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開けっ放しになっていたカーテンから光が漏れこんで顔にガンガンと当たっている。う、と小さなうめき声を一つこぼして起き上がる。大きな横断幕に散らかるポスカ。可愛らしいピンクに塗装された壁に、女の子らしい絵や小物が飾られている。寝起きでしょぼしょぼする目を擦る。

「………ここ、どこだ」





すいません、ほんとすいません。ぺこぺこと誠心誠意謝ると、江のお母さんがいいのよ、とニコリと笑った。ほんと美人。ガン見しながら朝ごはんを受け取り座れば、杏奈ちゃんおはよう!と江がサラダを食べていた。焼きたてのパンにバターをたっぷり塗ってかじれば、何時のバスだっけ、と江がケータイを取り出した。まだ時間に余裕があるはずだよ、スクランブルエッグとサラダを一緒に食べながら言うと、あまちゃん先生が八時半に学校前集合って言ってたよ、と江がメールの画面をほらと見せてくる。時計を見る。八時。待ち合わせの駅前まで、ここからおおよそ二十分。

「江ちゃーーーーん!!?!?」
「ごめんなさーーい!」

あらあら忙しないわねぇ、なんてのほほんと言うおば様にすみませんと大きな声で謝って江の部屋に飛び込む。散らばったポスカを集める一方で、江がわたわたとしながら横断幕を畳んでいた。ポスカを箱に仕舞い終えてから制服を手に取るが二人してん?と首を傾げる。制服の取り間違えが発覚しさらにわたわたすること十分。息絶え絶えになりながら遅刻すれすれで家を出て言った私たちを、おば様から後から行ってらっしゃい〜と手を振りながら見送ってくれた。待ち合わせの場所に着いたのは残り1分という所で、ぜぇはぁと荒い息を吐いていた私たちに、あまちゃん先生は五分前行動はちゃんと心がけましょうね、と言っていたものの、心配そうに水を渡してくれた。やってきた高速バスに乗り、試合会場前に着けば、笹部さんと江の友達の花ちゃんという子が既にいた。屋内ですけど、水泳日和ですね!とあまちゃん先生ににこやかに話しかける笹部さんを見ながら、リュックからカメラを取り出す。レンズカバーを外して確認すると、いつつけたか分からない大きな指紋がキレイに写っていて思わずムッとした。一緒にケースに入れているはずのレンズ拭きを探そうとケースを漁るが、感触がしない。よくよく思い出せば江の部屋の机の上に置いていったことを思い出して思わずうなだれた。落ち込んだ江が私にどうしたの?と聞いてきたから説明したあとにメガネ拭きはない?と聞くと、江は申し訳なさそうに首を横に振った。色々聞いてみたのだが、その他の知り合いも全員持っていないと言う。そう言えば近くに百均あったわね、というあまちゃんの言葉通りに開店直後の店に飛び込んでメガネ拭きを買って帰った頃には、会場の周りにあった大勢の生徒は消えており、まばらに人がいるだけだった。正面玄関に回って入ろうとしようとしたところ、目の前の関係者出口から黒いジャージを着た人が丁度出てこようとしていた。見覚えのある顔だった。

「…………ん?凛?」
「…………………」
「ちょっと、凛」
「杏奈か」
「杏奈か、じゃないよ。試合、もう終わったの?」
「…………………」
「え、終わった?」
「るせぇ!ついてくんな!」

あまりの剣幕に、思わず目を丸くしてしまう。付き合いはそこそこ長いと自負しているが、このように怒鳴られたのは生まれて初めてである。あまりの怖さにやばいと口元を引きつらせた。ちょっと手震えてるかも。ぎゅうと震えをいなすように両手を握れば、あっ、と凛はその綺麗な顔をわかりやすく顔をくしゃりと歪めた。

「わりぃ」
「う、ううん」
「じゃあ」
「え、ちょっと、」
「ついてくんな」
「えぇー」

だっと走っていった凛の後ろ姿を呆然としながら見送ってしばらく、慌てた様子のハルが飛び出してきた。

「杏奈っ!」
「あ、ハル」
「凛を見てないか!」
「見たよ」
「どこいった!」
「あっち。ねぇなにがあったの?」
「ありがとう、もう行く!」
「えぇ、ちょっとハルー?」

