「………あいつ…あの蝉は、諦めては…いなかったのか、」
「びっくりしました、驚かせてしまったのでしょうか…」
「いや、」
顔を覗かせた瞬間、蝉が足元から羽ばたいた所為で咄嗟に俺の腕に身体を寄せたなまえ。そのまま一度だけ空を旋回した後、木葉の影に消えていった蝉を見上げて「元気ですねぇ」と微笑むなまえから視線が離れなくなってしまった。しがみ付かれた瞬間、ずっと立っていた場所から足を離してくれたのは、紛れも無い彼女で。
それを促してくれたのは、俺が勝手に諦め死に行く者と位置付けた小さな命だった。
それを合図に、今まで静かだった辺りが一斉に騒がしくなった。
「蝉しぐれか、風流だな」
「…これだけ暑いのに、一生懸命でわたしは好きですよ」
「ああ、俺も色々と教えられてしまった所でな、」
「教えられた…?」
ミンミン、ジワジワ、ジージー。
様々な命の合唱が、俺の背を押している様だった。
「あんたが総司を好いていて居たら俺はただの邪魔者だ」「あんたが総司と言う宿り木に止りたいと言うなら、俺は黙って身を引くべきだ」今までそう思って諦めていた。しかし、それでは面白くないだろう。
「なまえ、」
「はい?」
俺の腕に置いてあった細い腕を取ると、夏も真っ盛りだというのに少しも焼けていない白い肌がしっとりと汗ばんでいるのがわかった。
それを加減し握ってから身体を返すと、俺を見上げるなまえの瞳が、一度、二度とゆっくり瞬く。
その中に映る空で俺も飛んで見たい。
「総司には、悪いと思う。だが、一世一代と言っても過言では…無いだろう。その、」
「…斎藤、さん?」
「あんたは驚くと思う。そして、…横着だと思うだろう」
「は、はい?」
この、鼓膜が震える程の蝉しぐれの中。
土から這い出たばかりの俺は、
「俺は、」
羽根を広げて。
「あんたを、好いている…」
これ程煩いのにも関わらず、俺の聴覚が縁側から去る総司の足音を聞こえ拾った。
目の前で瞬きを忘れたなまえの顔が見る見る赤く高揚していくのを見ていると、じわりと胸に感じていた痛みが和らいで行くのを感じたのだ。お互いに合わせた手の平はしっとりと交わり、離さないとばかりに強く重ねられている。
「斎藤さん、今の、は」
「今のは、俺の心の内だ。それに対する応えは無くとも良い。ただ俺が知ってもらいたかっただけだ」
「…そんな!わ、わたしも、その…っ!」
「…は、」
いつの間にかお天道が傾いた所為で、立っていた場所は木陰へと変わる。
「わたしも、お慕いして…居りました、」
「……………、」
「えっと、…さ、斎藤さん?」
「……………、」
「あの…か、顔に穴が空いてしまいます、」
「総司、は…」
俺の間抜けな声に、大袈裟に瞬きをしたなまえは首を傾げ「総司さんが何か?」と予想外の言葉を俺に返した。
「あんたは総司を好いていると思って居たが、」
「ご、誤解ですっ!それに総司さん、わたしが斎藤さんの事をお慕いしている事を知っていましたし…、」
「ちょっとだけそれでからかわれたりはして居りましたが…」と照れ臭そうに零したなまえは少しだけばつが悪そうに唇を尖らせた。
やって後悔。やらぬも後悔。
残念無念慚愧の至り。
俺が欲しいものは、俺では無い他の者へと飛んでゆく。
あの地に落ちていた蝉の様に、一度は諦め空を仰いだ。
しかしどうだろう。
今、俺は、未だ土の中か。否。
「なまえ、俺はどうやら今になってやっと、地上へと出られたらしい」
「…?」
「あんたが居れば、俺は何度地に落ち様とも、再び空へと飛び立てる…」
腕を解き、その手を腰に回せば何の抵抗も無く俺の胸へと寄り添ってくれたなまえは、「まるで、蝉のようですね」と面白そうに囁いた。
蝉時雨に包まれて、寄り添う身体はどこまでも。
彼女とならば、恐らく何度諦めても立ち上がれる。
そして、俺の人生は十と四つでは終わらん。一生、出来る事なら何十年も先まで共に。
その髪に頬を寄せながら、俺はそんな事を思っていた。
そう、暑い夏の日の話だ。
蝉しぐれ
(しかし、総司はどうして去っていったのだ…)
(あ、それは…その、)
(ああ、)
(此方を覗き込めと言ったのは、総司さんです…それで“蝉の声に隠れてる臆病者が居るから引き摺りだしてあげて”って…)
(…………あいつは、)
(頑張れと言ってくださいました)
(そうか、では後で礼を言っておこう、)
(はい)
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