どうしてこんな所に、とは思えど直ぐにもある考えに行き着き溜め息が漏れた。以前わたしもこの場所で子猫を拾ったんだ。
高校を卒業して医療の専門学校に進んだわたしは、慣れない寮生活に加え学生業と病院勤務に研修、実習、試験、それらに追われ目まぐるしい日々を過ごしていた。夢に向って歩いている筈の足はもう毎日くたくたで、長い一日を終えてベッドに滑り込んだら最後、もう足なんて動かしたく無いって位に辛くて。もう辞めて楽になってしまおうか、と半ば夢を諦めていた時期だった。
親が同じ血筋なのか、目の前の猫と同じ様な毛色をした猫をこの場所で拾った。
勿論寮長は大反対。寮生活のルール故その時は泣く泣く実家に預けたけれど、ナース8年目となった今は都内に部屋を借り、そこで共に暮らしている。名前は、……なんでもない。

「ねぇキミ、沖田先生知らないかな…?」

いつも飼っている猫に話しかけているからか、こうして動物と会話をしてしまうのはもう癖だ。癖。勿論返事なんて「にゃあ」以外に望めないのだけど、それでもこうしている間はわたしに取っての癒しであり、今まで歩いて来た己の人生を振り返るいい機会だった。

案の定「にゃあ」と一つ鳴いた後、優雅に毛繕いを始めてしまった猫に苦笑いを零しつつ、沖田先生もだけどこの子もどうにかしなくては…と、結果…一つ厄介事を増やしてしまっただけだと気付き肩を落とした。

その時、今まで風に煽られた草木が擦れる音しかなかった空間に一つの声が落ちた。

「みょうじ、そんな所で何をしている」
「っ!?」

その声がわたしの名前を紡いだ時点で過剰に反応してしまったわたしは、思い切り振り返ってその声の人物を視界に映した。
少し離れた場所に立っていたのは、小さなカップを片手に白衣を纏ったままの斎藤先生だった。

「斎藤先生お疲れ様です、休憩ですか?」
「っ、あ、いや…少し。その…抜けてきたのだ、」
「はぁ…。そう言えば朝イチで先生が執刀されるオペが入ってましたよね?」
「ああ、それは何の問題も無い。昼前には麻酔も解け…患者の術後経過も良好故、なんの心配も要らん」
「そうですか、流石です」

ぎこちなく此方に歩いてくる斎藤先生は、当医院でも母体の一つに上がるがん総合医療センターに勤務する専属医師だ。優秀の上にもう一つ優秀をつけてもお釣りがくる位の名医と言われ、沢山の難しい手術を成功させ、大学なんかでは講演も開いている多忙な人。そして、

「あ、あのソレは…?」
「こ、これは…、」

わたしの、片思いの相手だったり。する。
わたしが指摘したのは彼の手に握られている一つのカップ。中は見えないけれど、どう見てもコーヒーカップなどでは無いだろう浅い形状。それを見下ろし少しバツが悪そうな表情を作った斎藤先生は、空いた方の手を白衣のポケットへと忍ばせた。すると同時に、わたしの足元に座っていた子猫が甘えた声で「みゃあ」と鳴き、斎藤先生の元へと歩いて行く。まるでわたしの心の中を見られた気がして、頬に熱が集中してしまった。

「すまない。待たせた」

そう言うと、目の前に来た子猫の前で先程のわたしみたいに身を屈め持っていたカップを芝生の上へと静かに置いた。いつも余計な皺一つ無い白衣が地面を擦るのもお構いなし。猫の頭を撫で、綺麗に微笑んでいる斎藤先生。更に追い討ちをかける様に、彼のポケットから出てきたのは、子猫用の小さな猫缶で。

「斎藤先生が…この子に餌を…?」
「……母親と逸れたらしく、見つけた時に相当弱っていてな。やっと物を食える程に回復したのだが…。お陰で何処へも行ってはくれなくなってしまった…」
「あらぁ…、」

確かに何処を見渡しても母猫らしき姿は無い。
これも何処から取り出したのか小さなプラスティックのスプーンで猫缶を解しながらカップに移している斎藤先生は、いつも院内で見る真面目な顔では無く、年相応の青年の様に映った。新しい一面を見れた喜びと、彼も動物を愛でる人なんだ…なんて、勝手に親近感が湧いてきてしまって、わたしは零れる笑みと共に余計な事をポロリと言ってしまった。

「うちのはじめもこの猫缶大好きなんですよ、缶開けた音だけで駆け寄って来て容器に移し終えるまでにゃあにゃあと離れてはくれなくて………、」


「は、じめ…?」

「「…………………、」」




時が、止まった。







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