「…それで?何かな、この腰に回ってる腕は」
「いや、俺もこの体制で来られるとは思わなかった」
「じゃ、じゃあ離してっ!」

何故か吸い込まれる様にその腕の中に納まったわたしは、はじめの膝の上に跨るように身体を向き合っていた。間髪入れず、するりと腰に巻きついてきた両腕を制止する様に触れるけれど、がっちり掴まえられていて身動きすらまま成らなくなってしまった。
据わる瞬間少し目が見開かれたのはその所為か…。くそぉ、何で普通に隣りに据わらなかったの。と考えて、はじめがど真ん中に座ったからだと人の所為にする。

服越しでもはじめの体温は難なくわたしの身体に沁みて、思わず肩の力が抜けていくのが分かった。

「…何があった」
「何の話かわかんない」
「…わけがないだろう。玄関に点々と荷物が落ちている時は、大抵理由がある」

「知らなかったのか?」と得意気にそう言うはじめの顔は、やっぱり楽しそうに見える。
いつもだったら少しはじめの方が上気味な視線も、今は逆転してわたしが見下ろす形になっていた。だからどうと言う訳でも無いけれど、こうして慣れない景色がわたしの心をざわつかせるスイッチになっている事も事実だ。この見上げられる強い眼差しに、今のわたしはどう接して良いのか分かりかねているんだ。
初めて真っ直ぐ見た時は、綺麗な色だと思った。それこそ、光化学スモッグで汚染された都会の空よりずっと。

何も応えられなくなって喉を鳴らすと、少し強い力で引き寄せられて反射的にはじめの肩に手を添える。顔が更に近くなった事で心臓は壊れそうな位に跳ねていて、体温が一気に上昇する。

「こうすると、随分前髪が伸びた気がするな」
「はじめ程じゃないよ…、社会人がその頭でいいと思ってるの?」
「ああ、何か言われない限りこのままだろうな」
「はじめらしくない…」
「その点、女性は好きに出来る。良い事ではないか」

彼の頬に落ちたわたしの前髪。その一房を擽ったそうに掬い上げたはじめは、くすくすと珍しく鼻を鳴らして笑っている。何がそんなに面白いんだろうかとは思いつつも、わたしの意識は腕が回されたままの腰に集中している。もう片方の腕は離れているから、振り解こうとすれば簡単に出来そうだと思うのに、どうしてかしようとしない。

それどころか、このままはじめに今日感じた「悔しさ」とか「空しさ」だとかを、全てぶつけて楽になりたがろうとしているわたしが居て。

「ご飯、作ってくれるんじゃないの…?」
「それより先にする事があるだろう」
「…お腹減って倒れそう」
「………、本当に倒れてしまいそうだな。今日のなまえは…」
「っ、」

ゆっくり瞬きをしたはじめが、そのままわたしの頬を包む。その流れで、さり気無く垂れ落ちた髪の毛を耳に掛けられて、視界が開けると楽しそうな瞳が少し揺れている事に気が付いた。
いつもだったらテレビが点いているのに、今日は帰ってから何も触っていない部屋の中は少し肌寒くて…静かで…居心地がいい。はじめの声だけがわたしを包んで、さっきまで痛かった脛だって今は何とも感じない。
ただ、目の前の優しさや気遣いを真っ直ぐ受け取って、心が温かくなる。

「く、空腹程度で倒れる訳ないじゃないっ!」
「なまえ」
「何っ!わたしは本当にっ、」
「今なら、受け止めるが」

受け止めて見せる。そう笑って。
今度は隙間も無くなる位に抱き寄せられて、そのままわたしの身体はすっぽりとはじめの腕の中へと収まってしまった。
いつもは触れる程度の包み方だけれど、今日は違う。本当に身体全部ではじめを感じられる距離にわたしは居る。お陰で顔はお互いに見えなくなったけれど、その代わりに心が丸見えになっている気がして、わたしの涙腺はゆっくりと…それでも確実に溶けていくのを、自分の頬で感じていた。
ぽたりぽたりとはじめの肩に沁みていく物は、呼吸をする度に量を増してワイシャツを濡らしていく。

