「……、」

視線を再びみょうじの方へ向けると、その席はいつの間にか空になっていた。テーブルの上には同じく空になったグラスがぽつんと置かれている。
一瞬「帰ってしまったのか」とも思ったが良く見ると足元には彼女が愛用している白いスプリングコートと彼女らしい色使いの鞄が置かれていた。

「総司、手洗いに入ってくる、荷物を見ていてくれ」
「はいはい、別に一々報告するなんてはじめ君らしくないよ、荷物くらい見ててあげるから」
「…茶化すな。失礼する」

手を振る総司を背に、俺は少し熱くなった身体を起こして貸切にしていた座敷を後にした。廊下には部屋毎に沢山の靴が並んでいて、やはり五月に入るまでは何処も歓迎会ラッシュなのだな。と感慨耽った。俺も数年前には新人としてこの場に居たのだ。

ぼんやりとした思考のまま、店のスリッパではなく己の革靴に足を通した俺は特に行きたい訳でもない手洗いへと向う。
みょうじも、手洗いだろうか。と女性に取っては考えられたくも無いだろう事を思い浮かべながら角を曲がった時だった。


「ぶごぉっ!!」
「っ、!?」

ネクタイを付けたままの俺の胸元に、何が勢い良く埋まる感覚。そして人には在り得ない悲鳴と腕を強く掴まれる感触が同時に降りかかった。

「ごめんなさ…、って…斎藤さん」
「………あんたか、」

いつもの俺ならば、ここで過剰に跳ね除ける所だろう距離。顔と顔が近い上に接触している部位がありすぎる。
しかし、特に酔っている様子も見られないみょうじの顔を俺はまじまじと見下ろしているだけだった。当の本人もそのままの体制で俺を見上げ、首を傾げるばかり。

「離してはくれぬだろうか、」
「わ、すみませんっ!!って…わたし!あ、あ、」
「どうした」
「ごめんなさい…、シャツにファンデが…っ、うあああああ、」

暫くお互い見上げ見下ろして居たが、俺が小さく指摘するとバッと身を起こし慌てだすみょうじ。その見詰める視線の先にあったのは、白のワイシャツに薄っすらと付いた肌色の跡だった。思い切り顔をぶつけていたから、恐らく擦れて付いたのだろう。

「ごめんなさいいいい!!!ちょ、弁償!弁償しますっ!」
「いや、いい。気にするな…それより、」
「げぇえ!これブランドもんじゃないですかぁああ!ひぃいい初給与飛ぶぅう!」
「お、おい!引っ張るな!何故掴むのだ!?」

何故か俺の胸座を掴み、女とは思えぬ形相で取り乱すみょうじ。彼女の手に寄って俺のシャツは乱れ、既に引きずり出されてしまっている。このままでは剥かれると咄嗟に思った俺の行動は早かった。
彼女の右手を己の左手で掴み、逆の手で肩を押すと「みょうじ」と彼女の名前を呼んでみる。幾ら厳しく叱っても涙一つも見せなかった奴が、今俺のシャツを化粧品で汚してしまった位で涙目になっている。まったく理解が出来ない。
やっと大人しくなったみょうじは、俺を気まずそうに見上げてからゆっくりと俯いた。

「わたし、斎藤さんにもうこれ以上要らぬ迷惑掛けたくないんです…」
「は…、」
「この一ヶ月…斎藤さんに色々と教えて頂けて、わたし感謝しているんです。とても」
「俺、に…」

今度は俺が目を丸くする番だった。

「右も左も解らなくて、とんでもないミス沢山しちゃって…。でも斎藤さんちゃんと一から教えてくれるし…最後まで見捨てずに助力してくださいました。凄く尊敬しています、かっこいいです!」
「それは、上から…」


上司命令だから。仕方なく。

と、言うのは簡単だったが、何故かこの時。
俺は、その言葉を詰る息と共に飲み下していた。


「わたしまだまだ斎藤さんから教えて貰いたい事一杯あるんですよ、だからこんな事で嫌われたく無いです…」

しゅんと肩を竦めたみょうじの腕と肩を掴んだまま、俺は情けなく口を開け佇むしか出来なかった。聞こえるのは、あちらこちらから聞こえてくる楽しそうな人の笑い声と、己の鼓動のみ。
それは、いつもよりずっと早く脈打ち、それ故に眩暈さえ感じさせたのだ。

「あ、あと加えて言うなら超イケメンですね!パソコンする時とかに掛けてる眼鏡とか、もうほんっとあざと…じゃない、えっと、」
「………あんたは、酔っているのか、」
「へ?」


一体何を言っているのだ。
俺は、隠れて就業中に菓子など食わん。仕事をするべきデスクを小物で埋めたりはしない。俺が新人の頃は、もっと…もっと。


しかし、今みょうじが俺に放った言葉に
俺は確かに、頭を持っていかれたのだ。


「いえ、酔ってはいないと思います。…っていうか、皆さんなんであんな控えめなの…?土方部長に至っては下戸…、」
「は?」
「あ、いえいえ。こっちの話ですよ!」
「………いや、ありがとう。気をつけて戻れ、」
「え?ありがとう?わたし何も、って…斎藤さん!?」
「失礼する」


突然熱を上げた両手を振り解く様に離しその場から逃げる俺の耳に、戸惑うみょうじの声が届き脳内へと伝わっていく。
歩く速度は、外回りの時よりずっと早く、酒の所為で上手く動かせない。縺れそうになる歩も気にせず雪崩れ込む様に手洗い場へと飛び込むと、そのまま冷たい壁を背に俺は一気にその場で脱力した。
口元を覆い、目を閉じると、ずるずると足元から崩れていく。

「…不覚、とはこの事を言うのだろうか、」

形振り構わずその場で腰を降ろすと目の前の洗面鏡が、顔を赤くし情け無い顔をしている俺を鮮明に捕らえていた。


嬉しい。
とても、嬉しいのだ。


「みょうじに、救われたのか…。俺は、」


己が間違っているとは思わなかったが、後に残ったのは少しの罪悪感と虚無感。
月日を重ねる毎に積み重なっていたそれは、いつの間にか目を逸らせない位大きくなって、俺を一層卑屈にさせた。
これを吐き出す場が会社には無いに等しかった俺にとって、初めて貰えた安心と信頼。それは昔馴染みのあいつ等とは、また違った場所からの救いだった。


「みょうじ、OLさん…」


いつか、もう少し歩み寄れる勇気が俺にあるとしたら、
飲みにでも誘ってみよう。


「しかし、酒は弱そうだ」


立ち上がり、シャツに付いた肌色を見下ろし小さく笑った。



芽吹く

(…誰か、居るのか?)
(あれ、斎藤さん?何してるんですか…こんな時間に)
(その声は…みょうじか、)
(はい、って言うか眩しい!)

(す、すまん)


あとがき→


前頁 次頁

bkm

戻る

戻る