ハルが走り去ったのを見てしばらく。リレー間に合うのか?と首をかしげつつ中に入ろうとした私が振り返れば、丁度出てこようとしていた真琴達とばったり遭遇した。あ、えっと、と少し口ごもった真琴は、ちゃんと時間までは戻ってくる!はず!と言い残して渚と怜と共にハルのあとを追うように走っていった。なんだこれ、大丈夫か。会場内に入って応援席に行けば、やたら焦っている江達がいた。

「あ、杏奈ちゃん!遥先輩達見てません!?」
「見たよ。走ってったけど何かあったの?」
「あったっちゃーあったって言うか、」

お兄ちゃんが。困ったような顔をした江がざっくりとことのあらましを話してくれた。

「は?凛がなんだって?」
「スタートから出遅れて、最下位に……」
「………」

最下位、その言葉に思わず眉を顰める。スタートを出遅れるなんて普段通りの凛であればあぁはならないはずなのに、と唸ると、それより!と江が私の両腕をガシリと掴んでゆさゆさと揺らし始めた。

「遥先輩達、どこに行ったんですか!?このままじゃ競技に間に合いません!」
「うえ、ちょっ、江ちゃん激し、吐く」
「間に合わないんです〜!」
「えぇー、私に、っぷ、言われてもー!走っていった方向しか分からないし!」
「杏奈ちゃん〜〜〜!」

こんなに手っ取り早く部費を入れる方法、ハルがホイホイ捨てるわけないでしょ。戻ってくるって。喉元にせり上がってくる酸っぱいものを押さえながら言うと、そうだけどぉ、と江が涙目で手をやっと下ろしてくれた。男子メドレーリレー、とのアナウンスが聞こえ、不安そうにプールサイドを見ていたあまちゃん先生があ、と声を上げた。

「間に合ったみたいよ、ほら」
「ほんとですか!!よかったぁ〜」
「ほら、言ったでしょ…………ん?3人?」

青とピンクと緑のゴーグル。紫のゴーグルが見当たらない。この場合1番遅刻しなさそうな怜が見当たらないことに嫌な予感がしたが、開始を告げるホイッスルの音で有耶無耶になってしまった。頑張れー!と応援するみんなを横目に、岩鳶の待機列を見る。紫のゴーグルのはずが何故か赤いゴーグルに変わっている。体つきもこの間見た怜のものでは無い。いやというかむしろあいつは……。静かに誰かが横に立った気配がして見れば、そこには今そこでバトンを受け取るためにジャンプ台に立っているはずの人間がいた。あ?と思わず低い声が出た。





失格に終わった地方予選。空の夕焼けが美しいなと真面目な顔で現実逃避しながら大会委員のお叱りを右から左へと聞き流す。申し訳ございません、とペコペコするあまちゃん先生に心の中で拍手を送りながら、会議室から一言断ってから出れば、ポケットに入れていたケータイが震えた。試合どうだった?母親から来たメールに家に帰ってからじっくりと話すねと返して会場の近くをぶらぶらしていると、図らずしもばったりと遭遇してしまった凛がピタリと立ち止まり、こちらを見て顔をこわばらせた。左下を見ながらおう、と声をかけてきたので、はいどうも、と返した。あんさ、首を触りながら、凛が何かを言い淀む。正直待ってられるか、と思っている。

「私さ、待ってるんだ」
「………っ」
「もうすぐもうすぐって言われてそのもうすぐまってるんだ」
「…………」
「別に?誰かさんがヘマしたから告ってもカッコつかないとか思ってないし」
「……お前が良くても、俺が悪ぃんだよ」
「あっそう?じゃあ私はいつまで待てばいいの?来年?再来年?そんなに時間かかるならこないだうちのクラスの男子からの話承諾しちゃうけど」
「っ、お前な!」
「じゃあ私から言うね。凛、好き。つきあ」
「だぁあ!やめろ!俺から言わせろ!」
「はい」

お前な、大きなため息を吐いた凛はガシガシと頭を掻いで近づいていた。広げた大きな腕を私を抱きしめて、凛のおでこが私の頭に乗っかる。サラリと落ちた髪の毛が頬を滑ってくすぐったい。

