「さて、」と、荷物を降ろした斎藤さんが真面目な顔で振り向き腰掛けているわたしを、上から下まで見た。そして、やっぱり驚いた様な顔と、血の気の引いたその表情を見て「ああ、結構盛大にやったのか」と、自分の置かれている状況に合致がいった。

「どう転げ落ちたのだ、ちょっとやそっとと言える程度では無いが、」
「いや、もう、気付いたらツル!ゴキ!ゴロゴローって!」
「…まずは消毒だ、その、そ、それを何とかしてくれっ、」
「それ?」

慌てて自分の鞄へ踵を返した斎藤さんは、こちらも見ずに上ずった声でそう告げる。何とかするって何を?と自分の足を見下ろして気付いた。
廊下で擦れたのか、階段の角にでもぶつけたのか、盛大に血を滲ませている傷跡がわたしのストッキングを赤色に染めている。うわ、伝線してるし!うわああ!足首まで血が垂れて…ってぎゃあああ!足首腫れてるうわああああ!!!
改めて見た大惨事に、さすがのわたしもヤバいと思った。すぐさまストッキングを脱ぐと、そのボロボロになった肌色を丸めて肩を竦めた。やばい、これはやばい。痛い。傷とか見た所為で更に痛い。

若干涙目になっていると、斎藤さんが何かを手に此方へと歩いて来た。…目が泳いでる。


「それは?」
「これは緊急時用にと常に持ち歩いている携帯救急セットだ、足を此方へ」
「…斎藤さんのビジネスバッグって四次元ポケットか何かですか?」
「違う」

わたしの前に跪いた彼は、慣れた手付きで救急セットから消毒液とピンセット、それと綿みたいな塊を取り出し、前髪を耳にかけた。いつもだったら隠れている右目が忙しなく動いているのを見ながら、わたしはただ黙ってその作業を見守っていた。
やっぱり完璧な人を何をするにも完璧だ。まず鞄から救急セットだしてくる男性は、なかなか居ないだろう。
ちょっと恥ずかしいけれど、足を捕られ傷口に顔を寄せた斎藤さんのつむじを見ていると、何やら難しい顔をした彼の瞳が突然わたしを見上げた。

「…何やら、甘い匂いが、するが」
「え?甘い匂い?」
「ああ…、柑橘系…?香水は好まんと以前言っていた気がするが」
「あ、あまり好きじゃないです、頭痛くなるんで…。え、なんだろう、」

くんくんと自分の腕の匂いを嗅いだわたしを暫く見上げていたが、何故そんなにも複雑な表情しているんだろう。斎藤さんは。もしかして嫌いな匂いなのかな。…って言うか、別に甘い匂いなんてしな、

その時。ぎゅう、と少し強い力で足裏を掴まれ上へと導かれたわたしの脚。
パンツ!と真っ先に思ったわたしは、短い悲鳴を上げながら簡易椅子の背凭れへも垂れ込んだ。


「ひゃあっ!」
「…みかん、」
「さ、さ、斎藤さ…今っ、いいいいいま、舐め、足って言うか、傷、舐っ、」
「…と、鉄の味がする、」
「そりゃ!血舐めればしますよっ!何やってるんですかっ!」

わたしの視界が捉えたのは、目を伏せわたしの足に顔を寄せ赤い舌を出した斎藤さんで。べろりと、舌全体で舐め上げられた足…もとい、怪我は彼の唾液で少し艶立っていた。ビクリと身体が反応してしまう位には沁みた。けれど、今はそんな事よりも斎藤さんが跪いてわたしの足を舐めた事に、思考の大半は持っていかれていた。

「…何故、みかん」
「みかん!?え!?みかんなんて食べてな…、あ、いや…そう言えば、」


あの沖田水(おきたすい)…頭から、被ったんだ。


「そう言えば、あんたの髪も濡れている、」
「っ、」

す、と伸びてきた指先がわたしの前髪を捕まえて小さく払う。
その時、斎藤さんとわたしの視線が交差した。

「あの、味の付いたミネラルウォーターを沖田さんが、くれて、それを被ってしまって…」
「総司が?」
「はい、あのっ、でも落ちたときに全部零れちゃって、多分廊下とわたしの服が全部飲んじゃったみたいです」
「……、勿体無いな」

