ボリショイからの仕事はなくても、ほかのバレエ団からは仕事がどんどん舞い込んでくる。母校であるワガノワの特別講師に、フランスオペラ座やイギリス王立バレエ団、マリインスキーでのゲスト公演、日本でのワークショップ、さらには日本のテレビの密着取材。詩織とユーリと共にリリアのスパルタなバレエレッスンを受け、リンクへ移動している勇利とユーリは、取材スタッフと共に前を歩く詩織を眺めていた。

「いつもこんなんですか?」
「そうですね、最近はちょっと暇になりましたけど、暇になった分ほかの仕事が入ってくるので前とは大して変わらない気がします」
「今年はフィギュアスケートの勝生選手の振り付けも担当していると?」
「暇だって言ったらじゃあやってくれって。素敵でしょ?」
「そうですね」
「あ、練習は見せられないよ?」
「残念ですねぇ」
「ふふふ、見てからのお楽しみってやつです」

唇に人差し指をあてて笑った詩織に、スタッフは一瞬動きを止めた。それに気付くこともなく、ということでグランプリファイナルシリーズ見てくださいね、なんて言ってカメラに向かって手を振った詩織に、我に返ったスタッフが宣伝お上手ですねなんて笑う。

「おいカツ丼」
「ん?なに?」
「オマエ、顔怖いぞ」
「え、そう?」

普段通りだよ、なんてカラカラ笑った勇利を、じっとユーリは見つめる。

「ん?どうかしたの?ユリオ」
「……いや、なんでもねぇよ。つか、テレビの取材ぐらいよくあることじゃねーかよ」

お前も受けたことあるだろ、と聞けば、デトロイトにいた頃にね、とげんなりしながら言う勇利に、ユーリは不思議そうな顔をした。

「ほんとに名前通り情熱的なんだよ。僕の時は半年密着って言って片時もそばを離れなかったからね?」
「離れずにそばにいてってか?」
「誰もうまいことを言えとは言ってない。でも、こんなに詩織に密着しときながら映像が三十分未満なのが解せないんだよね。せめて一時間とかさ」
「…………」
「ん?どうかした?」
「ヴィクトルも同じこと言ってた」

その時のことを思い出したのだろう、苦虫を噛み潰したような顔をしたユーリに、勇利はからからと笑った。リンクはもう目の前だ。ここからは立入禁止なので、じゃあ本日はここまで。そう言ってドアの向こうへ消えた詩織の後ろ姿を撮っているスタッフの横を通り過ぎた勇利は、笑顔でお疲れ様でした、と日本語で声をかけてユーリと共にドアをくぐった。Боюсь,隣から聞こえてきたロシア語に、そんな事ないよ、なんて返事しながら。







変装の帽子とメガネをしながら、ネフスキー大通りの最初の角に寄りかかる。ポケットからスマホを出していじっていれば、パタパタと足音が聞こえ、目の前で止む。音につられてヴィクトルがそちらを見ると、目の前で足を止めた女性はふぅと一息吐いてから顔を上げた。黒いフレームに囲まれたレンズの向こう側から、ヘーゼルの瞳が覗く。光加減や見る角度からはブラウンにもグリーンにも見えるその瞳が、一回、二回と瞬いた。

