2-01



まだ少し肌寒い春先だが、ここはいつもムワッと蒸し暑い。裸足になってカメラ片手にプールサイドに江と立っていた杏奈は、ちらりと壁にかけられていた時計に目を走らせる。

「遅いなぁ」
「遅いですねぇ」
「まぁ大方またハルがお風呂に浸かってて真琴が呼びに行ったんだけども鯖焼きはじめた、ってとこかなぁ」
「わぁ、安定の遥先輩」

おーい!写真撮ってくれ!と手を振ってくる御子柴にぺこりとお辞儀を返した杏奈は、周りでグロッキーになっている鮫柄の水泳部員を見た。やだぁ、御子柴さん体力おばけ過ぎじゃないですかぁ、と嫌そうな顔をした。どこかの誰かさんと一緒、と小さや声で付け加えれば、なにか話したことだけは気付いたのだろう、え?と江が聞き返してきたので、なんでもないよ、と杏奈は笑って誤魔化した。が、

「へぇー、」
「やばっ」
「聞こえてんぞ」
「地獄耳ッ!いたっ!いたい、いたい!!」

ぎりぎりと頭を締め付けてくる五つの指に、杏奈はギッと後に立つ凛を睨んだ。バッチリ聞こえてたぞ、としれっと言う彼に、お兄ちゃん、さっきからずっと後ろにいたよ〜と江がニコニコしながら言う。ジーザス。項垂れた杏奈に、凛が言う。

「おばさんから聞いたぞ、今日から学会で二人とも東京だって?」
「えっ、え、なんで知ってるの」
「朝のランニングで会ったからな」
「サ、サヨウデゴザイマスカ」
「つーことで、今夜は楽しいパジャマパーティーだ」
「ひえっ」

外泊届けも受理されたから逃げんなよ。家で大人しく待ってろ。これみよがしにつむじにキスを一つ落として離れていった凛に、思わずカメラを持つ手が緩んだ。これだからオーストラリアでアメリカンナイズされた人は!騒がしかった屋内プールが一部を除いてしんと静まり返る。カメラはネックストラップを通して首にかけていたのが幸いし、うっと首を絞めることになるのだが、そんなことは今の杏奈にはどうでもよかった。キャパシティを超えた人は何をするかわからない。後の凛が遠い目をして言う。顔を真っ赤にしてわなわなと体を震わせた杏奈は、凛がまだジャージなのを幸いに、腰を掴んで力を振り絞って投げた。はぁっ!?ちょっ、杏奈!?言い終わるのを待たずしてバッシャーンと人がプールに落ちる音が響く。同時にプールサイドの扉が開き、真琴が謝りながら入ってきた。

「ごめーん!ハルが……って、どうしたの!?これ!」
「う、うわーん!真琴ー!り、凛がー!」

ぎゅむ、と抱きついてきた杏奈を危なげなく抱きとめた真琴は、よしよしと杏奈の背中をさすってジャージのままプールから上がってきた凛を見る。にゃろ、覚えてろよ。低く唸った凛は、どういう事なの、と咎めるような真琴の目にそっぽを向いて何でもねーよ、と小さな声で言った。わかった!痴情のもつれってやつだぁ!と渚の脳天気な声が屋内プールにこだます。お兄ちゃん、いくら何でもやりすぎよ。呆れたようにものを言う江によれば多分そういうことらしい。顔を真っ赤にしてそんなの二人にはまだ早いよ!と叫んだ真琴に、え、早い?と杏奈と凛が驚いたように真琴を見た。つまりはそういうことであった。





やっぱなんかおかしくない?体育館の一番後ろで首を傾げる杏奈に、やっぱもない。おかしい。とクラスメイトでバドミントン部の部長が真顔で突っ込む。

「水泳部でしょ。去年あんなに輝かしい成績残しといてなにこの部活紹介。筋肉部じゃなくて水泳部でしょ。水泳は!?」
「一応、してるけど」
「あんたが去年せっせと撮り溜めといた水泳部の写真は!?」
「………あ、忘れてた」
「杏奈………」

