先ほどまで嘘みたいに視界を多い尽くしていた吹雪が止み、晴れた空にぽっかりと浮かんでいる満ち月が、あの日あの時に傍らで燃えていた行灯の灯火と重なって見えた。

ずっと吹雪続きで寒かった北の地…江差にて今、わたしは先に散ろうとしている。
無論、彼を置いて、だ。
もう本当はずっと前から限界だった。五稜郭へ行くという彼の背中を追いかけて、見失わない様にするのが精一杯で、あれだけ啖呵を切って置いて、上げる根などとおの昔に雪道へ投げ捨てられていた。悴む手は、もう握られることなど無かったし、唇なんて掠る事すら無くなり、それでも副長は…いや、歳さんは、わたしを見ていてくれた。最後まで。

「…やだ、所処…、擦り切れて、読める物も読めなくなってるじゃない」

まさかこんな海の上で一人、力尽きる日が来ようとは夢にも思わなかった。最後まで手を伸ばし、撤退命令が出て直ぐにわたしを引き連れて船へ戻ろうとしてくれたけれど、風が強くて、力が抜け切っているわたしを担ぐには困難過ぎた。
まるでこの世の終りみたいな表情で唇を噛んでいた歳さんは、何も言わずその場に立ち尽くして動こうとしなくて。わたしが、言葉無く「行ってください」と漸く交わった視線だけで背を押すまで、わたしの眼を見ようとはしなかった。
榎本さんが寄越してくれた船から、沢山彼を呼ぶ声が聞こえてくる。それは、とても遠くで響いていた筈だったのに、投げられた脱出用の荒縄を掴んだ歳さんの呻く声だけは鮮明に耳が拾いやった。


「……結局こうなっちまう。すまねぇ、」


搾り出す様に、そう告げ、船から遠ざかっていったその背中はまるで泣いている様で。

もう立つ事も困難な身体は、そのまま誰も居なくなりあとは海に飲まれるだけの船の甲板で力なく倒れこみ、ゆっくりと仰向けになった所で、ふと胸元に灯った温かさを心が感じ取った。
返り血も乾かぬ指先で三度も折ってある懐紙をつまみ、眼前に翳してみた。そのまま、力が抜けていく腕を空へと伸ばし、波に揺られ視界も覚束無い船の上で、彼の心に触れた。

『拝啓、みょうじなまえ殿』

他人行儀なそれと、何とも彼らしい墨の湾曲に


涙が零れた。





『誠へ進め 俺もそうしよう だが 再び言葉を交える日が訪れたら その時は、』




海風に煽られ指から空へと、飛んでいく一枚の紙。

掴もうと伸ばした指先から、さらさらと砂の様に消えて行く自分は何故だか穏やかに微笑んでいた。

重い、冷たい、痛い、やめてしまおう。
でも、進みたい。歩みたい。ほんとうは。

あなたと共に…この世の果てまでも。
でも、少しだけ待つとしましょう。その時が来るまで。

それはきっと、




とても幸せな事なのでしょうから。









誠へすすめ




その時は俺が先に逝く。お前がそれを見て泣けば良い。
だから先の世で茶でも飲んで待っていてくれると、わたしくしはとても嬉しく思います。では、また。 敬具 土方歳三









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