「斎藤はん、来ました」
「…ああ、」
「……もう、前に一言了承してって言うたのにっ!」
「す、すまない」

下げていた頭を上げ元気一杯に声を張ると、部屋まで案内してくれた姉さんがわたしの背後でくすくすと笑う声が聞こえてきた。
「は、入れ」なんて、少しどもりがちな言葉が飛んできて更に笑ってしまう。それに釣られつつもゆっくり襖を開け今一度負深々と頭を下げ挨拶をした。「なんかあったら呼んでな」そう告げ、酒やら遊び道具やらを運んでくれた姉さんに礼を言うと「しっかりしぃ」と眉を寄せて切なげに言われてしまった。

目の前の彼は斎藤一さんと言う。一と書いてはじめと読む。
一番初めにこの見世に訪れた時は山口だと名乗っていた筈なのに、いつからか斎藤になっていて、それを問えば「個人的な来店故、今の本名を」とばつが悪そうな顔でさらに笑わせてもらった。

既に手酌で一人飲んでいたらしいはじめさんは、わたしを見るなり「顔色が悪い」と鋭く言い放つ。

「大見世の上階級捕まえて開口一番それですの?女心が解らんお人」
「その言葉も居心地が悪いと何度も」
「もう。あれも嫌これも嫌。わがままですね、はじめさんは。まず言う事があると思うんですけど…」
「…、」

もともと無口な人だとは思っていたけど、それは違って実は恥かしがり屋なだけだったという。もう襖も閉めてこの内側にはわたしとはじめさんの二人だけだと言うのに、きょろきょろと辺りを見回すのは以前行われた新選組の島原らんちきの所為だと思う。なにやら他所の見世で一悶着…いや、一暴れしたみたい。頑張って覚えた廓言葉が嫌だからと京言葉にしたのに「いらん」とむっつり顔で言うもんだから、初めの頃は何この人凄く面倒くさいわ。なんて内心嫌悪していた。

でも

「あ、あんたに…逢いたくて来た。その…顔を見れて、良か…」
「…また語尾が聞こえません。もう一度」
「からかうなっ!」
「その様な時は大声が出せるんですね、一度喉を医者に見てもらった方がいいのではないですか?」
「…ぐっ、」

こんなにも可愛らしい表情を一度見てしまったら、女は誰でも落ちると思うんです。

今日のはじめさんは、いつもの着流しにまるで病人かと疑われる様な襟巻き姿では無く涼しげな浴衣姿。いつもは隠れている涼しい喉元を見てわたしが丸目を瞬かせると、それに気付いたのか「これは、」と胸の合わせ目を掴み肌を隠す様にして押し黙った。

「暮れ盆も過ぎましたし、もう暦の季節は初秋ですよ?何故浴衣?」
「…い、以前、あんたが言っていたのだろう」
「わたしが?」
「ああ、今夏は祭囃子を遠くから聞くだけの夏だった故、雰囲気だけでも連れて来いと…」

ああ。そう言えば。

わたしは有階級故昔みたいに使いには出されない。それは近場に着物を買い付けに行ったりする以外、見世の外には出して貰えないと言う事。今年も大きな祭りがあったと風の噂で聞いて、半ば行けなかった八つ当たり序での煽り文句だったんだ。「祭りに行けなかったのが悔しいから、今度来る時は夏祭りを一緒に連れて来て欲しい」と。これはわたしの洒落を利かせた一つのからかいであって、別に浴衣を着て来いと直接言った訳じゃない。
彼が身を置いている新選組は祭りの警備も偶に行うと言っていたから、もし祭りに参加する時があったら土産話を持ってきてくれと言いたかっただけなんだ。

なのに、この人は。と実直さに呆れるのとは別に募るのは愛おしさだけだった。

「ふふ、色っぽいですねぇ、ああ、はじめさんの後ろに屋台が見えてきました。あれは何でしょう。林檎飴ですかねぇ」
「……あんた、忘れていただろう」
「滅相もございません」
「…屯所を出る時、他の者に散々からかわれたのだが」
「あら、見たかったです」
「なまえ!」

彼が過敏に反応をする度に手元のお猪口の中身が揺れて着物に落ちる。
隣りで寄り添い酌をするわたしを睨みつけているはじめさんだけれど、その頬に差す赤みの所為でちいとも恐くありません。寧ろ、想いが溢れて今にも泣いてしまいそう。
結局宥め終わる頃には「なまえの為なら、恥を掻くのも耐える」なんて言わせてしまった。他の客の前では笑顔も作るし浮いた言葉の一つも言ってみせるわたしだったけど、彼の前だとそう上手くは振舞えなかった。駄目、駄目…と何度も頭の中で自制した筈が、気付けばはじめさんの腕の中、本当に女の喜びに浸り自ら唇を寄せる程焦がれ尽くしていたのです。

「何か、お遊びします?」
「いや、いい。隣りに居てくれれば、それで」
「……見世からしたら専ら悪い客言われますえ。芸事も頑張ってるのに、魅せる出番も出てきぃひんもの」
「そうか。ならばその遊びとやらはまたの機会にでも披露して貰おう」

わざと他の客にするのとは少し異なる戯言を吐いたわたしに、はじめさんはくつくつと面白そうに笑っただけでいつもの様に杯を傾け酒をぐんぐん飲み干している。彼は芸を披露せずとも酒代だけで事足りると言われてる事なんて本人は知らないんだけど。


「……はじめさん」
「ああ、」

小さな会話の切れ目。
空になったばかりのお猪口に酒を注いでいる間少しの沈黙が包み、わたしは今かもしれないと口火を切った。


「わたし、身請けが決まりました」


とくとくと彼の持つ弧に透明な酒が満たされていく様を見て、静かに目を閉じそう告げた。







前頁 次頁

bkm

戻る

戻る