09



おい杏奈、お前早く入ってこいよ。こちらを振り向いた笹部さんが聞いてくるが、どうにも入る気にはならない。そもそも真夏に鍋ってどういう事だ。死んだ魚のような目をした私を、さっ、杏奈ちゃんも行きましょ!と江が背中を押す。あまちゃん先生の隣に座れば、渚と笹部さんがふすまを閉めた。

「閉めるの!?」
「閉めるって、ゴローちゃんが」
「閉めるに決まってるだろ!」
「サウナ入った方が早いんじゃないかな、これ」
「はは、は……」

ほら食え!差し出された真っ赤なお茶碗をまじまじと見る。食べ物に罪はない。ただ暑すぎて食欲がないだけ。これだけ食べてさっさと退散しよう。意を決して白菜を口に入れた。

「………ん」
「どうだ?」
「美味しい」
「だろ!俺が水泳部の時に開発したんだぜ!」
「へぇー……」

色から見た感じピリ辛キムチ鍋かと思いきやトマト鍋であった。味が気に入ったらしくもりもりと食べる渚を横目に豆腐と白菜をお茶碗に入れる。それを目ざとく見つけた真琴が他のも食べなきゃだめだよ、とえびとカニの足を一本お茶碗に入れてきた。真琴と軽く睨みつつ、それを口に入れる。鍋の中に追加の食材を入れながら、そういえば、と笹部さんが口を開く。

「杏奈オメェ、最近凛とはどうだ?」
「何が?」
「何がって、会ってねぇのか」
「会ってない。会わないようにしてる」
「お、別れたのか?」
「待って、なんで別れたのかなの」
「え、お前ら付き合ってないのか?」
「逆になんで付き合ってると思ってたの?」
「うっそぉ!てっきりボク凛ちゃんと杏奈ちゃん付き合ってると思ってたのに!」

ガタンとこちらに大きく身を乗り出した渚に同意するように、四人がうんうんと頷く。何をどう見たらそう見えるのか、しばし討論会を行う。学校と家が近いため、たまに凛の夜のランニングと鉢合わせしてお話しているだけだと言えばそんな事ないでしょ!と一蹴される。どこか一緒に遊びに行ったり、してないの?キラキラした目で問いかけくる江に苦笑いしながら残念ながらないよ、と答えれば、目に見えて落ち込んだ。話は本人を蚊帳の外にどんどん盛り上がっていき、段々と居た堪れなくなった。これで実は近くに凛に告られるかもしれないなんて言ったらで出歯亀されるに違いない。言わなかった少し前の自分にホットしながら、それより、と話を変える。居間の端に置いてあったカバンを取り、仲からポーチを取り出す。

「今日の用事はこれでしょ!」





いよいよ近くに迫った地方大会の他校の選手分析を終え、ハル達は持ってきた花火を庭で遊び始める。切り分けたスイカを居間に置いてからキッチンに戻り、江と二人で食器を洗う。軽く流してから食洗機に入れ、洗剤を入れたらもうおしまい。こちらに残したスイカを二人で話しながらかじる。江による、凛の筋肉がいかにすごいかという話ををぼんやりと聞き流しながらキッチンにおいてある本棚を見た。笹部さん、というか男性らしい青年誌やら何ならがラインナップされているそこに、下の方の端っこに金の箔押しがされた青い冊子を見つけた。気になって思わず手が伸びる。

「それで、その時の上腕二頭筋が……!って、杏奈ちゃん?」
「江ちゃん、これ……」
「わぁ!懐かしい!みんなに見せてこよ!」

見てー!とアルバムを持って行った江に、みんながわらわらと集まる。凛が岩鳶SCに入る前から撮られた数々の写真を見ながらみんなあーでもないこーでもないと話していた。先に全部見てしまった私は、後ろから彼らの姿を眺めていたが、ふと怜がいないことに気づいた。そこ少し後ろに目を向ければ、そこには何とも言えない顔をしている怜がいて。パチリと目が合うと、怜は気まずそうに私から目をそっと逸らした。庭には彼らが先程まで遊んでいた花火が散乱している。花火かぁ、と思わず懐かしくなる。最後に遊んだのは、小六の夏だった。凛と、凛と同じ佐野SCの山崎と、誰が一番長く線香花火を長く持たせるか、と。ハル達はまだアルバムを懐かしそうにめくっていた。ポケットから携帯を取り出す。

「私、先に帰るね」
「え?大丈夫なの?」
「うん、そこの線香花火、ちょっと貰ってくね。じゃあ、また」
「うん、バイバーイ」
「気をつけて帰ってね」
「はーい、わかりましたー」

あまちゃんの言葉に返事を返して笹部さんの家を出る。線香花火の入った袋をくるくると回しながら駅までの道を歩く。ポケットから携帯を取り出して、少し唸った。こうなれば仕方がないのだ。わがままでも都合が良いでもなんでも言っとけ。件名にに一時休戦と打ち込んで文章を作成した。最寄りに着き、電車から降りる。改札を出て少し歩いた公園に入れば、ちょうどもう一つの入口から凛が入ってきていた。立ち止まって思わず見つめあってしまう。かさり、と手の中の袋が音を立てた。

