「……………、」
「水が跳ねるぞ…」

お揃いで買った箸を水切りに差した所で、突然俺の腰に何かが抱きついてきた。振り返らずともわかる。今この空間には二人しかいないのだから。
いつの間にか風呂から上がったらしいなまえが、髪も濡らしたまま無言で俺にしがみ付いていた。
こうしてみるとまるで年上とは思えないが…俺がどれだけ追い付きたいと思ってもそこだけは変わらぬのだ。

「はじめ、わたしだって…寂しいよ、」
「…だって?其れだと俺が寂しがっている様に聞こえるが」
「違うの?」
「…………、」

蛇口を閉めタオルで手を拭くと、そこで俺はやっと振り返る。じとりと見下ろすと、化粧を落とし顔の派手さが少し取れあどけない瞳が俺を見上げている。

お互いに黙り込んだから、辺りから音は消え冷蔵庫が氷を作る機会音だけが嫌にはっきり聞こえてきた。

「何故、そう思う」
「だって…いつも帰ってくるとテレビも点いてないし、本を読んだり何かしてたりする形跡が見当たらないんだもん、」
「…特にしたいと思う物が無いだけだ、」
「だから、寂しいんでしょ?」
「…は?」

一体何を言っているのだ。
したい事が無いからしない。それとどうやったら「寂しい」が結び付くのだと俺は眉を下げた。

「まだはじめが実家に居て自分がここに一人で住んでた時、はじめとの時間が楽しすぎて一人の時間をどう過ごせばいいのか分からなくなっちゃってたの。その時のわたしとしてる事が似てる。わたしも寂しさ紛らわせるのに苦労したから…」

そう笑った彼女の髪から、足元にぽたりと雫が垂れた音が聞こえた。

「テレビを見てても頭に入らなくて、つまんなくて…はじめの声が聞きたくてしょうがなくて。音楽聴いても、本を読んでも、何をしても時間が長く感じて…」
「…………ああ、」
「甘えたくて甘えたくてしょうが無くなるの、」

そう続けた彼女の声は、数時間前ずっと聞きたくて仕方が無かった音そのものだった。

俺よりずっと大人で、余裕もあって、金も自立もあるなまえから意外な言葉が出てきた。毎日仕事が忙しく疲れているのか余り甘えても来なかったから、それが大人の余裕なのだと俺は勝手に思っていたのだが、どうやら…。


「俺が我儘を言い出すと、困るのはあんただが…」
「いいよ、もっと一杯言ってよ。早く帰って来いー!とか、週末に飲み会行くなー!とか。はじめの頼みだったらわたし喜んで聞いちゃう」
「そこまでは………いや、そうだな。ならば一つだけ、」
「なあに?」


どう足掻いても追い付けないと言うのならば、俺は飛び越えればいいのか。
今俺に出来る事は、いつもの様に朝食と弁当を作り、毎朝慌てて家を飛び出していく彼女を見送り、いつも通り大学で勉強をし、スーパーでなまえが喜びそうな献立を考え、家に帰り彼女を迎える支度をする。

そして、いつか…意外にも大手らしいなまえと同じ会社に入り、そのハゲていると言う上司の席を俺の物にしてしまえばいいのだ。言うだけはタダなのだろう?まだ…。


「遅くなると知らせるメールを、電話にしてはくれぬか…?」
「…え!?そ、それだけ?」
「ああ、少しでもあんたの声を聞ければ、俺はゲームもテレビもオーディオも要らん。独りの時間などあっと言う間に過ぎる」


頬に張り付いた濡れ髪を指で優しく払うと、そのまま小さく口付けを落とした。


「いつか、なまえと同じ時間を共有する日が来るまで、今は目一杯…その独りの苦労とやらを堪能しようと思う、」
「はじめ、」
「生きてきた時間は追い付けぬが、共に過ごす月日はこれからも同じだろう」
「うん!!!」


だから、こうして一緒に居る間は、日々の苦労など忘れて
音を…あんたのその居心地のいい音を、

俺に聞かせて欲しいのだ。






惚れて通えば千里も一里

(だが、いつも思って居たが…残業とは勤務時間内に仕事を終わらせられなかった者がするのでは…)
(ぎくぅ!!!)
(…まさかあんたは、上司の所為にして己の仕事の遅さを…)
(ち、違う!本当に忙しくてっっ!)
(つまり、あそこで素直に早く帰れと言った所で叶わぬ願いだったと言う訳か、)
(うう、精進します…)




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bkm

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