「ごめん、待った?」
「大丈夫。ちょっとしか待ってないよ」
「やっぱり待ってるじゃない」

クスクスと笑う詩織を見て、ヴィクトルもつられるようにして笑う。さ、お手をどうぞ?お姫様。手を差し出しながらそう言ったヴィクトルに、じゃあ皇帝様にエスコートしてもらおうかしら、と詩織はおどけて手を重ねた。繋いだ手をぶらぶらさせながら観光客で賑わう通りを歩いていると、ぴろんと詩織のスマホが鳴る。開けばメッセージはマリインスキーに所属したアカデミーの友達で、近くにいるのなら見に来てよ、というものだった。どうやらスマホの友達を探す機能で現在位置を調べたらしい。プライバシーも何も無いわね、と呆れたながら画面を見せると、じゃあ見に行こう、とヴィクトルはタクシーを呼び止めた。この時期はジゼルらしい。劇場に着けば話を聞かされていたらしいスタッフに連れられ、ロイヤルボックス席に押し込められた。会場が暗くなってから変装を外したヴィクトルは、隣にいる詩織を見た。少し見身を乗り出すようにして座っており、その目は純粋に劇を楽しもうとする観客の目ではなく、むしろどこか気迫迫っていた。視察って奴かもしれない。椅子の手すりに置かれてた詩織の手に上から自分のを重ねて親指でその背をゆっくりと撫でると、ぴくりと反応したその手はゆっくりとひっくり返り、応えるようにぎゅっ、ぎゅっと握られた。こういう事をされ返されるのが初めてで観劇そっちのけで詩織に構い始めるヴィクトルに、詩織が席を立って移動するまであと三分。







「ユウリ、違う違う!」
「えー、じゃあヴィクトルがやって見せてよー」

ところ構わず遊び始める師弟コンビにげんなりして休憩に入ったユーリは、リンクサイドでぼんやりとふたりを眺めていた詩織を見つけた。その随分不服そうな顔が珍しく、ユーリは一口飲んだドリンクのボトルを詩織の頭の上に置いてみた。ん、と少し身じろいだ詩織は、頭の上に置いたボトルをとってユーリを見る。

「どうしたの、ユーラチカ」
「顔ブッサイク」
「…………ひどいなぁ」
「……なぁ」
「ん?」
「……どっちに妬いてんだよ」

ユーリはこの顔を知っている。ミラが本当に好きだった彼氏が浮気をしていた時に愚痴をしている時に見る顔だ。妬いてんのか、ユーリの言葉にきょとりと目を瞬かさた詩織は、そうだね、と否定することなくすんなりと肯定した。

「どっちにも」
「はぁ?」
「勇利は幼馴染だし、ピチットっていう選手と仲が良かったことは知ってるし、いやてか私もピチットと仲良いいし、それでも勇利のことは勝生家よりはじゃないけど知ってるつもりだったし、つまりは私が勇利の一番じゃないけど理解者だってことを自負してたんだけどさ、」
「言ってることめちゃくちゃだな」
「………なのにさ、ヴィーチャが」

一年しかいなかったのに、あんなに仲良くなって。全部かっさらわれた気分。私の方が勇利のこと好きなのに。そう言った詩織に、こりゃカツ丼が聞いたらぶっ倒れるだろうななんて考えてユーリはそれで?と続きを促す。

「それで……ヴィーチャも……」
「カッ攫われた?」
「………うーん、分かんない」
「お前な」
「最初会った時って、ユーラチカは知らないだろうけど、小学生と中学生だったの」
「おう」
「だからあの時はただ優しくしてくれるお兄ちゃんぐらいしか思ってなかったんだけどさ、」

詩織が親指でゆるりと撫でた人差し指には、イエローグリーンのダイヤが埋まっているピンクゴールドの指輪が嵌められている。最近するようになったその指輪はどうやらヴィクトルからのものらしく、指輪に埋まっているダイヤはヴィクトルのと同じく、詩織の髪の毛から出来ているものらしい。嫌だよなんか気持ち悪い、と詩織は最初付けるのを断っていたが、ヴィクトルがあまりにもしつこく付けてくれと懇願してきたため、詩織が折れて付けてる次第である。こうして見れば詩織とヴィクトルがくっつくように思えるが、ユーリは勇利と詩織のことも思い出してみて、そっちもなかなかしっくりくると思った。確か詩織が勇利とシェアハウス(決して同棲ではない)を始めた頃に引越し祝いで遊びに行ったのだが(今でもちょくちょく遊びに行ってるが)、あのふたりはお互いのことを理解し尽くしていて、名前を呼ぶだけで相手の希望を叶えていた。ゆ〜とぴあかつきにいた頃に読んだ某青いネコ型ロボットに出てくるあれに似てる。ツーカー錠。ツーと言えばカーと返ってくる。もし結婚するとしたら勇利の方がやりやすい。ヴィクトルとしても国際的な問題が山積みだし、ロシアはこの皇帝様をやすやすと日本に手渡さないのだろう。

