背中に滲む冷や汗を誤魔化す様に、口元を上げると思ってもいない言葉が絶えず溢れては車内に飛んでいった。

「でも、いいなぁー!飲み会!わたしまだ子供だからお酒飲めないし、きっと楽しいんだろうなぁ」
「……………、」
「ずっと一緒に居るなんて無理な話だよね、ちょっとだけ期待しちゃったよ。あはは、馬鹿だなぁ、わたし」
「…………、」

空しく響くわたしの笑い声にも何の反応も見せない斎藤さんは、やっぱり難しい顔をしたまま何も言わなかった。
段々わたしの笑い声も小さくなっていき、先程堪えた筈の何かが込み上げてくる感覚。

再び黙ってしまったわたしの耳に、この時小さくお気に入りのバンドの曲が入ってきた。


「ならば、あんたの言う様に…何時も自分だけを見てくれる者を探せばいいだろう」
「え、」
「俺では役不足だと言うのだろう。それは俺とて思っている、いつも待たせてばかりの俺より…誰かあんたの隣りにいつも居てくれる男を捜せば、」
「…っ!」

息の仕方を忘れた。

頭が真っ白になって、身体の奥、ずっとずっと深い場所にあるモノを思い切り貫かれた感覚がした。
こちらも見ずに淡々と話す斎藤さんの顔はいつもと微量さの違いだが冷たいまま、そうわたしに告げた。いつの間にか運転席側の窓が開いていて、外から入り込む風が斎藤さんの前髪を揺らしその表情を隠したのを、わたしはじっと固まったまま見ていた。


「…わかりました、そうします」
「…は、」

でも、身体だけは動いていて手は助手席のインナーハンドルへと伸びていた。
別に死にたい訳じゃない。ただ、ついに零れた涙を見られたくなくて、今すぐこの場から居なくなりたくて、斎藤さんの言葉をそれ以上聞きたくなくて。

でも次の瞬間、大きなブレーキの音とタイヤが地面を擦る音と、すっかりして居る事を忘れていたシートベルトが大きく軋む音がわたしに届いた。


「なまえっ!!」
「やだ、っ、もういい!歩いて帰るから降ろしてくださいっ!」
「何を言っている!?少し落ち着けっ!」
「わたしは、まだ子供だから!大人な斎藤さんの言ってる事が正しくてもっ、それでもまだ追いつけないんですっ!どれだけ、想っても……、」

おいつけないんです。

崩れる様に頭を下げると、目の前に広がるのはこの日の為に買ったワンピースの鮮やかなオレンジで。絶えず降って来る雫がその色を濃く染めていく。
最後の言葉はもう声になったのか、ならなかったのか自分でも分からなかったし、わたしの肩を掴んで居る斎藤さんが一体どんな表情でわたしを見ているのか分からない。
ここは幸い車通りの少ない道路だったらしく、道のど真ん中にあるのは急ブレーキをかけた斎藤さんの愛車だけ。

これじゃあ、本当に駄々を捏ねる子供だ。
ボロボロと泣きながらただそこに居るだけのわたしと居るより、飲み会の方が楽しいに決まってる。


「…どうして、そうすると言った」
「…っえ、?」
「あんたは此れしきの喧嘩一つで他の男に鞍替えが出来るのか?」
「…なっ!?」

再び降って来た声は、いつもより感情が篭められていて思わず顔を上げてしまった。貴方がそう言ったんじゃない!と悲しいより怒りが先に来てしまって、涙でぐちゃぐちゃなのも構わず運転席側を見上げると、

今度は、怒気を孕んだ声とは裏腹にそこにあった表情に、頭が真っ白になる番だった。

「……すまない。俺とてなまえとの時間は足りぬ。どうして今日なのだと、俺も、」
「………」


慌てた様な、悲しそうな、必死な様な。
そんなよく分からない顔をした大人がそこに居た。


「分かって貰えると俺も構えていた故、あんたが怒っている理由が分からず苛立ってしまった…本当にすまない」
「…だからって、」
「ああ、あれは…流石に言い過ぎた、だがっ!あんたもあんただ!」
「え!?」
「そもそも俺が他の男を探せと言ったらあんたは探すのか!?ならば俺が無理無体な要求をすればあんたはそれに従うのか!?」
「は、はぁあっ!?」

