08
わぁっ、と上がった歓声に、はっと我にに帰った。杏奈ちゃん、震える声で名前を呼んだ江に、夢じゃないよ、とその頬を引っ張る。杏奈ちゃん、いたい。涙声でそう訴えた江が、こちらを向いた。
「か、」
「勝った」
「「勝ったー!!」」
岩鳶のジャージを着てキャッキャとはしゃぐ私達に、周りにいた人達からおめでとう!と拍手された。こちらを見上げて勝ったよー!とブンブン手を振る渚に手を振り返せば、残りのみんなも気付いて手を振ってきた。岩鳶高校水泳部、メドレーリレーで地方大会に進出。創部一年目でこの快挙は、部費が増えること間違いなしである。
*
新調した古典柄の浴衣に帯を締め、髪を結ってかんざしを刺す。巾着に財布や携帯など最低限のものが入っているのを確認し、テーブルに置かれた一眼を見る。まぁ今日はカメラ封印ということで。家を出ようとすれば、呼び止められた父親に小さなメモを渡される。見れば祭りで買ってほしいものだった。なんで、と目線を送れば、だって杏奈一緒に行かせてくれないもん、と口を尖らせた。いい年下おっさんが何やってんだよと思いながら明日ならいいよ、と言えば、父はわかりやすく顔を輝かせた。絶対だよーとぶんぶんと手を振る親ばかにちょろいなと思いながら手を振り返して家を出る。何歩か歩いてから右を見れば、ぼんやりと該当に照らされた鮫柄学園の門が見えた。開け放された門からはぽつりぽつりといくつかの男子がひとかたまりになってこちらに向かって歩いてきている。おそらく行き先は同じだろう。イカ祭りだ。電車に乗って最寄りで降り、改札を出ればおや、杏奈君じゃないか!と声をかけられた。私を君付けで呼ぶのは御子柴さんしかいない。何故か大量にいる鮫柄水泳部員に少しびっくりしながら挨拶すると、今日はカメラを持っていないんだなとまじまじと見つめられた。
「はい、浴衣だと動きづらいのて。明日出直して来る予定です」
「そうか……ところで」
私の後ろを気にする御子柴さんに倣って後ろを振り向く。何か居ますか?幽霊などの類を思い出して血の気が引く。いやそうではなくてだな、途端に顔色の悪くなった私に苦笑いしながら、御子柴さんは松岡と一緒じゃないのか、と聞いてきた。
「凛?見かけてませんが……」
「そうか、」
「水泳部で、なにかイベントですか?」
「あぁ、地方大会の必勝祈願だ」
「そうなんですか」
「岩鳶はそういうの無いのか?」
「さぁ…何も聞いてません」
でも探せば多分みんな来てますよ。なんせ近所ですから。ニコリと笑ってそう言えば、では見かけたら挨拶でもしておこう、と御子柴さんは大きく頷いた。杏奈〜!大きく手を振る友達に手を振り返し、ではまた地方大会で、と御子柴さんに挨拶して友達のところへ向かう。二年に入って水泳部に入ってからは水泳部のみんなといる機会が多くなったが、元々は友達が多いほうだと自負している。なぁにさっきの人ー!凄いイケメーン!彼氏ー?きゃっきゃとはしゃぐ友達に違うよ、と否定すればえぇー、告っちゃえよー、と肘でつつかれた。それに苦笑する。タイプじゃないし、それに、告白される予定があるから。ニヤリと笑ってそう言えば、友達はポカンとした後にキラキラと目を輝かせた。近々泊まりに行くから覚悟しときなよ。力強くそう言い放った友達は、さて、と祭り会場を見回した。
「どっからいく?」
「とりあえず、りんご飴でしょ」
