実は、僕は知っている。
前にたまたま同じ階にある会議室でサボっていた時、丁度会議用の椅子を取りに来たなまえちゃんとOLさんちゃんに遭遇した事があった。僕は土方さんに簡単にバレちゃわ無いようにって、奥の方にあるソファに寝転がっていたから二人は気付かなくて。
あの日は付き合い始めてまだ一ヶ月やそこらだったと思うんだよね。その頃は特に不満も無くて、時間が合えば逢ったり、恋人らしい事もしてたし、今みたいにこんな悶々してなかった。

『斎藤さんとね、なまえちゃんが沖田さんとくっ付いたら楽しいねって話してたんだよ』
『そ、そんな事話してたの…っ、』
『だってあの沖田さんだよっ!?あ・の!沖田さんっ!』
『OLさんちゃん…私の彼氏なんだけど、』
『ごめんごめん、でも大丈夫?苛められてない?』

何を言ってるのOLさんちゃんはって思った。
酷い言いようだねって思わず身体を起こして今直ぐプロレス技掛けに行ってやろうかとか思ったけど、なまえちゃんが彼女の前で僕をどんな風に話しているのかちょっと気になったんだ。じっと息を殺して、パイプ椅子をずるずる引き摺っている二人の会話に、神経を集中させた。


『そ、総司さんはすっごく優しいよっ!』


一瞬、時間が止った気がしたんだ。
こんなの初めてだった。女の子とのお付き合いの中で名前を呼びたいとか呼ばれたいとかそんな中学生みたいな事、一々意識した事なんて人生の中で一度だって無い。付き合っちゃえば早い段階で名前呼びなんて定着してたし、僕はこんな性格だから女の子を下の名前で呼ぶなんて、対して重要でも何でも無かった。

…筈だったんだけど。


『なに、今の…っ、』


がちゃがちゃと音を鳴らして会議室から出て行った二人を確認してから身体を起こすと、僕の顔は真っ赤になってて呼吸が苦しくて、喉が詰った。そのまま両手を顔に当てたのはきっと、自分でも頬が熱くなっているのが本当なのか確かめる呈だったんだと思う。その日は土方さんから携帯に数十件近い着信が無かったらそのまま会議室でぼーっとしてたと思う。

それからはああやって事ある毎に「名前で呼んでよ」なんて持ちかけてみるのに、その成果は一向に得られなかった。いつもいつも顔を真っ赤にして黙っちゃうなまえちゃんに、僕はやきもきしていたんだ。
OLさんちゃんの前だから、呼ぶのかな。どうして僕の前では呼んでくれないんだろう。そんなの可笑しいなぁと思いつつも、そんなのはただの駄々の一環で。僕は、ただね…。

もう一度、あの声で
なまえちゃんの声で、僕の名前を聞きたいなんて強く思っていたんだ。



「お疲れ様でした」
「お疲れ様〜、お先ぃ!」
「また月曜日ねー!」

就業後。
みんなが生き生きとした顔で颯爽と帰っていく中、僕は会議室の前でじっと立っていた。今日は人数が集らないって理由で会議室飲みが開催されないって聞いて「これだ」と思った。つまり、今日はこの会議室は空。勿論鍵は土方さんから借りてきた(黙って)から、なんの問題も無い。家までなんて待ってやらない。

「あ、沖田さんお疲れ様です」
「お疲れ様、なまえちゃん。今日はどうする?美味しい物食べに行きたいなぁ、僕」
「あ、はい。じゃあこの間OLさんちゃんが斎藤さんと行って来たって言うお店に、」
「その前に、ちょっといいかな」
「え?」

もう後は帰るだけなのに、ちゃんとお化粧直しをしてヒールを鳴らしてる彼女の手を引っ張って誰も居ない会議室へと連れ込むと、僕はそのまま後ろ手に鍵を回した。
カチャンと軽い音が聞こえて、僕の革靴がコツコツと静かな室内に響いていく。僕の突然の行動に、訳が解らないといった表情を浮かべて少しうろたえているなまえちゃんの前まで来ると、一歩後退した彼女の身体が会議室の長机に一度だけぶつかった。

「あの、沖田さん」
「………」
「あ、あれ?あの、何でしょう、ご飯食べに行かないんですか…?」
「……………」
「え?え?目の前で堂々と無視ですかっ!?沖田さんっ!」
「………………、」

問い掛けに返事をひとつも返さない僕を見上げて、いつもより少し大きな声を出すなまえちゃん。最初はにこやかだった僕だけど、ゆっくり頬の筋肉から力を抜いていって、今は無表情。それに連れてなまえちゃんの顔も徐々に暗くなっていって、今じゃあ泣き出しそうな位大きな瞳が揺らいでる。泣き顔も可愛いなぁ。この表情はいつもベッドの中でしか見られないから、会社で見ている事にちょっとした悦びを感じてニヤけちゃいそうなんだけど、まだ駄目。

僕と同じ様に言葉を発さなくなったなまえちゃんを他所に、僕はポケットに入っていたスマホを取り出すと受信メールボックスで一番を締めている名前をタップし、素早くメールを送信する。勿論その名前…つまり送り主は目の前で泣きそうになっているなまえちゃん。
ポケットに再びスマホを滑り込ませたと同時に、目の前の鞄から小さな振動音が聞こえた。

「…え、」

今の行動を見ていたから、驚きの声を上げつつも鞄から震えているスマホを取り出しぎこちない動作で操作している細い指が見える。伏せた睫毛が震えて今直ぐ抱き締めたい衝動をぐっと抑えて僕は再び、笑みを浮かべた。



僕の名前をもう一度呼んで。


別の誰かじゃなくて、ちゃんと僕の前で。






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