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その声が聴こえたであろう瞬間、ぐったりとした体が微かに強ばった気がした。そして、これは恐らく気のせいではない。
目の前で首を傾げた子供は再び顔を戻すと、私の肩(正確にはそこに凭れた男の顔)に、その深海のような目を無感動に向けていた。
はたはたと長い睫毛がまたたいている。
一刻も早く病院に行きたいのは山々なのだけれど、……さてどうするべきか。
例え逃げようとしても、こいつを担いでいる以上この女の子が追ってくるつもりなら逃げ切る事は出来ないだろう。
だからと言って戦うか?女の子相手に?いやぁ…。うむ…。そもそも相手の目的すら分からない。敵か、味方か。味方とまでは行かなくても無関係な、そうたまたま通りかかっただけの女の子だとか。
……いやぁそれは無いよなぁ〜、だって始めに声をかけられたのはビルの入り口方向だし。そっちにはもちろんビルの玄関があった訳で。
私がどうするべきか迷っている内に、目の前の少女が口を開いた。
男を指さして、
「あなた、見たことある。」
「………、こいつを…?」
……なんだ。『見たことがある』?
そんな言い方、反応だと、こいつを目的として近付いた訳ではない、という…ような印象を受けるのだけれど。
もしかしたら、本当に別にこいつを追ってきた手合いでは無いのだろうかとか…、
「確か、被検体。No.724、だとか。……何故。ここに、居るの。」
「……………」
「………あ。……脱走、したの…?」
そう呟いて一歩二歩下がる。ずっと深海の色に沈んでいた瞳に、ゆらり、どこか危険な色が見えた。敵意のいろ。
前言撤回。ただこの子供が現状把握出来てなかっただけ、と言うことらしい。
「………ねえ。ここ、出る?」
出るの?
言外に滲み出るプレッシャー。それは見た目通りの少女が普通発っせられる物ではない。紛れも無い強者のプレッシャー。
男がぴくりと体を震わせて。
数少ない言葉に込められたプレッシャーは、隣のこいつに向けられた物だけれど、それでもとても大きなものなんだろう。
本当に出るの?
本当に逃げるの?
逃げられると思っているの?
逃げたらどうなるか分かってるの?
連れ戻された時にどんな目に遇うか分かってるの?
……その前に、私から逃げられると思っているの?
私にはこのビルの中がどんな建物で、どんな事をしていて、どんな評価を下されていて、どんな力を持っているのかは分からないけれど。
なんとなく、この会社に刃向かうこと、それはとても恐ろしい事だとはわかった。
だって。だって。
あんなに高慢ちきで、自分に絶対の自信を持っていたこいつが、
私には弱味を絶対に見せないようにしていたこいつが、
微かに、だけど。
震えている。
「……………、」
「………おう。出るぞ。」
だったら。代わりに。
私が言ってやろうじゃないか。
こいつが言えないなら、私が言ってやろう。
「コイツは、俺と外に出る。」
案内してくれるんだろ?勿論。
教えてもらいたい事も沢山ある。助けて貰ってる恩もある、だから。
お前が恐くて言えないなら、私が、何回でも言ってやる。
「一緒に、外に出るんだ。」
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