「はじめ?」
「っ、」
「どうしたの…?なんだかボーっとしてるね、」
「…いや、」


わたしとはじめの、ふたりの時間。
参考書やノート、筆箱にシャープペンシル、それと消しゴム…
あと、わたし達の手の平。
くっ付けた机の上にある物で、お互いに知らない物なんてない。
それは今まで共にいた時間で増えたり減ったり、もう覚えていない物だってきっとある。
人生、大体80年生きるとすると一生は700,800時間になると誰かが言っていた。
そして今この時間はその700,800時間のどの辺りになるんだろう。考えた所できっと実感なんて沸かないから、わたしはやっぱり何も言えないまま彼が告げる「また明日」を拠り所に生きていくんだろう。

もし、明日がこなかったら。
わたしは、どうするんだろう。見っとも無く泣いたりするんだろうか。

はじめが、見ていた窓の外に小さな背中を見つけて思う。
世界にわたしとはじめだけになればいいのい。と。
そうすれば、誰かに塗り替えられるなんて事、ありえないんだから。


「はじめ、あのね…、今日帰りに付きあって欲しい場所があるんだけれど、」
「この時間にか。俺は構わぬが…、」
「よかった…。じゃあこの問題解いたら学校出よっか」
「……ああ、」


掛けていた眼鏡を静かに外すと、わたしと顔も合わさずそれを眼鏡ケースに収めていくはじめを見ながら、わたしは静かに笑っていた。右半分を隠す様に垂れた少し癖のある髪の毛が柔らかいことだって、わたしは知ってるの。ずっと前から、知ってる。

わたしとはじめが出会ったのは、高校に入学してから間も無くだった。
風紀委員になったはじめが、わたしの生徒手帳を拾ったのを切っ掛けに話す様になった。引っ込み思案で人見知りなわたしの目を真っ直ぐ見て「人と話す時は目を見ろ。上手く言葉に成らずとも、きっと伝わる」と、わたしの背中を押してくれた人。
隣のクラスだった事もあって、移動教室や体育の授業で、何かと接点があったわたし達だったけれど、まさかはじめがわたしに告白をしてくれるとは思ってなかった。

一年生だけでは無く、上級生からも人気があったはじめは、わたしの目を真っ直ぐ見て「好きだ」と、そう言ってくれた。

三年生になった今、たくさん忘れてしまった事もあるけれど、それでもその告白だけは今でも鮮明に思い出せる。
あの時、泣きそうなわたしの手を握り「大切にする。あんたの今日から時間を、俺と共に過ごしてはくれぬだろうか、」と真っ赤になって言ったはじめは、わたしの返事を聞いて自分が泣きそうな顔になっていた事を、今も知らないんだろうか。

そして、いつも学校が終わってからはじめの部活が無い日は、こうして教室に残り受験勉強をする日々。
正確には剣道部が近々大会前らしく、実質、既に引退しているはじめは今日開かれているらしいミーティングには参加しない。だから、こうして逢って貰っている。
真面目なはじめらしい共通の時間。わたしはそれが大好きだった。余談だけれど、実際にはじめと付き合いだしてから、わたしの成績はぐんぐん伸びたし。
関わった人、物、全てをプラスに引っ張り込む力が彼にはあるんだと、そう思う。マイナス面しか目立たなかったわたしを、この場所まで引っ張り上げてくれた人。大切な、人。


「なまえ、今日は冷える。これを、」
「え、あ…。ありがとう、」


問題を解き終わり帰り支度を始めると、ふわりと首元に温かい物が触れる。
それはいつもはじめが愛用しているマフラーで、わたしが去年のクリスマスに編んだ物。いつも完璧なはじめに、少しでも認められたくて、隣りに居させて欲しくて半年以上掛けて編んだ物。これも、忘れられない物の一つ。


