顔を上げていないから表情こそ見えなかったけれど、一拍置いて息を飲んだ彼が普段から無表情過多の顔を歪めたのが理解できた。
夢はやはり見る物です。
枕に頭をつければ瞼が下りて眠りに付く。もう外で朝鳥が鳴いて居ても眠る事が多いわたしは何度も何度も夢の中で彼に甘えた。「例え叶わぬ夢であれど、見るだけはただ。花代も戯言も要らないの」と。これは誰が言っていたんだっけと考え、ああそうだと思いつく。以前、客を愛し本気で惚れた男以外の者に身請けされ、この島原から外へ出た同業が言っていたんだ。いつか此処から飛び立つときらきらした目で空を仰いでいた彼女は、その通りここから出られた。でも、その足には一本の縄が掛けられ自由には羽ばたけず、浮かない顔をして「結局こうなる。私達なんて所詮飛べぬ鳥」と皮肉一杯で花魁道中を歩いた人が居た。
「なんの冗談だ、」
「もう決まってしまったんです。次の始めには身請け金も入ります。わたしはもう勤めを終えるんですよ」
「しかし、そんな…」
「……じゃあ、はじめさんが請けてくださいますか?」
頭を上げにこりと微笑みそう告げる。
わたしにしか聞こえない位の小さな声で「それは…」と言うのは、余りにも無茶な要求だと物語る。わたしの階級にもなってくると、それこそ一度の花代なんてただの石ころの様な者だから。ここは大見世だから、その見世の花魁を見受けするには数百両…いや、数千両なんて至極当然の事だ。彼も高給取りではあるけれど、月三両程度では空には到底届かない。
だから、わたしはここで諦めるつもり。
藁半紙の様な白に戻し、何もかも忘れて見世とは別の場所で飼われ住むだけ。
「あんたは…なまえはそれでいいのか。それが本当にあんたの望んだものなのか」
そんな訳、無いじゃないですか。この言葉は口には出来なかった。
もしここで縋り、わたしを攫って逃げてください。なんて言える訳がないんですもの。今まで養われた歪んだ胸の内が真っ直ぐな彼の瞳のお陰で痛くて、溶けてしまいそうだった。どうすれば、断ち切れるのか、考えれば考える程目尻が熱くなって、今口を開けば取り乱し泣き喚いてしまいそうで…。
ぐ、と喉を絞めるも、彼から飛んできた言葉一つで努力も水の泡となってしまった。
「ならば心中立てをするか、俺に」
「っ、…ぅっ、」
「なまえ、どれでもいい。今直ぐ俺に誓え。誓詞、誓紙、髪切り…あんたが望んだものを俺は受け入れる」
「もう、やめて下さい…っ、はじめさん、やめて、諦めて他の方と幸せになってください…っ、」
「それは聞けぬ願いだな。話は戻るが入れ墨、放爪、指きり…これは解り易いがあんたが辛い故に却下だ」
「はじめさんっ、お願い、聞いて!」
「残るは、情死か…。これはお互い辛いだろうから有効にしよう。だが…少し恐いな。戦死にするのとは違い、思いも寄らぬ覚悟が居る」
「やめ、…っ、くださ、もう、いっそ死にたいっ、」
好いている人に…刀を振るう武士様に「恐い」だ何だと、こんな事を言わせてしまっている自分が情けなかった。どうしてわたしはここに居るんだと。どうして彼と逢ってしまったのか、どうして焦がれてしまったのかと。
ぼろぼろと畳に泣き崩れたわたしをゆっくりと抱き込み、同じ様に背を折るとはじめさんはゆっくりと肩を撫で、鼓動を分けてくれた。
「あんたの見る夢は俺の夢でもある…共に生きよう。花道など歩かずとも幸せにしてやる…」
顔を上げたわたしの顔は酷いものだろう。
それでも微笑みを絶やさず見下ろす、今の季節と同じ空色には迷い等、どこにも滲んでは居なかったの。
「不思議と、何でも出来る気がしているが…見当違いだろうか、」
「…はじめさん、はじめさん!わたし、嫌です、あんな男の所なんて行きたくないっ!はじめさんと一緒に居たいっ…っ、ふ、」
「ならばそいつの所へは行かぬが答えだ。いい…俺が連れて行く」
「…このまま、わたしの手を引いてっ、」
落ちるまで離さないで。
掠れた声は声にならず。
そのままふさがれた唇は、少ししょっぱかった。
いわたしにも、ひとつまるで嘘の様な夢があった。
「あんたを掬うのは俺以外に居らぬ」
それは、
「わたし此処から飛び立ちたいっ!連れて行って、」
それはね。
「ああ、お安い御用だ」
見返り柳をどうかこの目で。
島原大門までは振り返らず
(はじめさん…あの屋台はなんですか?)
(あれは、矢師と言いあの吹き矢で品を落とす遊びだ。言わば的屋と言った所だろうか)
(やります!やってみたい!)
(なまえがやった所で金の無駄に終わると思うのだが…、)
(なんですのそれ!ならばはじめさんがやって見てくださいっ!)
(………わかった。しかし、取れずとも駄々を捏ねるな)
(まあ、最初から諦めて掛かるなんて男らしくもない。あの時の気合を今一度見せて欲しいものです)
(あの時は本気…いや、何でもない。見ていろなまえ)
(素敵ですはじめさん!)
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