「そこそこ」って凄くいい言葉だと思うんだよ。だって、可もなく不可もなくでしょ?それってつまり人生平々凡々の順風満帆。波乱万丈な人生に憧れたりなんてしないよ。
でも社会人になって、一つ。わたしに取って一番の出来事に出会う。未だに「これって夢?」て頬を抓りたくなるくらいな出来事。

「…やっぱりこれは夢だったんだ。夢なんだうん、ごめんなさい。調子こいてました…」
『違う!少し俺の話を聞けっ』

入社した会社で出会った彼、斎藤さんはオフィス街で知らない者が居ないと言う位イケメンで。更にファンクラブなんぞもあったりする、わたしとじゃまったくと言っていい程に、立っている場所が違う雲の上の人だった。最初は。
ある日、ひょんな事でお酒を飲むようになって…、色々あったけれど…いや、本当に色々あったんだけどね!まあそこは省くとして、付き合う様になった。更に、自慢じゃないけど、婚約までしていたりする。
それがわたしにとっての大事件。そりゃもう、会う度に泡噴く程に嬉しかった。だって、あの仕事も出来てイケメンで、あとイケメンで仕事も出来る斎藤さんが、何の変哲も無いしがないOLのわたしの事を好きだと言ってくれたんだ。今、仕事が出来るにイケメン挟んだだけだけどいいの。今はそれどころじゃないの。

『違うのだ。OLさんが思っている様なものではない』
「でもわたし見たんです。今日…斎藤さんが会社の前で女性と並んで歩いて行くの…」
『あれは、偶然道で会い、』
「…元カノさんと偶然会って…、二人で並んで歩いて行ったじゃ…、あっ、あああああ、これって昼ドラじゃないですかっ!!!!まさに食堂のテレビで流れてる昼ドラと同じ様な展開じゃないですかっ!!わ、わたしは噛ませ犬だったんですかっ!?」
『噛ませっ……まったく、埒が明かんな、』

はあ、と深い溜め息を一つ吐いた斎藤さんの息遣いが携帯越しに聞こえて、わたしは視界にぼやけて映った自分のスカートを握り締める。

事の起こりは今日の終業後。後輩のミスのお陰で残業になってしまい、斎藤さんとの食事を予定していたわたしは、泣く泣くオフィスを出て行く背中に手を振っていた。
ずっとミスをした後輩にチクチク嫌味を言いつつ(八つ当たり)、せめて限界まで斎藤さんの姿を視界に入れたいと食い入る様に窓の外を見ていた。眼下にはいつも既に歩いているだろう歩道が映る。そして暫くして会社の玄関を出て行く既に見慣れた背中。
「嗚呼、斎藤さん…何故貴方は斎藤さん?」なんて意味の解らない事を考えつつ書類を噛んでいると…突然それは起こった。本当に突然だった。

目の前から走ってきた女性が、彼に飛びついたのだ。
いや、飛び蹴りとかじゃなくて、本当にがばあ!ってSEが聞こえてくるんじゃないかって位に勢いよく抱きついてた。
バサバサと持っていた書類が落ちて「どうしたんですか?みょうじ先輩」なんて後輩の間の抜けた声を背後に、わたしはただ茫然とそれを見下ろしていたんだ。
普通、此処で振り払うものじゃない。でも斎藤さんは彼女を抱き留め、その人の肩に手を置きつつ話をしている様だった。見下ろす斎藤さんの顔は見れなかったけれど、斎藤さんを見上げるように顔を上げている女性の表情は見て取れたの。

凄く綺麗な人。頬を真っ赤に染めて、何か話している彼女は凄く…すっっごく嬉しそうで、わたしは何も言えなくなってしまった。これが、もし他人の彼氏に起きた事なら、そのままダッシュでそこまで駆けつけて男の方にアルゼンチン・バックブリーカーをかまして背骨を攻める所なんだけど…。それが自分の彼氏となると、その足は地面に張り付いて一歩も動いてはくれなかった。
何か話した後やっと離れた二人。そして斎藤さんが腕時計を見下ろし、何かを彼女に告げると、花が咲いた様な笑顔がわたしの視界に映った。そのまま駅の方面へと歩き出した二人の背中が何だかよく似合って見えた。

『…そもそも、あんたは俺を信用出来ぬのか』
「そうじゃ、ないです…けど、あんなの見ちゃったら、」
『そうか。俺が何を言おうとも、己の目で見た物以外は信じられぬと…。そう言うのだな』
「っ、」
『ならば…』
「もう、…いいです。お疲れ様でしたっ!」

家の玄関前で佇んでいたわたしの聴覚を通して、斎藤さんの低い声が脳に落ちてきて背筋が震えた。そしてもう何も聞きたくなくて、わたしは弾け飛ぶように携帯の電源ボタンを連打すると、その場から勢いよく踵を返していた。

付き合ってそれこそ色々な斎藤さんを知った。会社では見れなかった彼の内面も沢山知った。そして、見て、期待して、その完璧さにわたしは溺れた。だからこそ、初めて斎藤さんを疑い「違う」と何度も言う彼に、「本当なの?」と繰り返し疑いの言葉を掛けていた。きっと呆れられたんだと思う。だってもう後半怒ってたもの斎藤さん。

斎藤さんとその女性が視界に映らなくなるまで見ていた数時間前のわたし。見えなくなった瞬間零れてきたのは、涙と鼻水と嗚咽だった。驚いて駆け寄って来た後輩にアルゼンチン・バックブリーカーを掛けつつわたしは泣いた。兎に角泣いた。床に落ちた書類に涙が滲もうとも後輩の背骨からおかしな音が聞こえて来ようともそれは止まらず。
何とか仕事だけはしなくてはとパソコンに齧り付くも、気付けばもう辺りは真っ暗。22時も過ぎた頃に今度は後輩の手を借り、仕事を仕上げた。

社会人の辛いところは、どれだけ悲しい事があっても放り出す事が出来ない所だと思う。





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bkm

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