玄関を潜ってハイヒールを足の動きだけで脱ぎ捨て、上着も同時に脱ぎ捨てると、バッグもその場で手から滑り落としたわたしは、一直線で廊下を歩きリビングの扉を開ける。まだ真っ暗なその部屋の匂いを嗅いだ時初めて一息零れたのは、きっと今日一日の疲労の塊だ。

電気も付けずにそのままソファで横になると、朝から開けっぱなしだっただろうカーテンが、風に揺られて視界の隅に映りこんだ。



「もうほんっっと…疲れた、」

こうして言葉にして言ってしまえば少しは軽くなるから我慢をするな、と言われてからソレを一人の時にだけ実行しているわたしは、化粧が移ってしまうのも気にする余裕も無くクッションに顔を埋める。
その案を出された時に「えー、独り言とかやだよ。もっと欝になりそう」なんて、今は軽い言葉として扱われてしまっている例えをして鼻で笑って見せた。それを見た彼は、少し眉間に皺を寄せて黙っていたけれど、それ以上は何も言ってこなかったからきっと呆れていたんだと思う。そこで可愛くなれないのは、わたしの性格なんだから仕方が無いと思うの。

「何で先輩が時間内に出来なかった仕事をわたしがやらなきゃいけないのよぉ…、それで文句言われても理不尽としか言えないじゃん!やる事やってるのにどうしてわたしが…もう会社なんて辞めてやるーーー!そして思い知れぇえええ!土下座しろーー!倍返しだー!」

きっと社会人にもなれば、誰しもが同じ様な事で理不尽な虐げを受けてきているのは知ってる。だからわたしに限ったことじゃないし、誰に文句を言えばいいのかも分からない。でも、聞いてくれる相手なんて要らないし、居たとしても絶対に言いたくない。言った所で、愚痴なんて聞いて楽しむ人なんて居ない。だから言わない。
それが上手な立ち回り方なんだって思ってるわたしは、こうして誰も居ない部屋で独り言を吐き出すしか出来ないんだ。

埃が立つのもお構い無しに、ジタバタと両足を弾ませるとソファの肘置きの部分で脛を思い切りぶつけてしまった。痛さも、悔しさも、疲労も、怒りも、全部声に出して消せることが出来ればいいのに!…なんて痛みに悶えながらも、ストッキングで覆われた脛を擦って必死にのた打ち回るしかできない。加えるなら涙目で。無様過ぎだよわたし…っ!

…こんな姿見られる訳には行かない。
彼にだけは!絶対にっ!



ピンポーン



「っっ!!!」

突然、静かな室内に響き渡ったインターフォンの音。
そしてすぐさまガチャガチャと鍵を開けようとしている音が続けて聞こえてくる。ヤバイ。もうそんな時間になっていたのかと、身体を勢い良く起こすとまだぶつけた痛みで熱くなっている脛を庇いながら、ソファを飛び降りた。
リビングの扉の横に付けられている照明スイッチに手を伸ばすと、一瞬の閃光と共に部屋の中が煌々と照らされた。良かった。彼が訪問時にインターフォンを押すのを常にしていて本当に良かった。
盛大に溜め息を吐き、気持ちを落ち着けると同時。ガチャリと玄関扉が開く音がする。

「なまえすまない、遅くな………、何だこれは、」

どうやら廊下とリビングを仕切る内扉が半開きだったらしく、明日はお互いに休みだからと、会う予定を取り付けてた人物…はじめの声が、未だ動けずに居たわたしの耳に僅かに聞こえてきた。
合鍵を渡してあるから勝手に入ってこればいいのに。どうして律儀にインターフォンを押すんだか、と毎度思っていたけれど、今だけははじめのその性格に感謝しなくちゃいけない。わたしは冷静を装うと、ゆっくりお出迎えをしようと歩を進めた。

「いらっしゃい、遅かったね」
「なまえ、前にも言ったが脱ぎっ放し、置きっ放しは行儀が悪い」
「行儀って…、小学生じゃないんだから」
「小学生でも、それなりに思慮分別と言うものがあると思うが…」
「はいはい、すみませんでしたぁ〜」

覗いた時には、わたしの放り出した鬱憤(上着とか)を手にしたはじめの姿が目の前にあった。きっと玄関を見れば、散らばったハイヒールは綺麗に揃えられているんだろう。几帳面な彼がやりそうな事だ。
仕事からそのままの足で来たのが分かるスーツ姿のはじめは、やっぱり眉間に皺を寄せて恐い顔をしていた。でもわたしは知ってる、コレくらいじゃ全然怒ってないし、ただ呆れているだけ。怒るともっと目だって釣り上がるし、まず声がこんなにも高くない。

「今、帰ってきたのか?」
「あー、うん。ちょっと残業」
「そうか、言われた通り食事は済ませて来たが、なまえは」
「…食べた、よ」
「後で、何か作る」
「……………、」

嘘がコンマ五秒程度で見抜かれた事にもだけど、そのわたしを気遣うはじめの優しさに思わず唇を噛みそうになった。
二つ違うだけで、ほぼ同じ位の年数を生きているのに、どうしてはじめはわたしよりずっと大人なんだろう。こんな言い方や考え方しか出来ないわたしと、どうして一緒に居てくれるんだろう。
差し出された荷物を受け取り、スーツの上着を脱ぎながらソファへと移動するはじめの背中をじっと見詰めているわたしはどんな顔をしてるかな。
本当は今直ぐその背中に飛びついて目一杯泣いてしまいたい。悔しさだって受け止めて貰えるのなら受け止めて貰いたいと叫んでいるのに、この場所にわたしを留まらせているのは一体なんて名前の感情だ。意地とか、可愛気とかじゃなくて。もっと。こう…。

ギッ、とソファの音がして我に返ると、こちらを見上げ両手を広げているはじめが居た。

「な、何…?」
「何だと思う」
「え?え?」

わたしが一人で座ったところで大して変化しないそのソファは、はじめの体重でいとも簡単に大きく撓って。それだけで、彼が男の人なんだと気付かされる。
広げられている両腕だって、わたしの腕とはまったく違う。そのぽっかりとわたしを招いている様に見える胸だって、とっても広い。

「わ、わかんない。何、恥ずかしいよ…」
「恥ずかしい?何故。誰も見て居ないだろう」
「そうじゃなくて…」
「では、何だ。こうしてお前を招き入れ様と両手を広げている俺を恥ずかしいと思うのか?」

そう嫌味の様な言葉が聞こえてくるけれど、その声音はとても繊細で。穏やかに微笑んでいるはじめが、少し楽しそうに映る。自分の頭は暗く沈んでいるのに、少しだけその瞳に釣られて笑ってしまいそうになった。
「そうでもない」と戸惑いがちに返事をすると、「だったら早く来い」と言わんばかりにはじめは腕の角度を上げて見せた。

むー、と口元を歪ませながら一歩近付くと、少し腕が疲れたのか片手だけそのままにして、左手でネクタイを解く彼。その仕草一つ一つにきゅんと着ているなんて、きっと本人は知らないと思う。だって言ってないから。…どうしても言えないから。
言わなかったら、伝わる訳がないから。

はらりと音も無く、ネクタイがラグの上でとぐろを巻いた。







前頁 次頁

bkm

戻る

戻る