こりゃ残念だけど今年新入部員来ないぞ?バドミントンのラケットをくるくると回しながらボヤいたクラスメイトに、ですよねー、と杏奈は乾いた笑みをこぼした。ここで注目してもらえないのなら、注目してもらうチャンスを作るのみ。幸い、市民大会が近くに控えている。高橋さんは、どうします?にこにこと聞いてくるあまちゃん先生に、しばらく悩んだ後に、出場しますと答えて市民大会で入賞したものの、今更女子部員が増えたところでやれることは少ない。今年もやっぱりこのメンバーか、桜のプールにはしゃぐ遥達や凛を見て、杏奈はカメラを構えてシャッターを切った。





シャツを着た音なのだろうか、軽い布の擦れる音が聞こえて杏奈はのろのろと起き上がった。ギシリ、とベッドが少し軋み、ベッドサイドに座っていた凛がこちらを振り返った。

「悪ぃ、起こしたか」
「ん…」

先程の荒々しさとは一転、優しい手つきで髪の毛を梳く少し節ばった大きな手に、思わず目を細める。ほら、と差し出された部屋着を着てベッドから降りる。床に散らばった服を拾い集め、それらを洗濯機に入れて回す。それからリビングに行けば、凛がソファーで携帯をいじっていた。

「なんか飲む?」
「おー、じゃあコーラで」
「ないから麦茶ね」
「おう」

透明なガラスのコップに麦茶を注いでソファー前のテーブルに置けば、ありがと、と凛が携帯から目を離さないまま、ぽんと隣を叩いた。ここうちなんですけど、と文句を吐きながら大人しく隣に腰かければ、そういやお前に聞き損ねたけどさ、と凛がやっと携帯から目を離してこちらを見た。

「おまえ、進路どうするの」
「あー、んー、迷ってる」
「へぇ」
「教育もやってもいいなーって思うし、お父さんの手伝いとかで看護もいいかなーって思うし、凛とかハルの為にならって栄養士めざしてもいいかな、と」
「芸大には行かねぇの」
「なんで?」
「お前写真とか絵とかやってんじゃん」
「あれは趣味だよ。学問にして極めるまでいかないもん」

じゃあ聞くけど凛は?こてりと頭を傾げた杏奈に、凛はにっと笑ってみせた。

「決まってんだろ、世界目指す一択だよ」
「でしょうね。具体的にどこの大学行くとかはもう決めてるの?」
「あー、そこまでは。スカウトとか来次第かな、そこの学校の雰囲気を見て決める」
「ふーん、オーストラリア戻っちゃったりして」

くすくすと笑う杏奈に、まぁ選択肢としてはありだな、と凛は笑って言う。ところでなぜこの話題に。時計を確認した杏奈は、立ち上がってリビングに戻った。そろそろ夕飯の時間である。

「俺らもう三年だろ、卒業したらどうなんのかなって思って。こないだ真琴とハルに聞いたんだけどあいつらまだサッパリで」
「へぇ、」

時間いいの?寮の晩御飯食いっぱぐれない?さりげなく杏奈が言ってやれば、今日はこっちで食べるって言っといたしおばさんも知ってる、と返された。ちょっとそれもっと早く言ってくんない。スポーツ選手に適当なもの食べされられないでしょ!そう怒りながら取り出した材料を冷蔵庫に戻して改めて今夜の献立を組み直した杏奈は、で、と凛に話の続きを促した。

「ハルに至っては泳げりゃどこでもいいって言うしよぉ」
「ハルならいいそうな言葉ね」

献立は決まったらしい。米三合、早炊きしといてとの注文が入り、はいはい、と凛はソファーを立った。春キャベツと塩昆布の和え物に生姜焼き、味噌汁にご飯、デザートにはいちごとりんご。途中に帰ってきた杏奈の母親も一緒に手伝い完成させた晩御飯を腹に収め、お邪魔しましたと玄関に立った凛に、私も散歩いってくる、と杏奈も靴を履いた。外に出れば、春先の冷たい空気が肌を撫でる。

「カメラはいいのか」
「うん、午前中にハル達と桜の写真取りまくってたから、今日はそのレタッチ作業。と、受験勉強」
「あー、そういやお前は一般受験になんのか」
「うん。推薦でもいいけど、受験するなら勉強したいなーって」
「普通なら楽にクリアしたいだろ」
「じゃあ私は普通じゃないってことで」

高橋家の目と鼻の先の距離にある鮫柄学園にはすぐについた。寮の門限までまだ少しあるが、いかんせん校門から寮までの距離も遠い。小走りで戻ることになった凛は、じゃあな、と杏奈に手を振って走っていった。


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