05



いよいよセミの鳴き声が本格的にうるさくなってくる頃。県大会まであと二ヶ月を切った。部室で書道を始めた江に、後ろで眺めていたみんなが口々に文句を言う。キレた江に一喝されてみんなは出ていったが、開け放たれたドアから吹き込む風に半紙にあおられて部屋中に散乱した。あぁっ、と悲鳴をあげた江が半紙をかき集めるのを、椅子に座って眺める。

「あれ、杏奈ちゃんは今日泳がないの?」
「うーん、来ちゃってるからねぇ」
「あっ、なるほど!」
「手伝うよ」
「いいの?ありがとう!」

散らばっている半紙を日付け順に並べながら片付けていく。途中で気になった、絨毯から角をのぞかせる紙を、江が引っ張り出した。どうやら冊子のようで、表紙を読んだ江が、ぱぁっと顔を輝かせた。

「杏奈ちゃん!見て見て!」
「んー?岩鳶高校水泳部、地獄の夏合宿 in 無人島……?」
「そうなんです!」

ぱらぱらと冊子をめくった江は、これはみんなに知らせなくては!と部室を飛び出した。どうやら中身はまだ岩鳶高校水泳部が健在だった頃の夏合宿のトレーニングメニューで、持久力を鍛えるために島と島の間を泳ぐ遠泳となっているらしい。部活終に早速あまちゃん先生に合宿の申請をしに行ったのだが、予算がありませんとばっさり。はぁ、と思わずため息が出る。学校を出て、途中にあったコンビニで買ったアイスを江と半分に分けて食べる。でもみんなで無人島合宿行きたいなー、むぅと口を尖らせながら言った渚に、じゃあバイトは?と聞くと今からじゃ間に合いません、と竜ヶ崎くんに言われた。そう言えば、と渚が私を見る。

「杏奈ちゃん、今日荷物多いね」
「ん?これ?」
「どっか行くの?」
「ううん、行かないよ。ハルの家に泊まるだけ。ね」
「あぁ」
「えぇー!ずるいー!僕も泊まりたいー!」

駄々をこねる渚に、何も準備していないだろ、と呆れた顔をしたハルが言う。それより夏合宿はどうするの。脱線しかけた話を戻してあげると、うーん、とみんなは唸る。あ、と真琴なにか思いついたように顔を上げた。

「俺が何とかする。お金をかけずに行ける方法、なんとか考えるよ」

ちょっとハルんちで待っててよ、と言われてハルの家に向かう。あとから届いたメールで居間にあったものを端っこにどかしてスペースを開けると、大量の荷物を抱えた真琴がやってきた。テントに飯盒、バーベキュー用の物などがそこに並べられた。どうやら海辺にテントを張って野宿する算段らしい。キャンプだよ、なんて渚は言うが、私的にキャンプは少し遠慮したい。ひとまず無人島でキャンプしながら合宿を行うことは決まったのだが、肝心の移動手段が見つからない。誰か船を持ってる人はいる?という渚の問いに、全員が顔が見合わせて首を横に振った。その時だった。考え込んでいた真琴があ、と声を上げる。

「笹部コーチ」
「あぁ、船あったね」

結局ピザ一枚分の料金で笹部さんのお祖父さんのイカ釣り漁船を借りれた上に、当日の船の運転まで買って出てくれた。差し出されたハルの力作であるイワトビちゃんをいやいや受け取った笹部コーチの顔を思い出す。じゃあねー!ブンブンと手を振る一年生組に手を振り返した。電車のドアが閉まり、発車する。帰ろうか、振っていた手を下ろして言った真琴に頷く。小さく遠ざかっていく電車をもう一度見て、私は先行くハルと真琴のあとを追いかけた。夕方のこの道を歩くのも、随分久しぶりだった。去年までよく泊まりに来てたよね、心做しかテンションの高い真琴に聞かれてそうだね、と相槌を打つ。隣で歩いていたハルは、ゆっくりと足を止めた。ハル…一緒に立ち止まって呼べば、少し早足で前を歩いていた真琴が振り返った。どうしたの?二人とも。きょとりとした真琴に、ハルと顔を見合わせた。

「本当に大丈夫なのか」
「ちょっと、ハル、」
「海」

ひゅっ、と真琴が息を呑む。私たちがまだ小さい頃に起こった事件のせいで、真琴はひどく海に怯えるようになった。直接的な関わりがあった私もその当時はひどく落ち込んだのだが、それも子供だったおかげで割と早めに立ち直れたが、真琴はそうでは無かった。目を閉じれば、今でも思い出せる。夕暮れの海辺で、白装束を着た大勢の人が行列で港を練り歩くその姿は、私にとって少しトラウマである。大丈夫、もう昔の話だから。そう笑った真琴の顔を見て、ハルは小さくため息をついた。





この島に来るのは初めてじゃない。船酔いで吐きそうになっている竜ヶ崎くんを近くのお手洗いに連れていき、外で待つ。ぼんやりとヤシの木のその向こうにある海をぼんやりとながめていると、どこからが野太い掛け声が聞こえてきた。たしかこの近くに体育施設があったんだっけ、と頭の中で地図を広げて思い出していると、竜ヶ崎くんが出てきた。

