「あ、あんたっ!何を、」
「あ、あ、す、すみませんっ!思わずっっ!本当にすみませんっ!!」

謝罪の言葉を述べながら繰り返し頭を下げる目の前の女に、俺は大きな声を上げていた。突然腕を引っ張り、ホームに連れ出され、挙句に読みかけの本は電車と共に走り去っていく。鞄を落とさなかったのは不幸中の幸いだろうか。少し乱れたネクタイとスーツを直しながら、茫然と立ち尽くすしか出来ない。
未だ顔を上げない彼女に痺れを切らし「何故あの様な事を、」と切り出すと、ぎゅうと目を閉じながら上を指差した彼女。それを辿り見上げると、

「降りる、…駅だったか、」
「は、はい…。今日はいつまで経っても、動かなかったので、思わず、」
「…すまない。少し考え事をしていた。乗り過ごす所だった…。礼を言う」
「は、はいっ!あの…でも、本が、」
「…いや、本はいい。また買い直せば済む事だ、気にするな」

なんだか可笑しな感覚だった。
今まで毎日顔を合わせていたが、言葉を交わすのはこれが初めてになる。
視線こそ合ってはいたが、それは一瞬の事で…こうしてまじまじとお互いの顔を見合うのも初めてだ。
近くで見ると、やはり綺麗な肌をしていた。赤みをさした頬はやはり同じだが、余程慌てたのだろう、小さく息を切らしている。それを見ると、俺から自然と笑みが漏れた。

「あんたは、意外に声が高い」
「え」
「いや、毎朝あんたを見かけてはいたが、声を聞くのはこれが初めてだからな」
「…っ〜〜〜〜〜!!!???ぶ、あ、わわ、っえ!?」
「どうした、」

両手を高く上げ、宙を掴むように振り回す彼女を良く見ると、掲げられた彼女の鞄から同じオフィス街にある社名の入った封筒が覗いていた。そうか、なるほど。とそこで、やはり俺の感は当たっていた様だと少し嬉しくなった。これで大学生などと言われたら、肩を落とす所だった。

「あの、わたし…あなたの事、ずっと、み、見てましたっ」
「……知っているが、」
「え!?嘘っ!?こっそり見てたのにっ」
「全然隠れてなどおらぬ…。俺は全身にあんたの視線を感じていた。毎朝毎朝、良く飽きぬなと、」
「…っ、ううう、」

がくりと、頭を落とした彼女のつむじを見て、くつくつと笑ってしまう。色々な表情をこの数分で見せてくれた彼女に、少しばかり親近感が沸いていた俺は、腕時計をちらりと見下ろし「改札へ」と足を動かす。それに遅れて着いてくる気配を感じながら、聞こえるくらいの声で名を名乗った。

「俺は、斎藤。斎藤一と言う。あんたの名前を教えてくれ」
「え、は、はいっ!!!あのわたし、わたしは、なんだっけ、」
「あんたは…、自分の名前すら忘れるのか、」
「あ!みょうじ!みょうじなまえですっ!!!なまえっ!」
「何度も言わずとも、聞こえる。少し落ち着け」

「笑わないでくださいっ、こ、混乱してるんですっ、だって…」
「…?」

「だって…っ、」

着いて来ていたヒールの音が止んで言葉が止まる。
何事かと後ろを振り向くと、階段の一番上の段で立ち止ったままの彼女は、先程よりずっと赤い顔をして両手で顔を覆っていた。

そして、一段上に片脚を掛けたまま見上げた俺は、次の瞬間思わず息を飲んだ。


「ずっと、ずっと前から、好きだったんです、あなたのこと…」
「…………、っ」

ゆっくりと覗く、その照れた表情がとても可愛らしくて、
そして、

綺麗だと、思った。

もっと、彼女を知りたいと、
先程読んでいた物語よりずっと、ずっとその先を頭が欲しがっていた。

「ならば…。と、取り合えず。共に、会社まで歩こう…」
「は、はい…」

初めて並べた肩は、緊張して力が入っていた。
どうして俺はこんなに脈が速いのか、確かこんな描写が先程電車に乗って旅立っていった本に記載されていた気がする。なんだったか、たしか…

「斎藤さんは、明日もあの車両に、居ますか…?」
「あの車両以外、乗るつもりは…ない、」
「よかった、じゃあ明日も逢えますね、」
「ああ、」

ああ、そうだ。
リチャードが、メアリーに恋に落ちた瞬間か。




斜め前の彼女

(忘れ物の届け出を出した方が良いだろうか…)
(あ、本ですか!?同じの持ってますっ、もう読んでしまったので、お詫びに差し上げますよっ)
(………、あんた、)
(ち、違いますっっ!ストーカーとかじゃないですっ!!ただ、あの斎藤さんが読んでたから気になっただけでっ)
(……そうか。別に嫌では、ない故……頼む)
(は、はい、明日持ってきます)




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bkm

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