情けない。
あんな事で、泣いてしまうなんて。

そう思っているのに、背中に回った大きな手の平が優しく上下するもんだから、ついには感情さえも溢れ出して、わたしは何も考えず、涙に便乗して言葉を次から次へと吐き出していた。

「…っ、何でわたしがこんな落ち込まなきゃいけないのよっ、…っ、な、何でわたしがはじめの前で泣かなきゃいけないのっ!?」
「迷惑等と思った事は無いが?」
「でも、駄目なのっ、だめなのぉっ!わたしはもっとしっかりしなくちゃいけないのっ!負けてられないのっ!」
「あんたは、普段から何の勝負をしているのだ」
「完璧なはじめにはわかんないよっ!」

これはある意味八つ当たりと言うものなんだけれど、悲しい気持ちだけじゃなく怒りも馬鹿みたいに溢れてくるから、止められない。わたしが見っとも無く取り乱している傍ら、背中を擦ったり、頭を撫でたり、髪を梳いてみたりと、はじめの手の平は止る事なく動いている。それが嬉しくて、申し訳なくて、更に涙が零れ落ちる。

落ち込んだときに上手く甘えられないわたしは、このままじゃ本当にいつか倒れてしまいそうになるまで、追い詰められていたらしい。


「完璧などこの世には存在してはいないだろう。かく言う俺も…なまえは完璧な人間だと思っていた口だが、やっとそうでない場所に来れた様だ」
「…っ、意味が、分からないよ、はじめっ、」
「分からずとも良い。気が済むまでこうして居る」
「っ、ふぇ…っ」
「…そうだな。例えば、鬱憤を全て吐き出しあんたが泣けば…それを口実に触れる事が出来るだろう」
「…ばかっ、」

そんな事を考えていたのか。この男は。
だからそんなに楽しそうだったのか。

いつものわたしだったら、性格に任せて怒って拗ねて困らせる事しか出来ないのに、今日はどうしてかそのまま再び肩口へと降りてきた手の平をはね付けることもせずに、素直に身体を預け、従っていた。
そっと力を入れられ身体が離れる。泣き顔を見られるのが大嫌いな筈だったのに、今直ぐはじめのまっすぐな瞳に捉えられたくて仕方が無かった。

かちりと合った視線が、わたしに「甘えていいよ」なんて言っている様に近付いてくる。


「弱っているなまえが見たいのだ…これは恐らく、俺の甘えなのだろうな…」



唇を重ねる瞬間。そんな完璧じゃないはじめの言葉が、目に沁みた。

慰めて欲しくて泣いたんじゃない。
哀れんで欲しくて泣いた訳でもない。

同意が欲しくて、吐いたんじゃない。
会社に殴りこみに行って欲しくて、聞かせた訳でもない。


「今日は、いっぱい…はじめに…あ、甘えたい……です、」
「では、まず腹を満たそう。その後手を繋いでコンビニに行き、なまえの好きな牛乳プリンでも食べながら、とことん付き合って貰うとしよう。全て受け止める故、」
「うんっ、」


ただ、

受け取って貰いたかったんだ。





在りのままのわたしを、


(しかし服を脱ぐなら部屋に戻ってからにしろ、ハンガーに掛けきちんとクローゼットに納めるべきだ。お前の事だ…俺と逢わぬ日も同じ事をしているだろう)
(わ、わかったわよっ!次からそうする!)
(ハイヒールにも傷が付く故、脱ぐなら静かに脱げ。力任せに振り脱ぐ物では無い)
(っ、だから…!)
(それか、)
(へ?)

(次からは平日だろうが、逢う予定が無かろうが、嫌な事があった日は俺を呼べばいい。飛んで行こう)



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