指がそのまま頬に落ちて、指先で肌を撫でられる。つ、と触れるか触れないかの絶妙な触り方に思わず身体を固めると、擽ったいからか、無意識に彼の手を掴んでしまった。「すまない」と、囁くように言われ首を横に振ると、何かに気付いた斎藤さんの瞳が、また少し近付いた。

「ここにも、擦り傷が、」
「あ、」


ぱくり、と指先を口に含まれ思わず顔に熱が集中した。

彼の口の中で、指先に舌が這う感覚と怪我をした足首よりずっと感じる熱さに眩暈がした。ちゅ、と小さな水音を鳴らして離れていく唇。
そのまま手を握りこまれたわたしは、ただ前髪をぱらぱらと零す斎藤さんを見下ろしていた。

「本当は、あんたを飲みに誘いたくホールで待っていたのだ。しかし、遅いので見に来た、どうやら正解だったらしい…」
「で、でも、どうして階段を…っ」
「最近ずっと階段を使っていただろう。そう言えば、何故」

手を離し、やっと当初の目的である怪我の治療に移行した斎藤さんは、てきぱきと手を動かしながらそんな事を聞いてきた。少し赤みが差しているのは、わたしの頬だけじゃなく、彼も例外ではない。
その問いには正直答えたくなかったけれど、ぼーっとしたままのわたしの口は勝手に言葉を紡いでいく。

「最近、太ってきて…、ダイエットをしようと、思いまして…」
「なるほど。たしかに…」
「はい、たしかに太っ」



ピタリ、と止ったわたしの口。

そして、一瞬にして据わったわたしの視線に気付いた斎藤さんが「しまった」と言うように口元に腕を宛てていて。


「今、なんと…」
「ち、違うっ!そう言う意味ではっ、」
「たしかに、なんですか?サイトウサン」
「さ、先ほど抱えた時は足に力が入って居ないのだから当然だっ!それに、見た目が最近少しふっくらしてきたとは断じて思ってなどいないっ!」

身体を支えた簡易椅子が、ミシリと軋んだ。

「うわあああん!明日から夜走るーっ!絶対に落とすっ!脂肪殺すっ!」
「女性一人での夜ランニングは危険だ!それに今くらいが女性として丁度良いと思うのだがっ、」
「わーん!斎藤さんがわたしの事肥やして食うつもりだーっ!うわーーん!」
「食っ、!?」

傷口に巻いてくれていた包帯がぎゅうーと足を締め付けて、ふくらはぎのお肉が乗っているのが分かる。それにまたショックを受けたわたしは、そのまま椅子の上で真っ白に燃え尽きていた。真っ白に、燃え尽きちま…、


「なまえ、」


某ボクシング漫画の台詞を脳内で唱えた時だった。
突然目の前が真っ暗になる。そして近くで感じるのは、甘いみかんの匂いでは無く…斎藤さんの優しい匂い。同時に背中に回った腕は、力強くわたしを引き寄せ、頭上からは少し戸惑いがちな彼の低い声が聞こえた。

「…、今日は、我慢する。この怪我では飲みにも行けまい」
「さ、斎藤さん、」
「故に、送る。だから、その…早く治せ。そしたら、また…俺と、」


後ろの髪を掻き揚げられ、耳元で囁かれた言葉は、


「共に酒を交わそう」


今ダイエット中って言ったじゃないですか!なんて二の次で。

いつの間にか正しく処置をされ痛みが緩和している怪我を早く治して、また金曜日に斎藤さんとお酒を飲もうと考えているわたしがいた。
もう熱さは無いけれど、舐められた場所だけはいつまでも熱が引かない気がしてならなかった。


「やはり、…甘いな」


また、耳を舐められた気がした。






ぺろり



(斎藤さん寒くないですか…?すみません上着借りちゃって、)
(いや、コートがあると言っても、濡れたままでは風邪を引くだろう、気にするな)
(ありがとうございます、よかったです。小さくなくて)
(っ…!しかし、世辞でも冗談でもなくだな…っ、あんたはそれくらいが丁度いいのでは)
(どうしてそう思いますか?その理由を100文字以内で説明して下さい)
(…その、抱き心地が、いい…。気が、する…)
(え!?聞こえませんっ!?何!?豚足っ!?)
(一言も言っていないっ!)



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bkm

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