「行くか、」
「はい、」


でも、忘れられていく物だって、
もう片方が覚えている場合は忘れた事にならないんじゃないかな。
ずっと捕われて、溺れて、最後には壊れてしまう。

きっと何を言っているか解らないでしょう。でも、空いた右手は覚えてる。
はじめの左手の体温を今でも鮮明に覚えていて、そして望んでる。
いつからだろう。はじめが手を繋いでくれなくなったのは…。そうだ、今年の夏からだ。あの子が、マネージャーになったあの夏からだ。


「凄く、寒いね、はじめは大丈夫?マフラー、借りてていいの?」
「コートを着ている故さして問題ない。なまえこそいつも言っているだろう。せめて手袋くらいは嵌めてこいと…」
「ふふ、いいの。だって…はじめと一緒に居られるのなら寒さなんて感じない、」
「………そうか、」


昇降口を並んで出て正門へ向かって歩き出す。吐く息は白くて、遠まわしに「ぬくもりをください」なんて気持ちを含めた決死の台詞は、簡潔な言葉と共に白く薄暗い空へと昇っていく。既に星達が薄っすらと空を埋めようとしているのを見上げて、わたしはそっと唇を結んだ。
はじめの背中を、いつからこんなに遠くに感じていたんだろう。

ああ、だめだ。
本当は忘れたくなんてない。忘れて欲しくなんて無い。
ねぇ、はじめ。わたしが霞んでいっちゃうよ?明日が来なくなっちゃうよ。




「あ、斎藤先輩っ!…、みょうじ先輩も、こんにちは!」
「千鶴ちゃん、こんにちは」
「雪村、どうした。何故戻ってきた、」


正門をもう少しで潜ろうとした所で、前から走ってきた可愛い後輩に出会う。
少し前を歩いていたはじめの姿を見つけた千鶴ちゃんは、パッと花が咲いた様な笑顔で足を速めた。でも、追いついたわたしを見つけた時、その笑顔は少し曇ったのをわたしは見逃さなかった。
彼女ははじめが所属している剣道部のマネージャだ。もう、三年生は受験の為、部活は引退しているのだけれど、はじめやお友達の沖田くん達レギュラー陣は、未だに部活動を行っている。

わたしは、全てを知っていて知らないフリ。
気付いちゃだめだと。自分に言い聞かせていた。


「あ、えっと。道場に忘れ物をしてしまって、まだ土方先生居るかなって、あはは」
「土方先生なら、先程職員室へ歩いて行くのを見かけた、まだ残っているだろう」
「よかった!先輩達は今帰りですか?お疲れ様ですっ!」
「千鶴ちゃんも、遅くまでお疲れさま」
「ありがとう、ございます!みょうじ先輩。では私はこれで、」

「雪村、」


ねえ、待って。はじめ。


「は、はい?」
「なまえすまない。用事は明日でも大事無いか?」
「…え、えっと、」


じっと千鶴ちゃんを見下ろしていたはじめが、わたしの方を向きそう告げる。
思わず膝が震えてしまった。一気に血液が下がって、自分の体温を感じなくなる。はじめに貸して貰ったマフラーも、手を繋ぎたくて仕方がないと宙をうろついていた手の平も、全てが意味を無くして、わたしの知らない物になる。


「さ、斎藤先輩!い、いいですよっ私一人で、」
「今から忘れ物を取りに行って帰っている様では暗くなり危険だろう、」
「でも、それを言ったらみょうじ先輩だって、」

「わたしはっ、」


千鶴ちゃんの言葉を遮る様に言葉を吐く。本当にまるで吐いているかの様に喉の奥を開いたら、大きな声が出てしまった。驚いた様に手を胸の前で結んだ千鶴ちゃんと、未だ表情も崩さずにわたしを見つめるはじめが並んで見えた。
「どうして戻ってきた」なんて、そんなの一度この門を潜っていった彼女を見ていないと出ない台詞なんだよ。



知ってる?





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