イカ祭りと銘打ってるだけあって、露天には様々なイカ料理の屋台が並んでいた。明日からダイエットだー、なんてカラカラ笑ってる友人は屋台を端から端まで全制覇しており、気持ちのいい食いっぷりを見せてくれた。これでカメラがあったら撮ってたのに、なんて後悔する。宿題や夏休みの予定などを二人で話して、近くに遊ぶ約束を取り付ける。ふと気になって携帯を見れば、もうそろそろ終電の時間になっていた。せめて二本前には乗りたいなと思って友達と分かれて駅に向かう。結局ハル達に会えなかったなー、と思いつつホームに立ち電車を待つ。ガラガラに空いている電車に乗り、ドアの近くに席をとって座り、ケータイを開く。荒い画質の画像を見返してため息をひとつつくと、聞き覚えのある声が聞こえてきた。
「どうした、松岡」
「部長、話があります」
俺をリレーに出させてください。静かな電車内で、凛の声はよく通った。思わず携帯から顔を上げて、声のするほうを見る。困惑した顔の御子柴さんと、御子柴に向かってお願いをする凛。きょとん顔の似鳥くん。電車内にいる数少ない人達がそちらを見ていたことに気付いた御子柴さんは、顔を上げろ、松岡、と凛に声をかける。続きは寮に帰ってからだ、と一旦話を打ち切ると、私を見た。慌てて目を逸らして携帯に目を戻した。恐らく凛のお願いは通るだろう。慌ててメールを新規作成させて先程のやりとりを江に送った。閉まり掛けていたドアに気付き慌てて電車を降りる。ゆっくりと動き出した電車の中から、驚いた顔をした凛と目が合う。あのリレーの日から、なんとなく気まずくなって凛とは会っていなかった。一本早い電車に乗った自分に感謝して、次に来た終電に乗り込んだ。のに。
「…………なん、で」
「わりぃかよ」
「………ううん」
最寄り駅で待ち伏せしていた凛にあっさりと捕まった。門限そろそろだし、帰ろうぜ。遠慮がちに伸ばされた手が、ゆっくりと頭を撫でる。ゴツゴツして、大きな、男の人の手だった。
*
ハル達が凛とはじめて出会ったのは凛が岩鳶小に転校してからだったが、私は凛を小さい頃から知っていた。母親同士が高校の同級生であったからだ。同じ年に生まれた子どもがお互いいると知り、私と凛はよく会うようになった。実は私が水泳を始めたのはハル達の影響ではなく、凛のお父さんの影響である。凛とよく一緒に遊ぶようになるということは、松岡家とも関わるようになること。毎年夏にはうちと松岡家で海水浴に行き、凛のお父さん虎一さんに泳ぎを教わっていた。虎一さんはバッタが専門で、凛もバッタを泳いでいたのだが、どうも私にバッタは合わなかったらしく、結局はフリーとバックを泳ぐことになった。毎回凛のところに遊びに行くと水泳をする私に、見かねた母が私をスイミングクラブに入れた。人見知りであった私は一人じゃ嫌だと駄々をこね、その当時は近所に住んでいた真琴を引きずり込み、その真琴がハルを引きずり込み、こうやって三人揃って岩鳶SCに入ることとなったのだ。その直後だった。凛のお父さんが漁に出かけたときに天候が悪くなり、命を落としたのは。その後から、凛は何かに取り憑かれたように水泳に没頭し始めた。
カラン、と下駄が地面を蹴る音が静かな住宅街に響く。私も凛も一言も交わさずにゆっくり家までの道をたどっていた。気まずい。なにか話すべきか、手持ち無沙汰に巾着袋の紐をいじっていた私に、あのさ、と凛がおもむろに口を開いた。
「さっき聞いたかもしんねーけど、俺、地方大会のリレーに出るから」
「うん」
「つっても、タイム出るまでわかんねぇから決まった訳じゃねぇけど」
「そっか」
「あぁ」
夜の住宅街を歩く。ポツポツと等間隔で立っている街灯に、小さな虫が沢山たかっていた。ねぇ凛。そう呼べばなんだ、と凛はこちらを向いた。
「凛はさ、なんのために泳いでいるの?」
「なんのって、」
「虎一さんのため?虎一さんが行けなかったオリンピックに、虎一さんの代わりに行くため?」
「あぁ」
「それは、罪滅ぼし?」
「………え?」
