「みょうじさんっていつも傘持ってるよね」

そんな事を言われるのは、別に珍しい事じゃない。
それこそ今まで生きてきた中で数えたら、両手じゃ足りないくらいには。「う…うん、わたし…雨とどうにも縁があって、」なんて笑って言うけど、返ってくる返事はいつも同じ。…つまりこう言う事。

「ああ、雨女なんだ…」

だからなんなのだろう。それの何処が悪いんだろう。
幼稚園から大学までの入学式、卒業式は全日雨だった。遠足や郊外学習、イベント毎にも雨。雨、雨、あめ。
天気予報のお姉さんが「明日は晴れまーす!」なんて言っても、わたしが何かする度に雨になる。小さい頃からそんな事は散々言われてきた。

廊下で一人、目の前に散らばった鞄の中身を一つずつ拾い集めながら、溜め息を付いていた。
人にぶつかってごめんなさいの一つも言えない人よりかは、雨女の方が全然いいじゃない…。先程ぶつかってきた同じ学部の派手な女の子は、散らばったわたしの荷物の中にあった傘を見下ろして「傘がお似合いね」と、そう言った後笑いながら去って言った。
学校に来るなりこれなんて、今日はついていない。今日は午後一で授業が終わるから、帰りに本屋さんに寄ってお気に入りの静かなカフェに寄って、のんびり家路に着こうとしていたのに。何だか、

気分が沈んでしまう…。


「大丈夫か、」
「っ!?」

俯き鞄の持ち手をぎゅと握り締めていた時だった。
突然目の前から差し出されたのは、わたしがいつも常備している薄い桜色に水玉のプリントがされている折り畳み傘だった。
声を掛けられた事に驚いてしまいビクリと身体を弾ませ顔を上げると、そこには長く垂れた前髪から、じっとわたしを見据えている斎藤くんが水玉の折り畳み傘を持ってしゃがんでいた。

「あ、さ、斎藤くん…」
「…落ちた物はこれで全部だろうか」
「あ、は、はいっ!」
「怪我はなさそうだな。もう講義が始まる。あんたも早目に席に着け」
「はい…」

いつまで経っても受け取ろうとしないわたしにそう告げると、拾ってくれた折り畳み傘がわたしの鞄の中へと差し込まれた。す、と目線を伏せた斎藤くんはそのまま何事もなかったみたいに立ち上がり、そのまま教室へと入っていく。
それをじっと目で追っていたわたしは、どきどきと煩い心臓と手に滲む汗を感じて、ごくりと喉を鳴らしていた。

ありがとうも言えなかった。

彼…斎藤はじめ君は、わたしと同じ学部であり同じ選択科目を何個か受けている。
とても物静かで、話している時間よりじっと勉強している姿の方がよく見られる、とても勤勉で真面目な人。頭も良くて、わたしがいつも見ていたのは背筋ばかりで。
それは毎日真っ直ぐ天井に伸びていて、その瞳はあまり間近で見た事がなかったけれど、今交わった視線の先には…


とても深い青空が映っていた。

「…綺麗だった、」

話すのは初めてだった。
ずっと同じ講義を聴いていたけれど、ああして会話をするのは今が本当に初めての事。会話って言うか、わたし「はい」しか言えてなかったけれど。
それでも、ずっと密かに憧れていた斎藤くんとお話できた事がわたしに取っては大事件だった。ぶつかられた事なんて一気に空の彼方へ飛んで行ってしまう程に。
どうしよう「ありがとう」…って言いたい。
ゆっくりと腰を上げて、やっと全てが元通りになった鞄を肩から掛けるとわたしも斎藤くんが先ほど入って行った教室へと足を進める。

廊下にある窓から見える空は、何だか今にも泣き出しそうな色をしていた。




「結局、言えなかったなぁ、」

午前中の講義を全て終えたわたしは、あれから直ぐに泣き出してしまった空を見上げて本日何度目かの溜め息をついていた。
まったくもってついていない。声を掛けて貰ったまでは良かったのに…なんでわたしはいつもこうなんだろう。好きな相手を前にして上手く話せない上に、笑顔も作れない。照れるとかだったらまだ可愛げもあったんだろうけど…そんな可愛くなんて振舞えない。根っからの引っ込み思案だから、斎藤くんだってわたしなんかの名前も知らないと思うの。だから、今更改めて「ありがとう」なんて言えない。

とぼとぼと、構内のエントランスホールを歩いているとそこら中で「傘忘れた!」「今日は降らないって言ってたくせに!」なんて声を沢山耳にした。
敷地内にあるコンビニにはここから少し離れているから、そこまで走って行く人達を見ながらわたしは自分の鞄を開けてそれを手に取った。

朝、これを差し出してくれた斎藤くんの澄んだ空色の瞳が脳裏に過ぎった。


「…あれ、」

ふと視線を移動させると、雨が打ち付けてまるで滝の様になっているガラス張りの窓をじっと見上げている伸びた背中を見つけた。
皆と同じ様に鞄を手に灰色の空を見上げているその人は、他の人みたいに騒ぐ訳でも、雨の中外へ走っていく訳でも無く、本当にじっと空へと視線を向けていた。何をしてるんだろう…斎藤君は。

彼の姿を見つけた途端、どきどきと主張を始めた心臓を心の中で叱咤しながらわたしはそっと並びに移動する。横目でちらりと伺ってみると、困っているのか怒っているのかよく分からない表情で溜め息を付いている斎藤くん。

あ。傘が無いんだ…。

そこで気付いて、一人納得して頷いていると…自分の手の中にある傘に突然意識を持っていかれる。


良かったら、駅まで入っていきませんか。


頭に思い浮かんだのは、わたしが言葉にするには余りにも大逸れていて。
直ぐに「無理だよ」と自分で否定をした。
ふるふると首を振ると、自分の意気地の無さが嫌になった。雨に好かれたわたしは、太陽みたいになれない。斎藤くんは太陽と言うより、お月様や風みたいなイメージだけど、やっぱりそれはどれだけ手を伸ばしても届かない場所にあるものなんだ。

雨が嫌いなわけじゃない。
でも、青い空に憧れる。

ぎゅ、と目を閉じるとやっぱりわたしの身体は斎藤くんから逃げる様に反転した。このまま一人で帰ろう。それが一番安全だ。ごめんなさい、こんな人間でごめんなさい。これじゃあ、朝ぶつかって来て「ごめんなさい」も言わなかったあの子の事言えないじゃない。

じわ、と意味の解らない目尻に浮いた熱を隠す様に一歩踏み出した時だった。
背後から、少し癖のある綺麗な声が掛けられた。






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