珍しく声を張り上げてわたしに言葉を浴びせる斎藤さんの顔は、今まで見た事も無い位崩れていてまるで普段の落ち着きが無い。
そう例えば、不祥事を起こした政治家とかが報道陣に詰め寄られて慌てふためいた末、逆ギレするみたいな…。そんな、感じで…。

「大体それに関しては俺だってあんたに言いたい事が山の様にあるのだっ!この間だって電話した時間が遅く家に居るのだろうと思っていたらまだ外だと言っていたではないか!」
「ちょ、それいつの話ですか!?だからもう門限無くなったって言ったじゃないですかっ!」
「門限が無くなった途端夜遊びかっ!俺が共に居るなら未だしも…どれだけ俺が、我慢をしていたと思っ……っ!」
「…え、」

斎藤さんが、そこまで言ってビクリと肩を強張らせたのが見えた。
いつの間にかわたしの涙は止まっていて、二人見合ったままポカンと口を開けていた。
再び静かになった車内には、顔を赤くした斎藤さんがまた真っ直ぐ身体を直し、俯いたままサイドにあるメインスイッチを操作し助手席のドアをロックした音が響いた。
「少し話しをしよう」とそれだけ告げた斎藤さんは、静かに車を走らせると暫くして見つけた路地に車を止めた。


「仕事ばかり忙しく、なまえを構ってやれなかった事は謝ろう。すまなかった」
「……はい、」
「だが、これも俺のやらなくては成らぬ事柄なのだ」
「分かっているつもりでした…」

いつの間にか辺りは真っ暗。
先程斎藤さんの携帯が鳴ってから既に二時間は経過していると思う。それでもわたしの心は「鳴らないで」と願い、ずっと恐れている。
取り乱していたわたしも斎藤さんもやっと落ち着いて、静寂の中静かに話を始めた。

「毎日早朝に起き、電車に乗り、仕事へ向う。そして一日パソコンと向き合い、上に頭を下げ、仕事を終えると、くたくたになって帰宅する」
「…………、」
「それが今まで当然の様にこなして来た俺なりの“大人の日常”だった」
「うん、」

いつも仕事が終りわたしに真っ先に電話をくれる斎藤さんの声はやっぱり疲れているし、だからこそ逢いたいなんて言えなかった。

「だが…あんたが、なまえがそんな俺の支えになった」
「…!」
「毎日過ぎる何の変哲も無い日常に、安らぎをくれた」
「わたし、子供だよ…」
「そう言えば、俺が付き合うと言った時も同じ顔で同じ事を聞いてきたな、」
「…だって、あんな事で取り乱して、困らせて…」

わたしがまた泣きそうな顔をして俯くと、斎藤さんはいつもくれる優しい顔で握りっぱなしだったハンドルを離した左手でわたしの頭をフワリと撫でた。

「あんたに取っては、“あんな事”では無かったのだろう…?」
「…っ、うん、」
「すまなかった。俺も、思わずとは言え…泣かせてしまったな」
「わ、わたし頑張るっ!ちゃんと大人に近づける様に頑張るっ!此れっきり斎藤さん困らせたりしないよ!」
「…………、いや、」

頭に置いてあった左手を降ろし、わたしのシートベルトをカチリと外した斎藤さんは自分はベルトをしたまま此方に身体を倒して、また泣き出しそうなわたしを優しく抱き締めてくれた。
ぽんぽんとまるで子供をあやす様に背中を撫でられると、緊張していた身体が一気に解けていくんだから、やっぱりわたしはまだまだ子供だ。

「…あんたの泣き顔も可愛らしい故、これからも喧嘩は必要だと思った」
「ええ!?」
「言いたい事があれば言えばいい。俺は俺のままでなまえの考えを聞こうと思う。ちゃんと向き合いそして育てていけば良い」


そして斎藤さんはわたしの目尻に唇をひとつ落として、ぽつりと溜め息交じりにごちた。


「子供と大人の境界線など……目には見えん。それが少し嬉しくも有り、寂しくも感じるな」


と。




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