「凛はさ、もし虎一さんが結婚しなかったら、凛が産まれなかったら、虎一さんはオリンピックに行ったかもしれない。でも自分が生まれたから、虎一はオリンピックに行くのを諦めたって思ってる?」
「……………」
「上手く言えないけど、凛が虎一さんの願いを叶えたくて泳いでいるんだったら、私は凛の応援はできない。凛は、凛のために泳ぐべきだと、私は思う。凛がなんのために泳いでいるの、本当の答えを見つけて欲しい……だから、それまで、私は凛に会わない」
「、杏奈っ!」
「じゃあ、おやすみ」
凛のことを振り返らずに家の中に入る。おかえりと出迎えてくれた父にただいま、と返した。明日どうするー?何時から行くー?と話しかけてくる父に、そうだなぁ、と考える。まるで女子高生の会話のようだな、と思った。
*
「杏奈もちんたら泳いでんじゃねぇ!肩をもっと入れろ!」
「えぇー……」
リレーの地方大会出場が決定し、猛特訓を重ねている四人に叱りが飛ぶのは分かるが、何も出ずに遊び半分でダラダラ泳いでいた私まで叱咤が飛ぶのは如何なものか。文句を吐くんじゃねぇ!泳ぐんならしっかり泳げぇ!とさらに声が飛んできた。フリーがハルならバックはお前だ!とどのつまり本気で泳いで欲しいという訳だ。嫌そうな顔をした私に、話を聞いていた渚が顔を輝かせた。本気で泳ぐ杏奈ちゃん、久々に見たいなぁ!あざとくおねだりされてしまって、思わず呻き声が出た。そんな渚に乗っかって真琴も久々に見たいなぁなんて言うしハルは無言で頷いてきた。唯一何も知らない怜がえっ、とキョロキョロしている。はぁ、とため息を一つ。
「江、ストップウォッチ準備して」
「え、……うん!」
「真琴、ちゃんと見てて」
「うん、ありがとう」
ちゃんと泳ぐのは久々で、少し緊張する。念の為にと軽く体をほぐしてプールに入る。ただタイムを計るのも久しぶりである。大きく深呼吸して、スタートに付く。
「On your marks」
ぐっ、と腕を引いて、壁に体を押し付ける。
「Ready……GO!」
手で棒を押しつつ、離し後ろにジャンプをする。ブリッジのポーズをイメージしながら少し体を反らし、手、頭、身体、足の順番で水の中に入り、バサロを行う。あごは少し引き、上半身を動かさず腰から下全体を使って両足で強くキックする。十五メートルを示す旗が見えたところで水面に浮上する。体の軸を意識して、できるだけ遠くへ腕を真っ直ぐ伸ばす。手のひらは外側を向けて、小指から直角で入水するように意識する。足も真っ直ぐと伸ばして力を抜き、ダウンキックを意識。頭上の標識を頼りに体をくるりと回転させ、ターンに入る。先程のことを意識しながら戻るが、やはり最近ちゃんと泳いでいなかった分、体力がだんだんと削られ、スピードが落ちてくる。指先が壁に触れたのを感じて、立ち上がれば、おぉー、と拍手が起こった。いいじゃねーか、褒めてくれた笹部さんに息たえたえになりながら頷き、プールサイドに上がる。
「江、タイム」
「はい!1.09.23!」
「………ちっ」
「お、燃えてきたか?」
「燃えてきたのは間違いないけど。今はハル達でしょ」
フォームもダメだし引き継ぎもダメ。これはもう、と意味ありげに笹部さんに目配せをすれば、大きく頷かれた。日陰で部活の見学をしていたあまちゃん先生をうまく活用して、うちにあったすべての撮影の機材を持って来る。三台のカメラと三台のモニター。翌日から午前中は上と水中と横でそれぞれのフォームの撮影、午後は映像と照らし合わせながらフォーム修正や引き継ぎ修正を行う日々が始まった。
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