「ボリショイに所属決まってから、かな」

言葉を続けた詩織に、ユーリは意識を引き戻した。目の前のリンクでは依然としてあの師弟がゴタゴタ何かを言っている。ボリショイに所属が決まったのは五年前。ユーリはその日のことをよく覚えている。めずらしく浮かれたヴィクトルに買い物に連れ回されていたのを。はぁ、と聞こえてきたため息に、ユーリは詩織を見た。

「ヴィーチャが勇利のコーチになるって決めた時にさ、ロシアでいっぱい言われてたじゃん。ヴィクトルを誑かした東洋の悪魔って」
「…そんな事も、あったな」
「ヴィーチャの気持ちを受け取りながら返事しない上に、勇利の好意を知っていても知らんぷりしてて。私の方がよっぽど誑かしてるし、」

勇利よりよっぽど悪魔だよ。そう自嘲した詩織に、カツ丼からの好意気付いていたのかよ、とユーリは心の中で驚いた。

「なぁ」
「なに?」
「お前さ、どっちが好きなんだよ」
「え?」
「だから、どっちが好きなんだよ」
「………………」

ユーリ・プリセツキーにとって、シオリ・ユウキは姉のような存在だった。小さい頃、自分とじいちゃんしかいなかったユーリの小さな世界に入ってきた詩織は、家族を知らなかったユーリに家族愛をくれた。ダメなことをしたら怒られ、いい事をしたら褒める。ユーラチカのおじいちゃんはユーラチカを甘やかしすぎてるのよ。少し怒った様子の詩織の顔は、今でも目を閉じれば思い浮かぶ。今となって、ユーリにとっては大きな黒歴史になるのだが、モスクワからサンクトペテルブルクに移った最初の頃、じいちゃんに会えなくて寂しくて泣いていたユーリを慰めてくれたのも詩織だった。布団にくるまってぼろぼろと泣くユーリを抱きしめて、ユーラチカは男の子だから簡単に泣いちゃダメよ、寂しかったら私のところに来ていいから。私をお姉ちゃんだと思っていいから。そう慰めてくれた。その一言がユーリをどれだけ救ったか、詩織は知らないのだろう。だから昨年のアガペーはじいちゃんを、そして詩織を、そしてほんのちょっと(ほんのちょっとだけ!)家族を思って滑っていた。ヴィクトルがそれに気づいていたのかどうかは知らないけど。どうなんだよ、もう一度聞くと、詩織はすこし唸った。

「どっち、も」
「ふぅーん……それでいいんじゃね?」
「へ?」
「なんで今答えだそうとしてんだよ。どっちも好きならどっちも好きでいいんじゃねーの。今はそれでいいんじゃねーの?本当にどっちが好きで、どっちと付き合いたくて、どっちと結婚したいとか今すぐ結論出さなくてもゆっくり時間をかけて考えりゃいーじゃん。お前まだ若いだろ」
「…………ユーリの方がよっぽど若いわよ?」
「あたりめぇだ!」

そう叫んだユーリに、詩織はくすくす笑った。ユーラチカに話聞いてもらえる日が来るなんて思わなかったよ。そりゃ私も歳をとったねぇ、なんてのほほんと言った詩織に、おう、とユーリはぶっきらぼうに返した。

「別にどっちとくっつこうが俺には関係ねぇけど、俺は、お前の困ってる顔は見たくねぇし、ってか、お前には幸せになって欲しいし、だから…………まぁ、なんかあったらいつでも言えよ……………姉貴…………チッ」
「!!」


驚いて目を丸くした詩織に、練習戻る!と耳を真っ赤にしながら叫んだユーリがリンクへ戻っていく。しゃっ、とエッジが氷を削る音を聞いて我に返った詩織は、壁から大きく身を乗り出した。

「〜〜〜〜っ、ありがとう!!私の可愛いユーラチカ!!」
「っ、うっせぇ!だまれ!!」


プリンシパルの苦悩


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