「おい、みょうじ!」
「…はい?」
「はい?って…お前、帰って早々旅行ボケか?何かあったら知らせてくれつってんだよ。些細な事でも構わねぇ、この二日どうだった?」
「…意外にも、その…良く気を使ってくださり、居心地も良く思いました、が…」
「………何の話をしてやがんだお前…。俺が聞いてんのは修学旅行のルートの話だ」
「え?あっっ!!!な、っなななな何事もありませんでしたよっ!?至って問題ありませんっ!最初に渡された三つのルートどれも時間内に行動可能でしたし、強いて言えばお土産買う為の自由行動を長くしたらあの店もいけたなぁとか思った位でっ!」

わたしが意識を取り戻し、慌ててそう告げると「ほう、なるほど」と手元の紙に何やらサラサラと書き込んでいく土方先生。
その隣りに先程まで居たはずの斎藤先生の姿は無くて、安堵したのと、職場でなんて事を考えているんだと自分を心の中で叱咤する。未だ頭を支配しているのは、たった一人の人物の事で。

「まぁ、近くなったらまた最終決定の為の職員会議があるから、それまでに言える事は言っとけよ」と肩を叩いた土方先生は、冷静を装い必死に足を踏ん張っているわたしを一度見下ろし、今度は何やら怪訝な視線を飛ばしてくる。それに目を泳がせている時点で、わたしはきっと馬鹿正直の部類に入るんだろう。じっと見詰められ、思わず身体を仰け反ってしまったのは、きっと頭を支配する浮かれて、公私混同の呪縛から逃れる術を知りえていない自分の所為だ。そうに違いない。

「お前…何か、あったろ」
「な、何か、とは…?」
「…斎藤」
「っっ!」

ガタンと辺りに響いた大きな音は、わたしが背後にある椅子に腰を盛大にぶつけた音だ。
わたしに聞こえるか聞こえないか程度の声量で彼の名前を出すもんだから、過剰に反応してしまった上に、頬に熱が集中するのが分かる。慌てて取り繕っても、目の前で肩を揺らして笑いを堪えている土方先生の楽しそうな横顔を見ると、どうにも上手くいってくれない。「まぁ…良い事だ、じゃあな。帰っていいぞ」と、プリントを片手に職員室を出て行った背中を見て、一気に肩を落とし溜め息を吐いた。

「あれぇ?斎藤先生どこ行った?」
「ああ、さっき情報室行くって言ってたぞ。帰って早々仕事とは…流石斎藤だな」
「へー、んじゃ明日でいっか。オレ部室覗きに行ってくる」
「おーう、行ってこい」

背後でそんな、藤堂先生と原田先生が交わす会話が聞こえ、わたしはぎゅうと拳を握り締めていた。



あの時もう一度「…好きだ」と、繰り返した斎藤先生はビールの所為か分からないけれど、頬を染め俯きがちに言った後、すぐさま部屋を出て行った。
固まったまま動けなくなってしまったわたしはスッピンも相俟って、とんでも無く間抜けな顔をしていたと思う。
いつも見るスーツやワイシャツ姿ではなくシックな服を纏った斎藤先生は、普段学校で見る彼より少しばかり幼く見えて心臓が煩かったのを思い出す。告白して置いて、返事も聞かず出て行った彼は、次の日の朝にはいつも通りスーツを着込んで、いつも通りの涼しい顔でロビーに立っていた。帰りの新幹線だって、普段通り仕事の話しかしなかったし、彼が口にする事は「生徒の為にどうすれば快適かつ安全に過ごせるか…」そればかりだったと思う。
案の定寝れなくて、寝不足だったわたしはきっと中身の無い返事を返してしまっていたかもしれない。でも、一人で気にしてこんなのも取り乱しているのに、どうして斎藤先生はそんな何事も無かったかの様にしているんですか。と思わず問い質してしまいそうにもなった。

「…からかわれたなんて事は、」と此処まで考えて、絶対に無いとすぐさま結論付けられる位に、彼は真面目な人だったから。



「…………」

あの後、特に仕事をしなくちゃいけなかった訳でもないけれど、折角学校に寄ったんだからとプリントを整理していたわたしの頭の中は、ずっとグルグルと回っていた。
それはもう、一世一代の大決断かの如く。何か他事をしていれば、気が楽になるかもしれないと思ったんだけれど、それは違って。端的な仕事をすればする程、逆に考え込んでしまう。
既に外は陽がとっぷり暮れて、職員室の窓から見える空はいい感じに赤と紫のグラデーションで、校庭の所処に設置されている街灯の光が揺れている。
他の先生方は仕事、或いは部活指導を終え皆帰宅してしまったし、周りに生徒どころか、人の気配すらしない。静まり返った放課後の学校は、少し苦手だ…。
返事、返事…と同じ事を唱えながらも、手をずっと動かし続けていたその時だった。

がらりと独特の音を響かせ、開いた職員室後方の扉。

「…みょうじ先生。まだ残って居たんですか」
「っ、」

今までは、校内でしか言葉を交わさなかったから、下見の件で分かった事がある。

「斎藤、先生…お疲れ様です、今まで情報室に…?」
「はい。明日の小テストを作って居たので、」
「そう、ですか…」

斎藤先生は基本、誰にでも敬語だ。偶に沖田先生や藤堂先生には砕けた言葉を使っているのを見るけれど、わたしを含め後輩だろうが、上司だろうが同僚だろうが誰にでも基本は堅い言葉を使っている。

でも、

「ああ、もうとっくに下校時間は過ぎているのか、気付かなかった」
「あ、は、はい!」
「みょうじ、あんたはまだ残るのか?」
「いえ、もう…帰ろうと思ってましたが」

椅子に掛けっぱなしになっていたスーツの上着を羽織ると、腕時計を見下ろし「そうか、長い一日だった様に思えるな、」と口元を緩めている斎藤先生。
この言葉がきっと、彼の素だと思う。旅行先では、ずっとわたしを呼び捨てにしていたし、言葉もどこか堅苦しくなく彼らしい声音で話してくれていた。それに、心を跳ねさせたのも、瞳を潤ませたのも、頬に熱を集めたのも、

わたしだ。








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