「斎藤くん、じゃあお願いするよ」
「はい。お疲れ様でした」
「じゃあ、お先に」

上司に下げていた頭を上げるとそのまま右手に嵌めている腕時計を見下ろす。
今日は久し振りになまえと予定していた金曜日の就業時間外だ。既に時計の針は約束の時間まであと十五分と迫っていた。しかし今し方帰っていった上司に、書類の纏め作業を頼まれ帰るに帰れない状況に陥っていた。
今週一週間内になまえと十分な繋がりは望めなかった。それどころか、電話は出ない、メールは返って来ない。返って来たとしても夜中の寝ている時間帯で、それに朝一番に返事をするも、やはりそれに対するメールが返って来た時にはまた深夜帯に食い込むと事の繰り返しだった。「あんたは一体何をやっているのだ」と言いそうになる口を結んで平然を装う俺は、少しこの関係に限界を感じていたのかもしれない。
己のデスクに腰を降ろすとそのまま作業画面と向かい合う。誰も居なくなったオフィスはとても静かで、家では考えない様にしていた物がどこからか溢れ出し俺の脳を犯す。

このまま終わらせてしまえば、これ程考えなくても良くなるだろうか。
なまえと別れてまた一人になれば、楽に…なれるのだろうか。

これ程に自分が恋愛に執着し、追い込まれている事自体が

「…煩わしいのだ、」

デスクの傍らに置いてあったスマートフォンにメール着信のランプが点ったのが視界の隅に映り、それを置いたまま指でスライドする。
そのボックスに並んだ名前を見るだけで、心が痛む。顔を顰めてしまいそうになる、今直ぐ仕事も放り出して、その身体に飛び込みたくなる。

俺は、こんなにも…。

『早く着いちゃった、はじめはもう電車かな?最寄駅で待ってるね』

俺が余り目に痛い物が好きじゃないのを知っているからか、顔文字も絵文字もないシンプルなメールが飛び込んできて、思わず電話帳を開きそうになった。
しかしそれと同じくらい、身体に広がるのは「疲労感」
考える事に疲れ切っているらしい俺の身体は、ハッキリしない思考である結論を叩き出した。

恐らく、なまえも俺より優先する事が出来たのだろう。
気まずい故に、言い出せないのだろう。
本当は、煩わしく思っているのだろう。

「…なまえ、」

沢山言いたい事や聞きたい事があった筈だが、俺の口から出た音は愛しい者の名前。
そして、震える指が拙い操作で作成したのは、「別れよう、お互いにそれがいい」と言う、冷たい文字の羅列だった。

俺はその返事を見たく等無くて、そのまま電源を切り足元にあるビジネスバッグにそれを捻じ込み封をした。
もう此れで考えなくて、いいのだ。ずっと収まらない頭痛が一層重く俺を殴りつけた気がしたが、それにも知らないフリをし、仕事に取り掛かった。



「もう、日が変わるのか…」

それから仕事を終え会社を出た時には既に電車もあと数本と言う時間になっていた。
この頃暖かくなってきたとは言え、朝夜は冷え込む故春物のコートでは少し肌寒かった。重い足と、先程よりずっと痛む頭は進む事も考える事も止めず、ただ真っ直ぐ前へと進んでいく。その先には何も無いのに。それでも、止る事をしなかったのは、別れを切り出した己を正当化する為だったのかもしれぬ。
帰る時鞄の中で、電源を入れないまま沈黙を守る携帯機器を手に取ったがそのまま何をするでも無くポケットへと仕舞い込んだ。

進むにつれ近付く『最寄り駅』
本日の待ち合わせ場所だった。

俺はなまえが俺と居る事で幸せを感じてくれたらそれだけで生まれてきて良かったと思えるまでに彼女を愛していた。己の全てで欲していたのだ。しかし、今まで感じた事も無い感情を知った頭は、それを失う事を恐れ臆病になり、知る前にいっその事…とその想いを手離した。


しかし、


「……何故、っ」


しかし。


「…なまえ、」


滲む視界に映るのは、待ち合わせ場所に一人で佇むなまえの姿を映していた。






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bkm

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