「高橋先輩」
「ん、気付いた?掛け声」
「はい、どこからでしょう……」
「この近くに体育施設があるんだけど、そこじゃないかな」

行ってみる?もしかしたらプールで泳げるかもしれないし。そう提案すれば、そうですね、と竜ヶ崎くんは頷いた。二人で横に並びながら体育施設へ向かう。あんまりちゃんと話したことがないから何を話せばいいかわからずに、ザッザッとひたすら草を踏む。ちらりと竜ヶ崎君を見れば、彼もこちらを見ていたようでサッと目をそらされた。ちょっと悲しい。僅かに肩を落とした私に、いや、あの、と竜ヶ崎くんが弁解をする。赤いフレームのメガネをカチャリと押し上げて、あの、と声をかけられた。

「どうしたの?竜ヶ崎くん」
「それです!」
「へ?」
「竜ヶ崎くん、って呼び方は堅苦しいので!」
「おぉう…………」
「出来ればみんなと同じように……その、下の名前で……」

僕も先輩のこと名前で呼びますから!どうだ!と胸を張った竜ヶ崎くんに、もしや、と思う。

「寂しい?」
「なっ、ち、そ、そうです!」

見事な開き直りっぷりである。思い出せば竜ヶ崎くんを除く部員は全員昔からの知り合いなので堅苦しい呼び方はしてなかったなと思い出した。

「そっかぁ、うん、じゃあこれからもよろしくね、怜」
「っ、はいっ!杏奈先輩!」
「あ、ここから見れるよ」

体育施設のプールがあるところは片方の上の方がガラス張りになっており、景観を保つためか小さな林になっているが、そこからプールを上から見ることが出来る。蚊を気にしながら森の中に入りそこから覗くと、見知った人達で賑わっていた。鮫柄学園の…、ポツリと呟けば、怜はみんなを呼んできますから先輩は此処で待っててください!と戻っていった。さすが元陸上部なだけあって足は早い。引き止める間もなく茂みの向こうに消えていった怜を呆然としながら見送りプールに視線を戻した。プールがサイドには御子柴さんが声を張り上げて泳いでいる部員にアドバイスを送っているのだろう。その隣にはマネージャーや似鳥くん、そして凛がいた。泳いでなかったんだ、と少し残念に思っていると、凛がこちらをふいっと見て、固まった。ヒラヒラと手を振ってあげると、どうやら舌打ちしたらしい。隣にいた似鳥くんがぎょっとして凛を見てこちらを見上げた。ぺこりとお辞儀をされたのでこちらもお辞儀を返す。凛と似鳥君の行動に気づいたらしい、こちらを見上げた御子柴さんは私に気付いてぱぁと顔を輝かせた。ブンブンと手を振ってこっちに来いと招かれる。どうせ後でみんなここに来るからと思い、中にお邪魔させてもらった。受付けで説明すれば話は通したのだろうか、すんなりと入れた。プール特有の湿気と塩素の匂いがする。それが懐かしくて思わず笑ってしまった。滑らないように気をつけてプールサイドに向かえば、御子柴さんが嬉しそうにやぁ、と片手をあげた。

「こんにちは、御子柴さん」
「おぉ、こんにちは杏奈くん。偶然だなぁ!」
「そうですね、まさか鮫柄がここで練習していたとは思いませんでした。合宿ですか?」
「あぁ。杏奈くんも水泳部かい?」
「まぁ、そんなもんです」

練習見てくか、と声をかけられてビックリする。ライバル校ですよ?と言えば、君は別さ、と笑われた。どうやら練習風景の写真を撮って貰いたいらしい。部員の士気も上がるからな!とニカッと笑った御子柴さんに小さくため息をついて、ショルダーバッグからカメラを取り出した。私がこちらに移動してくるまでに泳いできたらしい、プールから上がった凛が近付いてきた。一応カメラの事はを気にかけてはくれたらしく、隣に立って名前を呼んだだけにしてくれた。

「なんでいんだよ」
「居ちゃ悪い?」
「別に、気にしねーけど」
「じゃあ練習してこれば?」
「………はぁ、」

隣にいた凛が大きなため息をついたかと思うと、べちゃりと水に濡れた手の甲を頬につけられた。ちょっと!何すんの!カメラから顔を上げて凛に怒鳴りつけるも、何も知らないような顔をしてひらひらと手を振ってプールに戻って行った。





御子柴さんと撮った写真は今度現像したら届ける約束をして、江から送られたメールを頼りにキャンプ場を探す。戻ってくる頃にはもう既にテントは建てられていて、男子四人はきゃいきゃと騒いでいた。遅れてごめんと言って輪の中に戻れば、杏奈ちゃんだけ凛ちゃんと会ってずるーい!と渚にぐりぐりされた。じゃあ高橋さんも戻ってきたことだし、砂浜に置いてあったレジ袋を持ち上げたあまちゃん先生は江と私を見て男子を見た。私達は一旦宿に戻ってチェックインしましょうか。言われて時計を見ればもうチェックインができる時間であった。そうしましょうか、一緒に持ってきた大きめのボストンバッグと画材やら何やらが入った箱を持ち上げると、宿?と素っ頓狂な声が上がった。何で、宿?もしかして、という顔をした真琴にだってぇ、とあまちゃん先生は小首を傾げた。

「女の子が野宿なんて…ねぇ?」
「ねー、」
「うん、野宿反対」

そんなぁ、僕達ってもしかして最下層?渚の悲痛の声が真夏の浜辺にこだました。


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