「線香花火、やろ」
「……………おう」


ゆらゆらと頼りない光を灯すキャンドルの上で、パチリパチリと火花が散る。凛と二人で肩を寄せ合いながら、一つずつ線香花火さばいていった。終わったものは先程凛があけたコーラの缶に入れる。線香花火を先に消してしまった凛が袋から新しい線香花火を出して、私のとくっつける。火元をもらった凛の線香花火は、しばらく燃え始めてから火花を散らし始めた。なぁ、と凛がおもむろに口を開いた。

「俺と会わねぇんじゃなかったのか」
「言ったじゃない、一時休戦だって」
「そう」
「………ごめん」
「あ?」
「ううん、なんでもない」
「あっそ」

沈黙が訪れる。居心地悪くなって身じろいだ振動が伝わったのだろう、ぽとん、と私の持っていた線香花火の火玉が落ちた。あ、と小さく声を漏らせば、こちらに気づいた凛が私の手の中にある火の消えた線香花火を見て勝った、と言ってにやりと笑った。無言で袋から新しいのを取り出して凛からもらい火をする。パチパチと火花が散った。

「こないだ、言いすぎたかも。ごめん」
「ん、」
「それだけ」
「………そうか」
「私は凛じゃないから、凛がどんなことを思いながら泳いでいるかなんて知らない。でもあの日」

あのリレーの日。プールサイドでリレーを見ていた凛のあの表情。

「羨ましかったし、悔しかったし、懐かしかったんだなってのは分かった」
「…………」
「凛は、どうして凛は急にリレーを泳ごうと思ったの?」
「俺は………」

なぜ、と一生懸命凛が考えている。口を開いては閉じてを繰り返しては、もどかしそうに頭を掻く。なにか言おうと凛が声を発したその時、重厚なクラシックが流れ始める。無伴奏チェロ組曲第一番。私の携帯の着信音だった。ポカンとしている凛にごめんと謝って携帯を開けば父親からメールが届いていた。今どこにいる?短い一文に時計を見ると、時間は鮫柄の門限時刻が迫っていた。最後の一本出会った線香花火から玉がぽとりと落ちる。それを合図に、凛は立ち上がった。ん、伸ばされた手を掴んで立ち上がれば、そのままぐいと引っ張られる。気付けば、わたしは凛の腕の中にいて、抱きしめられていた。トクン、トクン、と凛の鼓動が聞こえる。

「ハッ!今何時だ!?」

ガバリと勢いよく起き上がればいつの間にか部屋に帰って布団に入っていた。カーテンの閉められた窓からは夏の日差しが部屋に漏れこんでいる。時計を見れば、もう部活が始まる九時はとっくに過ぎていた。部活に行くべきか行かないべきか。機材はすべて学校に置いていったし、どうせ部活に江はいるし今日はサボろうかな。一応真琴に部活を休むことを伝えて頭の中で予定を立てる。久々にショッピングに行こう。処分されているであろう春物、これから必要になる夏物、もしかしてフライイングで売られている秋物。そして夏に大阪で会う予定になっている友達のことを思いながら下に降りてリビングに入る。今日は寝坊したわね、部活は行くの?朝のワイドショーを見ながら尋ねてきた母に休むことと買い物に行くことにしたことを伝えるとじゃあお小遣いあげるわね、と部屋を出ていった。その間に朝食を食べて着替える。お小遣いをもらって家を出れば、ちょうど目の前を今部活に出ているはずの人間が通って行った。

「怜、何してんの?」
「う、わぁっ!?って、杏奈先輩………なぜ………」
「ここ、うちの家」
「………本当に鮫柄の目の鼻の先なんですね」

うちと鮫柄学園の校門を交互に見た怜は、あの、ですね、とじどろもどろに話し出した。どうやら昨晩ハルから彼らのあいだに起こったことを話してくれたらしく、今日は凛に話を聞こうと来たらしい。杏奈先輩は知ってましたか?と聞かれて知ってたよと頷くと、怜は驚いた顔をしてこちらを見た。

「なぜ、言わないんですか?」
「言ってどうするの。だって凛とハルの問題だよ。私が口出ししても多分余計にこじれるだけ。火に油、だよ。それに」
「それに?」
「私、男子じゃないし」
「………………」
「男子のことは男子でしか解決出来ないと私は思ってる。だからこうやって怜が凛に話を聞きに来ようとしてるのをみてちょっと感動したし、ほっとしたよ。怜なら出来る。見守ることしか出来ないけど、応援する」

がんはれ、と背中を叩いてやると、怜はクシャリと顔を歪めてはい、と頷いた。あの、杏奈先輩。小さく呼ばれ名前になに?と返すと、凛さんとの話が終わったら、僕の話を聞いてもらえませんか、とお願いを零した。いいよいいよ。何もアドバイス出来ないけど、話だけは聞いてあげる。ぱぁと顔を輝かせた怜に、そのまえにわたしのかいものにつきあってもらうけど、と付け加えれば、面白いようにぴしっと固まった。


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