会社で泣けるのは、此処。
オフィスに上がる階段の裏に、設計上どうしても開いてしまったらしい空間。
陽の光も当たらない上に、皆は滅多に階段を使わないから人も来ない。隣りには最後にいつ使われたのだろうか、古ぼけたバケツとモップが壁に立て掛けられていた。
階段に続く非常扉を開けた時点でわたしの涙は頬を濡らし、駆ける足に反して後ろへと流れ落ちていく。それがまるで散りゆく桜みたいだなんて何度思っただろう。

「っ、…、だったら、どうしたらいいのよ」

わたしは何と無くでなんて歩いてない。皆が思う程わたしはお気楽なんかじゃない。こうして泣く場所を確保しないと前も向けない弱い人間なんだ。
目標だからと昔から好きだった小物を集めて自分を奮い立たせて、囲んで、笑って。
それなのにどうして、わたしは今だここに居るんだろう。もっと頑張れたんじゃないの?もっと前に進めていたんじゃないの?そんな事ばかり聞こえてくる頭の中は、とても優秀で、この苦痛からわたしをいつまで経っても解放してはくれない。

自分で掲げた夢を、未だに薄暗い場所で陽も当てずに座らせているのはこのわたしだ。

「もうやだ〜…っ、」

ぐしぐし、と自分の不甲斐無さが痛くてここが会社だと言う事すら忘れて泣き腫らしていた時だった。少し控えめに聞こえた足音。カツ、と少し戸惑い気味に進む其れに気付いた時、わたしは思わず身を隠す様に縮こまった。

「誰か…居るのか?」
「っ、」

この声は。
手の中に握りこんだハンカチは沢山涙を吸い込んで少し色が変わっていた。心許無いスペースにいい年した女が一人しくしくと泣いているなんて、端から見たらただの苛められっ子じゃないか。そして、わたしの予想が当たっていれば、声の主。彼に取って、余りにも衝撃過ぎるだろう。
どうしようどうしようと、焦れど涙は止まってくれないし、足音は近付いてくるし、色々考える事が在りすぎてもう限界だった。

「何でみんな放って置いてくれないんですかーーっ!」
「っ!?、その声は…」
「斎藤さんもわたしの為を思うなら、何も見ずに戻ってくださいーっ!」
「は、……」

今まではらはらと落ちているだけだった涙が、ダムが決壊したみたいにどっとあふれ出し、喚いたからか膝からも力が抜け冷たい床に両膝を付きわたしは泣き崩れた。

「…やはりあんたか、みょうじ」
「斎藤さんの馬鹿、なんで来ちゃうんですか、」
「……、いや、流石に放っては、置けんだろう…」
「放って置いてください、わたしなんて、わ、わたしなんてっ!」
「落ち着け、取り合えずそれでは事足りぬだろう、これを」

きちんとアイロン掛けされている黒いハンカチを差し出し、やっぱり放って置いてくれなかったのは、同じ部署で新人の頃からお世話になっている斎藤さん。彼はわたしより年も職歴も上で、昔からまず頼る人と言えば斎藤さんって位に社会で確立している人だった。
普段は無表情で少し恐いイメージが付いて回る彼だけど、話してみると誰よりも優しくて、素敵な人だった。勿論この会社で下っ端なわたしとは違い、彼はどこからも認められていてそれを本人も誇りに思っていると言う。

つまり、彼は自分の夢を、舞台に上げてやる事が出来た人だ。

「理由を…無理に聞こうとは思って居ない。だが、あんたが落ち着くまで居てもいいだろうか」
「……もう午後、始まります…、お気になさらず」
「前々から思っていたが、あんたはもう少し自分の内を理解するべきだろう…」
「内…?」

受け取らないまま彼の手の中にあったハンカチで、少し強引にわたしの頬を拭いやる斎藤さんは、呆れた様子でそう溜め息を付いた。薄く乗せたチークが気になったけれど、その黒には涙の跡は付けどもそれ以上は目には見えないままで肌を這う。
すん、と一つ鼻を鳴らしたわたしは、遠くに行ってしまったまま戻ってこない夢を探して、彼の瞳を見上げていた。
そして特徴的な前髪の隙間から見えた綺麗な春晴れ色に導かれるように、口は勝手に音を紡ぎ出す。

「わたし、やりたい事が…あるんです」
「やりたい事…」
「はい。今は、もうどっか遠くで泣いているかもしれませんが…。夢が、あって」
「……、」

落ち着かせるようにか、背にそっと置かれた手のひらがまるで今にも崩れ落ちそうな身体を支えてくれている様に感じられて、どこかじんわりと温かくなる身体が「まだ…進める」と縋りつく。
でも、その身体とは反対に、その縋り付こうとするモノが見当たらなくて嫌になる。

「でも、それももう辞めちゃおうっかなーって。ほらわたしって普段こんなキャラじゃないですか!なんか場違いかなぁって。それに皆、わたしの夢…」

笑いますし。

「………どうせなら、今まで汗水たらして働いた貯金パーッと使っちゃおうかと。あ!斎藤さん、よかったら一緒に飲み会でも如何ですか?奢りますよ!」

どうせ、誰に言っても同じだから。
わたしの夢なんて、咲かずに散る。
散ったからって、その欠片を必死に拾い集めても元には戻らない。

散ったら、終り。





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