「こんばんは。……ば、ばばば晩酌ですか?斎藤さん」
「……ああ、あんたもどうだ」
「で、でででは、お言葉に甘えて」

お言葉に甘えるとどうなるかは自分が一番解っていた筈なのに、縁側で掛けて一人お酒を飲んでいた斎藤さんを見つけてしまったら、そんな考えは途方の彼方へ飛んでいってしまった。
三番組は明日は非番だと沖田さんが言っていたので、少しだけ…本当に少しだけお逢いできたらなんて思っていた。厠の帰り道、道と言っても見慣れた縁側を足音も立てずに歩いていただけなんだけど。それでも、内庭を見渡す様に腰掛けていたその襟巻きが垂れた背中を見つけた時には、隠して小さく拳を作ってしまったのは内緒だ。

「本日の巡察は早出でしたよね、この時間に斎藤さんが此処に居るのが何だか不思議です」
「ああ、早目に布団に入ったのはいいが、目が冴えてしまって。…時に、あんたは何故…?女子がこんな夜更けにうろつくものでは、」
「あ、あ、そうですよね!それは重々わかっております!しかしですね、深い意味は無いのですがっ!お酒の匂いがしまして、」
「左之が言っていたが…、あんたは酒で釣れる。本当だったのだな」
「釣れる…?えっと、普段あまり贅沢は出来ませんので、ここぞと言う時に飲んでいます。たまに他の幹部の方々もお零れをくださるんですよ」
「そうか…ならばここで振る舞わぬ訳にはいかぬな」

そう言って小さく笑んだ斎藤さんに促されるまま隣りへと腰掛ける。
本当は、お酒の匂いなんかでふらりと現れた訳ではないのだけど、幸いそれには気付かれていないみたいだ。
本日は肌寒いのになんだか斎藤さん側の空気が温かく感じられた。そんな斎藤さんはほんのり頬を赤く染めているのが見て取れて、それと同時に今日は月が明るいんだと気付く。
月が明るい夜は好きだ。何よりお酒が美味しい。そして隣には長年わたしが心寄せをしている斎藤さんがいらっしゃる。この組み合わせは駄目だ。どうしてもにやけてしまう。

今宵は湯浴みの日だったから、解いたままでまだ乾かない髪の毛を手前に流すと、少しでも頬の緩みを知られたくなくて隠しやる。しっとりと触れる髪を梳きながら俯いていると、今まで暫く沈黙していた斎藤さんが、ゆるりと空気を掻き混ぜてこちらを向いた。

「すまない、俺の分のお猪口しかない故。これで勘弁してはくれぬか」
「い…っ!!!!???」

「い、嫌…か?」
「いいいいいえっ!!!!いいのですかっ!?」
「あ、ああ…。今から取りに行ってもいいが、」
「いいですっ!それがいいですっ!その斎藤さん専用のお猪口凄く光り輝いて見えまっ、」

「何…、」
「あ、」



心の声が零れたーーーっっっ!!!!!

斎藤さんが差し出してくれたお猪口に食いつく様に目を走らせ、まるで縋り付くように手を伸ばし…そして、まさに頭がおかしくなったのでは無いかと言われるくらいの大声でそんな事を言ってしまったわたし。
今までふんわりと静かな空気が流れていたこの縁側は、いつか本で見た極寒の北里の様な冷たい物へと変わっていた。わたしの馬鹿。これじゃあ、まるで「斎藤さんが口を付けたお猪口でお酒を飲みたい!」と言っている様なものじゃないか。

気付いたところで、時は既に遅し。
顔を青褪めゆっくりと上げると、背後にぽっかりと月を背負い、わたしを見下ろしている斎藤さんが居て。その表情は奇しくも逆光でぼんやりとしか伺えなかった。しかし、見なくても解る。「は?」だもん。その「は?」の声音だけで解る。


明らかに、引かれている。



「ご、ごめんなさい。わたし、その…ごめんなさい。ちょっと持病の癪が酷いので部屋に戻りますね…ははは、」
「待、」
「いやあ、斎藤さん。今日は月が綺麗ですね。月見酒楽しんでください、おやすみなさいっ!!!」
「待て、OLさんっ」

その場を立ち去ろうと立ち上がった時、左腕をぐっと強い力で掴まれて、わたしの身体はその場で足踏みをしてしまった。
それに気付いた時には既に反動で、わたしの身体が後ろに傾いていて。
斎藤さんがわたしの名前を呼んでくださった。とか、斎藤さんに腕を掴まれている。とか。そう言ったもの全てがわたしを包んで、簡単に腰から力を抜き去ってしまった。
ふらりと、視界が揺れてそのまま抗うことも出来ぬまま、わたしは後ろへ掴まれていない方の手を付いた。


そこは、斎藤さんの膝の上で。


「何故、逃げる」
「に、逃げます…。逃げちゃいます、こんな…」

わたしを後ろから抱きかかえる様な濃密な姿勢のまま、耳元でそう囁かれてわたしの腰はさらに力を失っていく。掛かる吐息交じりの言葉の奥には、どこか獣の様な強さを孕み、わたしの神経を伝って全身を駆け巡っている。なんだこれは。
これが…あの新選組の中でも兵揃いだと言われる三番組を颯爽と率い、普段から堅くて超然とした志を背負う彼と同一人物なのかと思う程に、甘い声が聞こえた気がする。
わたしは、断酒をしすぎて幻聴まで聞こえているのだろうか。

「ああして見事な月が浮かんでいるのだ。共に酒を飲みたいと願い出た男に恥をかかすつもりか…あんたは、」
「恥だ、なんて…。わたしの方こそ、あんな…は、はしたない事を、」
「はしたないなど…。俺とて何も想わぬ訳では……無い」

するりとわたしの手首から、右手を退かした斎藤さんは背後で何か大袈裟な動作の後再び背中に胸を付けた。どきどきと心臓が跳ねる度、彼の胸を叩いてしまっているのではないかと気が気ではないけれど、それと同時に、先程まで薄っすらと感じていた温かさが、ずっと近くにある事が何より嬉しかった。




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