目が覚めて一番に飛び込んできたのは、いつもスーツに包まれている貴方の胸元だった。
香水なんてつけていないのに、くらりと眩暈がしてしまう位に甘い匂いがしてわたしの思考は停止する。昨晩はカーテンも閉めずに絡み合っていたんだと気付いたのは、翌日朝日を背負ってわたしを見下ろす貴方を見てからだった。逆光で霞むその唇は、わたしを確実に落とした。

「早く支度しねえと、二人揃って遅刻だな、」
「……はい、」
「結構飲んだから流石に頭にくるな…平気か?」
「あの、原田さんは先に行ってください。わたしは化粧に時間が掛かるし、原田さんだって着替えに戻らなくちゃ、」
「…いや、別に」

「待っててやるよ」と優しく言いかけた原田さんとは反対に、わたしの口からは「先に行って下さい」と少し強い声が出た。

昨晩。同じ会社に勤めている原田さんにお食事に誘われて、わたしは二つ返事で頷いた。彼はわたしの二年先輩にあたる。入社当時、何も知らない新人だったわたしの教育担当になった原田さんは、社内でも三本指に入る程の人気者だった。
初めは「軽そう」が彼の第一印象だった。毎日違う女の子と居る所を、何度も目撃していたし…他の人達から聞く彼の噂に、女のわたしが好感を持てる物は何一つ無かった気がする。それを言うと大概の人が「貴女は頭が堅いから…」と口を揃えて言うんだ。

「会社の人に見られると、困りますよ」
「……そうか。そうだよな。わりぃ、気ィ使わせちまったな、」
「いえ、ではまた会社で…」
「ああ。今日もお互いに頑張ろうぜ。無理だけはするなよ、なまえ」
「ありがとうございます」

凭れていたベッドのヘッドボードから背を浮かせた原田さんは、床に乱雑に散らばった服を掬い上げながら髪を掻き上げた。そんな彼の背中から視線を逸らしたわたしは、何とも言えない感情に苛まれて顔を歪めていた。

昨夜、久し振りにお酒を飲んだ。わたしはお酒が余り得意ではない。でも原田さんが進めてくれたお酒は、彼が飲みやすいからと言っていただけあってわたしの喉をスルスルと通っていった。「いつも飲み会、退屈そうだもんなぁ」なんてしみじみと言われてしまったら、それだけでわたしの心は熱を上げた。
そのまま、原田さんに目一杯甘やかされて、ホテルへ向かっている間…わたしは手を引く彼の横顔ばかり見上げていた気がする。
休憩二時間では飽き足らず、そのままわたしの部屋へと雪崩れ込んだ。
そして、平日にも関わらず半ば意識を失うように二人で眠りについたのは朝方だった気がする。

初めて直に触れたその赤髪はとても柔らかく、わたしの肌をなぞって見えない跡を残した。

「忘れてくれて…いいですから、わたし誰にも言いません」
「……そうか、」
「わたしも、忘れます」

玄関で、大き目のTシャツ一枚着込んだわたしは、俯いたままそう言った。きっちりとスーツを着込んだ彼が座って革靴を履いているその背中も見ず、わたしは自分の気持ちに鍵を掛ける事をその場で選んだ。
朝起きて、初めて目線が交差した時に見せてくれた微笑みも見れないまま、扉一枚で関係を清算しようとしているわたし達は…一体何なのだろう。

鞄を手に取って立ち上がった原田さんは小さな声で「女に言わせちまう様じゃ、どうしようもねえな…」とそれだけ呟いて、こちらを振り返る。そして未だ俯いたままのわたしの頭をその大きな手でぽんぽんと撫でて「じゃあな、」と困った様に笑って扉を潜っていった。

これでいいんだ。と、裸足の足を揃えたわたしは暫くの間誰も居なくなった部屋の中で彼の背中を探していた。

そして、今日もいつも通りの一日が始まる。



「原田さん!ここわからないんですけどっ!」
「ん?おお、これは…」
「ずっるーい!私もわからない!教えてくださいっ!」
「おいおい…、お前等真面目にヤル気あんのかぁ?」

いつも通り出勤して、いつも通りに仕事をこなす。朝オフィスに入ってきたわたしを見て、原田さんはいつも通り何事も無かった様に「はよ」とすれ違いついでに頭をぽんと撫でた。いつもだったら、冗談ぽく「やめてくださいよ」と返せるのに、それが出来ないでいるわたしの方が、きっといつも通りじゃないのだろう。
昨日その指でわたしを愛で、笑顔を隠し真剣な表情でわたしを見下ろした彼は、今何を思って笑っているんだろう。

「ありますよっ!原田さん優しいからつい頼っちゃうんですっ!」
「私もっ!ねえ、いいですよね!」
「今回だけだぜ」
「「やったあ!」」

「………………、」

彼のデスクには毎日たくさん女の子が集ってくる。それだけで自分とはまったく違う世界に居るのだと思い知らされて、身体のどこかが痛んだ。でも一体その痛みが何処にあるのかがわたしには解らない。…いや、自分で探す事を放棄して逃げているんだと思う。

寝不足と慣れない飲酒の所為だろうか、何だか気分が悪くてわたしは静かに自分のデスクを離れる。何をしていても昨晩、脳に染み付いて離れない原田さんの表情や声、彼の全てがチラつく。
自分があんな甘い声を出せる事を初めて知った。
自分があんな縋るように、求める事を初めて知った。
そして、そんなわたしを全て受け止める様に回された腕の逞しさも、広い背中も、全部全部まだ心を擽って離してくれない。

「…っ、やだ…、」

フラフラと覚束無い足取りで逃げ込んだのはオフィスとは離れた場所にある給湯室で。今の時間は誰も来ない事を知っていたわたしは、一先ず落ち着こうと静かな空間に身を置いた。音も立てずに締めた扉に、今朝見た背中が浮かんで消えた。

「きっと、遊びだよ。遊び…。何期待しちゃってんのよ、馬鹿を見るのは自分よ…」

わたしだけを見て欲しいだなんて言える関係じゃない。身体を一度重ねた位じゃ、きっと彼に取っての特別な位置には立てないんだろう。

昨日だって凄く自然だった。

「もう少し一緒に居てもいいか…、」と低い声で囁かれて手を引かれてホテルに向かう途中の横顔は少しも、動揺を見せなかったし。抱かれている間も、そう言った言葉は一度も聞こえてこなかった。きっと、慣れているんだ。泣くのは自分。そう思っても、止まらないこの感情は…、いつになったら消えてくれる。

わたしは、原田さんがわからない。
わからないからこそ、



惹かれる。



「なまえ、」


窓に額を預けながら外を見ていたわたしの耳に、昨夜聞いた低い声が届いた。






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