引き前を歩けるように。

晴日は見た景色を土産に笑顔を貰い、雨の日はからかさを持ち有難うを貰う。
逢えない日は今日を振り返り、逢えた日は明日を贈る。


「では、行くとしよう。あんたに話したい事が山の様にある」
「わたしもあります!うちの店、新しい献立が出来たんですよっ」
「それは、また難儀な話だな…」
「酷いっ、」
「いや、近々食す事になる。聞かせてはくれぬか」
「はいっ!」


そんな毎度の繰り返しが、これからも永久に続けばと


そう思う。



一念天に通ず


(ついでに言うと、名前で呼んでもいいですか…?)
(何…。是非、そうしてくれ、)
(……は、はじめさん、)
(…っ!)
(ああ、はじめさん!そっちは壁ですっ!!!)



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