「なぁ杏奈」
「ん」
「俺さ、ずっとお前が好きなんだよ」
「知ってる」
「付き合ってくんね?」
「ん、いいよ」

これからよろしくね、と言いながら凛背中に腕を回せば、ありがとう、と凛が小さく一言呟いてさらに抱きしめてきた。ねぇ?少し汗臭い凛のニオイを胸いっぱい吸い込みながら声をかけると、やめろよ、と凛がおでこをぐりぐりとさせた。

「もういっかい聞いていい?」
「んだよ」
「凛は、なんのために泳いでるの?」
「………俺は、」
「うん」
「俺は、泳ぎたいから泳いでる」
「うん」
「親父の代わりにじゃなくて、俺がオリンピックに出たいから泳ぐ」
「うん、そっか」
「あぁ」
「なら、安心した」
「そうか」
「うん」

松岡先輩〜!凛を探しているであろう似鳥くんの声が聞こえてきて、凛がビクリと震えた。ゆっくりと離れていった熱に少しの不満を抱きながらも凛から離れれば、拗ねんなよ、とぴんと長い指がおでこを弾く。

「もう会えねーってわけじゃねーだろ、学校帰るだけだろ」
「知ってますよーだ。拗ねてません」
「へぇ〜そーかよ」
「そうです」
「……はぁ。ま、夜にいつもんとこで会おうぜ」
「ん」
「夏休みに入ったら遊びに行くか」
「行く」
「おう。じゃあ夜な」
「またね」
「はいよ、あ、」

こちらを背を向けて歩き出していた凛がなにかに気付いて戻ってくる。どうしたの?そう言おうとした口に、ふにゃりと柔らかいものが当たった。

「っは、」
「じゃーな、杏奈」
「〜〜〜っ、凛の、バカ!」





夏休みに入った校舎は音楽室やグラウンド、体育館以外は閑散としている。それは私達がいるクラスも同じことで。黒板に白いチョークで書かれた松岡凛という文字を背後に、凛が何もかもあきらめたような目で教室の奥をじっと見ていた。

「はじめまして、松岡凛と言います。鮫柄学園から来ました。女みてーな名前ですが、男です、よろしくお願いします」
「んー、なんか違わない?」
「零点、もっとやる気を出してください」
「昔の凛はもっとこう……」
「さわやか?」
「愛嬌?」
「そう!」
「うるせぇ!そもそもお前らがやれっつったんだろ!」

バンと教卓を叩いた凛が言い終わるも同時に、ガラリと教室のドアが開いた。ちょっと、少し怒り顔の江ちゃんと似鳥くんは、合同練習が始まりますから早くしてください!と催促に来た。じゃあ行くか!真琴の声にハルがそそくさと席を立ち、渚がそうだねー、とその後ろをついていく。お先に失礼します。怜が教室を出ていった。じゃあ二人ともできるだけ早くね、笑顔で教室を出ていった真琴にはーいと返事をして、私は席を立ち上がった。甲子園の地区一次予選を1回戦負けし、3年生が抜けた新生野球部が、炎天下の中走っているのを窓枠に肘をつきながら眺めていると、凛が横にやってきた。

「黒いポロシャツって、暑そう」
「あちぃ」
「………」
「………」
「凛も岩鳶だったらなー」
「んだよ」
「なんでもない」
「あっそ」

夏の湿った風が、カーテンをふわりと揺らした。パタパタと揺らめくカーテンの端を掴んだ凛がなぁ、と声をかけてきたのでなに?とそちらを見れば、凛の唇が近付いて来ていた。カーテンの中で、ゆっくりと唇を合わせる。セミの鳴き声とか、グラウンドの掛け声とか、自分と凛が制服でいることとか。自分が学校でキスしているという背徳感に、ぞくりとした。ゆるりと離れていった唇に、はっ、と短く息を吐いた。いつの間にすがりつくようにして凛のポロシャツを握っていたことに気付き、思わず顔を赤くして俯いてしまう。凛って案外ロマンチストなんだね、照れをごまかすように早口でそう言えば、そうだな、と掠れた声で言いながら、凛はその大きな手の平で私の頬を撫でた。少し身を屈めた。

「だめだよ、誰か見てるかも」
「誰も見てねぇよ。見えねぇし」

それより目ぇ閉じろ。耳元て聞こえてきた凛の声に、ゆっくりと目を閉じる。いい子だな。サラリと私の髪の毛に手を差し込み梳きながら、凛はもう一度、私の唇に彼のをそっと重ねた。


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