『大丈夫だ。言わないよ。今夜楽しみにしてる。』

その簡潔な文章は、普段の彼からしたら丁寧過ぎる程だと思う。
いつもは言葉遣いが少し乱暴な彼だけど、メールになると、句読点も改行もまるで申し分無い。仕事で沢山書類やら伝達メールやらを作成しているからこその癖なんだろうけど、それを知っているわたしは、小さな優越感に浸る事が出来た。

でも、彼は一つ勘違いをしている。

『それなら、いいんです』

慣れないフリックを駆使して、可愛げの無い返信を終えたわたしは一度深呼吸をして仕事に取り掛かった。


わたしと原田さんは現在お付き合い半年目になる。

それは今年の寒い季節、成り行きで身体の関係を持った事から始まる。と言っても、わたしからしたら大事件で。周りから言うに、わたしは途轍もなく「頭が堅く」て「真面目」らしい。特別可愛い訳でもなければ、立ち回りが上手い訳でもない。つまりなんの面白みも無いわたし。

其れなのに、彼はわたしを「いい女」だという。
その言葉に戸惑い、未だに一本線を引いている状態だった。それに拍車を駆ける様にわたしが彼との間に強いたのは。


『誰にもお付き合いしている事を言わないでください』


扉や窓一つ無いくらい頑丈な壁だった。


「っ、」

無意識に原田さんの方を見てしまっていたのか、気付いたら焦点が合致した視界の真ん中に、彼の少しタレ目がちな琥珀色の瞳がわたしをじっと見詰めていた。
急に恐くなったわたしは、ぱっと視線をパソコンへと戻すとぐるぐると回り続ける頭を何とか抑え午後の仕事へと取り掛かったんだ。

本当は、本当は声を大にして言いたい。
彼はわたしの恋人なんだよって。
他の誰にも渡さないんだからって。

この半年間、ずっと、ずっと胸に秘めたままの言葉は、今日も音になる事すら無く心の中で眠りに付くのだろう。可哀相だ。本当に。

そう言えば、この間ベッドの中で唐突に問われた言葉を思い出す。

『なまえはしんどくねぇのか?』
『何が…ですか?』
『いや、会社で俺の周りの事とか、色々と』
『…………それは、女性関係という事でしょうか…』
『あー、そうはっきり言われると言葉が詰るんだが。まぁそんな所だ』

しんどく無い訳がない。

とは思っても、わたしはそれを上手く、そして可愛く表現できる術を知らない。
だから素っ気無く『もう慣れましたし』とか言ってしまうんだ。でもちゃんと知っていた、原田さんがさっきのメールみたいに…わたしに気を使ってくれているのは。
『そうか』と独特なカタチの眉を下げながら苦笑いを零した原田さんの内情も、わたしは未だにくみ取れていない。

可愛い返し方って何だろう。
正解って何だろう。
このままでいいんだろうか。

このまま、モヤモヤして一々周りにいる女の子達にヤキモチを妬いて、一人で潰れていくわたし。
その道を選んだのも、ううん。選ばざるを得なかったのは、わたしだと言うのに。


「みょうじ、ちょっといいか?」
「っ!?は、原田さん、どうしたんですか…?」
「いや、仕事の事で話があんだ。ちょっと付き合え、」

ずっと仕事をしていた気になっていた。
でも手は止り、デスクトップに映るのはさっきから進まずずっと点滅を繰り返すテキストカーソルが情けない顔をしているわたしを見ている様な気がした。



ここでこっそり言葉を交わすのは今日が初めてじゃない。
そして彼からまるで仕事の話を装って呼び出された時は、大抵。

「どうした?ぼーっとしてよ」
「…別に、何でも無いです」
「毎度毎度同じ返事じゃなくて、少しは捻って見ろよ。その程度じゃあ俺はかわせないぜ?」
「…………、」

わたしがこうして扉の内側で一人考え悩んでいる時なんだ。

「今日なまえに残業されると困るんだがなぁ…」
「ああ、レストラン予約してくれたんですよね?大丈夫です、迷惑かけたりしませんよ?」
「お前なぁ…」

ああ、まただ。また呆れさせてしまった。
返答を間違えた。
そう瞬時に思ってしまったわたしの頭にポンと降って来た優しくて大きな手の平。そのまま髪の毛を乱すこと無くスルスルと撫でる原田さんは「そうじゃねぇよ」とオフィスでは聞くことが出来ない位甘い声で笑う。
スカートを握り締めたわたしが不安げに見上げると、首を小さく傾げてその薄い唇を額に落とされる。いつもこの後にわたしが決まって吐くのは「見られたらどうするんですか」と言う冷たいもの。

でも、今日は。

「いいか?良く聞けよ。俺はなぁ、一ヶ月前辺りからずっとうずうずしてる」
「…う、うずうず?」

そんな突拍子も無い事言われると、可愛げが無い以前に返答が見付からない。頭からゆっくりとなぞる様に降りてきた手の平は一つ増えて、わたしの両肩を掴んで落ち着く。原田さんにしては珍しい程の力の入りようで、思わず怒らせてしまったのかと戸惑ったけれど、わたしが敷いた壁越しに映る彼の顔がみるみる赤くなっていくのだから更に驚いてしまった。

「は、原田さん…っ?」
「いくら言っても名前で呼んではくれねぇ、それ所か俺が送らなきゃメールもしてきやしねぇ。加えて言うなら、未だに全部曝け出してもくれねぇ」
「……え、」
「だからずっと言えず仕舞いで今日まで来ちまった」
「それって…つまり、わたしの事もう、」

嫌われたのだろうか。
ああ、わたしが素直にならないから嫌われてしまったんだろうか。どうしよう。どうしたらいい。どうしたら、可愛い女の子になれる?どうしたら原田さんの言ういい女になれる?どうしたら、

彼に続く扉は姿を現すの。







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bkm

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