「…だったら、やめちまえばいい」
「は?」

夕日が差し込む教室は、わたしにとって一日の中で一番静かで落ち着く場所。
一番集中できる時間だし、どう言う訳か授業中に解けなかった問題が解けたりするなんて事もあったりする。まるでいつも使っているシャープペンに魔法がかかったみたいにスラスラと問題が解けたりする。…なんて、こんな事を考える辺りわたしは相当参っているみたいだ。

大学受験に。ああ、なんだか不吉な幻聴まで聞こえてしまった…。どうしよう。今日は帰ったら直ぐに寝ようかな。

「お前は成績はいい方だろう、それでも嫌だってんならやめちまえ」
「うわ、幻聴じゃなかった。…ねぇ本気で言ってるんですか?」
「本気だろうが本気じゃなかろうが、俺には何の問題もねえ、好きにすればいいだろうが」
「わー、なんでこんな人が教師になれたんだろー」
「は、そんなもん、俺が聞きてえくらいだ」

問題集からゆっくりと顔を上げると、教室の前…教員用の机に座りペラペラと何か分厚い本を捲りながら眉間に皺を寄せている人物がひとり。先程の幻聴はこの男と同じ声をしていた。

ゆらゆらと黒い革靴を揺らしているスーツの人物が、椅子に腰掛けたまま下を向き、ゆっくり瞬きをしている。

その光景は別に珍しいものじゃない。オレンジ色に染まった教室に、こうしてふたりで居る事は、週に何回かありうる事なのだ。
さらさらの黒髪が夕日に飲み込まれて凄く綺麗だと何度思ったことだろう。真っ直ぐ見据えた先に居るその人は、わたしのクラスの担任の先生です。…その見た目はテレビで見るそこらの芸能人なんかよりずっと綺麗だと思う。前にそう言ってみたら、凄く嫌そうな顔で頭を小突かれたんだけど。
そして、同じ教室に居る彼はこちらを見ることもしないで、ただ本を捲っている。

「…ねえ土方先生、」
「あ?」
「わたし、志望大学受かりますかね?」
「……なんだよ。結局やる気あんじゃねえか」
「そりゃ、あんなの冗談に決まってるでしょう。この歳になって両親泣かせたりできません」
「はは、保守的だな」
「…それって年寄りくさいって遠まわしに言ってます…?」
「いや、」

長い脚を組んで椅子の背もたれに寄りかかる様に本を読んでいる土方先生は、薄く目を細めて小さく笑っている。いつも授業をしている時のみに掛けているハーフフレームの眼鏡は、そのイケメン具合を一層際立たせていて、少し離れている筈なのにわたしにとっては凄く目に毒だった。今までそこに在った筈の集中力が、今いっきに夕焼けの彼方へと飛んでいってしまった。しかも土方先生は小さく笑っただけで、可愛い生徒の真面目な問いに関しての返答はくれないときたもんだ。
再び沈黙が戻ってきて、外から聞こえる運動部の掛け声だけが小さく響いている。もう少ししたら一気に空が沈む。わたしはこの時間が一番好きだ。
オレンジから真っ赤な赤に変わって、段々紫から黒に変わるその空を見れたら学校を出る。
そうなる前に、この頁だけは片付けたいところなんだけど、いかんせんセンターを終えて前期試験を二月に控えて、ついに大詰め。その事がずっと頭のどこかにあって、漠然とした不安に襲われる事が増えてきた。

「あーあ、ほんっと、先生の言うとおり…やーめた!って言えちゃえば楽なんですけどねぇ」
「…好きにしやがれ」
「またそう言う事言う。可愛い生徒が悩んでるんですよ?もう少し親身になって考えてくれてもいいんじゃないですか、」
「じゃあなんだ。俺が“みょうじ、お前は俺の生徒だ。お前は成績もよくて優秀な高校生活を送ってきたから問題ない。だから受かるさ自分を信じろ”……とか言ったらお前は満足なのか?」
「うわ、棒読みなのも相まってすっごく胡散臭かったです、」
「だろ」

