いつもより足早に歩くヒールの音が響くは、土曜日の午後23時(くらい)の供用廊下。
携帯の電池はいつの間にか空になっていて、普段から腕時計を装備しないわたしは、時間の確認もできず「どうしようどうしよう」と繰り返しながら我が家に急いでいた。

今日は何年ぶりかの同窓会だった。
いつもの土曜日と言えば、愛しの旦那様がお休みだから二人でこれでもかって位にくっついて過ごす。だけれど、数ヶ月前に送られて来た同窓会の葉書と睨めっこをしていたわたしに、旦那様は優しく微笑み「たまには行って来ればいいだろう」と背を押してくれたし、当日である今朝でも「折角の機会だ。楽しんで来い」と快く送り出してくれた。

なのに楽しみ過ぎてのこの時間。電車を降りた時、駅にあった電光掲示板を見て青褪めたのは言うまでもない。
まったく…「早く帰りますね!」と言った今朝のわたしをこのままどこかに沈めてしまおうか。

そんな優しい旦那様は本当に出来た方で、妻のわたしが言うのもなんですけど兎に角完璧なんです。いつもいつもいの一番にわたしの事を考え気遣ってくれたり、わたしに至らない所もある筈なのに何も言わず見守り…そして一緒に居てくれる。
それなのにわたしは!!!久し振りの友人との再会に浮かれて旦那様を放ったらかしにした上、こんな遅い時間に帰宅するなんて!!ばかっ!わたしの馬鹿!不良妻!!!

「はじめさん…怒ってるかなぁ、」

はじめさんと言うのは、わたしの愛しの旦那様の名前。
とても真面目で物静かな方なんだけど、実は熱い情熱を持っていたり、好きな事になるとまるで子供みたいなきらきらした瞳で止まらない可愛い一面も持っていたりする。わたしはこんな完璧な旦那様が怒っている所を一度も見た事がないんです。お付き合いしている時から今までずーっと…。

やっと辿り着いた家の扉の前で一度ごくりと喉を鳴らすと、ゆっくりと玄関の鍵を開ける。かちゃりと静かに扉を開けると、リビングダイニングの方から漏れた光りが、うっすらと廊下を照らしていた。

「た、ただいま帰りましたー…、」

こんな小さな声はきっと彼が居る部屋まで届かないと思うけれど、罪悪感からか元気に「ただいま」と言えなかった。
びくびくと肩を竦ませ、お酒が入り少し熱くなった頬をぺちんと叩くと、玄関マットの上に鎮座しているわたし専用のスリッパに足を通す。
そのまま静かに奥へと進むと、いつもこの時間はソファに座ってテレビを見ているか本を読んでいるかしている旦那様の横顔を想像して、何て謝ろうかとただ只管頭の中で言葉を捜していたわたし。

でも。


「は、はじめさーん…?」
「………お帰り」
「はい、遅くなりました…すみませ、ん」
「………ああ、もうこんな時間か」

驚いた。
いつもは続き部屋であるリビングのソファに居る筈のはじめさんは珍しく、ダイニングテーブルの定位置に座り静かにお酒を飲んでいた。
あ、あれ…なんですか、その言葉の前にある微妙な間は…。

それに、

「あ、あの…物凄い量の空き缶が転がってますが、」
「冷蔵庫にあったから飲んだまでだが、何か不味かっただろうか」
「イ、イエ…ベツニ、」

ちらりと時計を見上げたはじめさんはそう無表情で言った後、再びごくりと喉を鳴らしてビールを煽った。いつもは味わう為なのか、お気に入りのグラスに注いでから飲んでいるのに今日は直飲みだ。…直飲みなのだ。

「お、怒ってますよね…はじめさん」
「……何故怒らねばならぬ。あんたが楽めたのならそれでいいではないか」
「ひ、ひぃっ!」

ベキョと音を立てて空になったらしいビール缶が無残にも変形し、再びテーブルに転がる。お、おおおおお怒ってらっしゃる!これは怒ってらっしゃいますね!!!冷えてます!いつも温かく笑いが耐えない我が斎藤家に未だかつて感じた事の無いひんやりとした空気が流れていますっ!どうしましょう!!!

取り合えず内扉を開けた所で止まっていた足を動かして、室内に滑り込むと更に驚く事になる。

「あ、あれ…、はじめさん、カップラーメン食べました…?」
「…ああ、」
「珍しいですね、いつもはあまり好んで食べないのに、」
「…………、」

流し台の隣りに放置(これも珍しい)してあるわたしお気に入りのカップラーメンの容器。一応綺麗に洗って分別までされていたけれど、流しの中にはその時に使ったらしいグラスと彼のお箸が水につけられたままわたしを見上げていた。
以前家を空けた時は、ちゃんと一人でもご飯を作って洗い物もしてくれていたんだけど…。
いそいそと椅子に鞄を下ろして、せめて洗い物はしようと腕まくりをしたわたしは、無言でお酒を飲み続けている旦那様のぴりぴりした視線を背にスポンジを手に取った。


「……………、」
「……………、」

終始無言で、お湯の流れる音とはじめさんがぐび、とビールを飲む音が響く室内。
いよいよわたしの頭は『どうやってご立腹らしい旦那様の機嫌を取るか』を凄い勢いで考え出し、ぶわっと冷や汗を滲じませ、いつもだったらものの数十秒で済む筈の洗い物をたっぷり時間を掛けて処理しつつ間を持たせ動いていた。

普段優しいはじめさんだからこそこの沈黙が何より恐ろしい。浮かれていたわたしの大馬鹿者ぉ…。

「ひゃぁっ!?」

その時だった。
突然、腰からお尻に掛けて何か違和感を感じ、スポンジを持ったまま身体を跳ねさせてしまった。勢い良く振り返ると、いつの間にか冷蔵庫の前で新しいビールを手にしたはじめさんが居た。その横顔は酒の所為で真っ赤になっていて、空き缶を数えずとも相当の本数を飲んでいるのだと理解する。…と、言うか、今のは気のせいですか?お尻触られた気がしたんですが…???

「は、はじめさん?」
「何だ、」
「い、いえ…」
「はやく済ませてしまわぬと、いつまで経っても寝れぬぞ」

ゆっくりとした動作で再び椅子に戻ろうとするはじめさんは、やっぱりいつもより低い声音で、擦れ気味なそれは所々呂律が回っていない。
首を傾げながらも再びスポンジに洗剤を付け最後のグラスを手に取る。そうだ、はじめさんを待たせているんだから早く終わらせてしまおう。そして寝る前にもう一度きちんと謝ろう。それしかない!

ガシャガシャと在らぬ音を立てグラスを洗っていると、今度ははっきりと背中に気配を感じた。それも束の間、するりと熱いモノが服の間から滑り込んできて、わたしの素肌を撫で上げた。






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bkm

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