そこでやっと顔を上げわたしを見た土方先生は、自分で言っていて可笑しかったのかくつくつと笑いながらもう一ページ本を捲った。今までに見た事も無い先生の棒読み具合に思わず鳥肌が立ってしまったわたしは、小さく身震いしながらも再び問題集に齧り付く。
そうだ、こういう人だった…。
何度もこうして教室でふたりの時間を過ごしてみて気付いたのは、土方先生はみんなが言う程熱血教師じゃない。いや、普段みんなが居る前では結構熱血。同じクラスの沖田君が何か悪戯をしようモノなら授業中だろうが大きな声を上げながら何処まででも追いかけていくし、休憩時間だろうが放課後だろうが、生徒の質問に丁寧に答えている姿を見た事がある。
なのに。…なのにだ。
わたしにはこうなのだ。「先生、これわからない」「だったら後ろの解説読めばいいじゃねえか」とか「先生、この志望校なんですが、」「同じとこ志望してる奴に聞けばいいじゃねえか」とか。これ、先生わたしの事嫌いなんじゃね?って位に適当。最初はわたしもちょっと傷ついてたりしたんだけど、それでもこうして毎回の様に教室で独り勉強していると、ふらりとやってくる。その内気にしなくなっていたわたしも、相当だろう。

「今の時代、いい大学行った所で…未来なんて明るいとは言えませんもんね、」
「わかってんじゃねえか、」
「だからこそ、ここで挫ける訳には行かないんですよ」
「それだけ理解してりゃ、お前は大丈夫だよ」
「…そんなもんですかね、」

だからこそ、さっきまで愚痴の様に零していたのが「受験やめたい」だ。


そしてその言葉に返ってきた担任の先生のありがたいお言葉が、冒頭の「だったら、やめちまえばいい」だった。
そりゃ、幻聴だとも思いたくなりますよ。受験に向けて不安に駆られている生徒にそんな返しをする教師なんて、世界中探してもきっと土方先生以外に居ないと思う。
これが原田先生だったら、優しく頭を撫でて「応援してるから、諦めずに頑張れよ」なんて言ってくれるだろう。永倉先生だったら…ああ、凄く暑苦しそう。でも何だかんだで勇気付けてくれると思うの。
あーあ。わたしも下らない事先生に愚痴ってないで、さっさとこの問題を…

「なあ、みょうじ」
「え?はい、」

はあ、と一つ溜め息を付いて問題に目を向けたところで、前から小さくわたしの名前を呼ぶ声が聞こえる。素直に顔を上げると、眼鏡を外した土方先生がじっとこちらを見ていた。
そこで気づいたのは、もう外は紫色で。「ああ、帰らなくちゃいけない時間だ…やだな、」なんて、何故か寂しく感じた。

「さっき言った事は別に適当に受け流したわけでもねえし、お前の進学に関心がないわけでもねえ」
「…はあ、まあもしそうだったら、明日から不登校になる所ですけどね」
「いいから最後まで聞け」
「はい、」

そして土方先生は、ちらりと一度だけ窓の外を見て立ち上がる。
一体なんだというのだろう。わたしは思わずシャープペンを握ったままで、ゆっくり此方に歩いてくる土方先生を視線だけで追っていた。こつこつと教室無いに響く革靴の音が、わたしの心臓を早くさせた。

「こんな事言ったら、来年度から受験生受け持てなくなりそうなんだが…」
「?」
「まあ、気楽にいけよ。やってみてダメだったらそれでいいじゃねえか」
「は、はあ、」
「道は一つだけじゃねえ。お前は肩に力入れすぎてんだよ、」

突然何を言い出すんだ。と思わず手に持っていたペンを机に転がしてしまった。
同時に頭の上に乗った大きな手の平に、ゆっくり髪を梳かれる感覚。思わず目を閉じてしまったけれど、それに被せるように今度は瞼に手の平が置かれる。
まるで目隠しをされる様に、頭から降りてきた土方先生の手に先程早くなった心臓は、また一層その速度を増した。

そして、耳元に、小さな息遣い。


「それに…、お前なら意地でもやり遂げるだろうが。大丈夫だ。俺が保証してやる」
「あ、」




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